ひらひらと風に揺れる暖簾。
端には墨で控えめに“そばいち”と書かれている。
その暖簾を、癖のある色素の薄い髪が潜る。
ガラガラ、と戸が軽快な音を立てる。
敷居をまたぎ、店の中へ入る人影。
「いらっしゃいませ!」
それと同時に、明るい声が店内に響いた。
昼食には遅い時間、店内に客の姿はまばらだ。
店へ入っていった男と、迎えた娘の視線が合う。
「またお蕎麦ですか?」
「えぇ、好きなんですよ」
「うちにとっては嬉しいことですけど、何処か具合でも悪いんですか?」
「そんなことは、ありませんよ。親父さん、盛り蕎麦を」
「はいよ」
男はカウンター席に落ち着くと、品書きも見ずに注文した。
娘は納得できない様子でお冷とおしぼりを出す。
「薬学生なんですよね?」
「そうですが」
「自分の健康には気を付けないんですか?」
「それじゃあ、まるで蕎麦が身体によくないと言っている様にしか、聞こえませんよ」
「そんなつもりじゃなくて、もっとガッツリ食べないのかなって」
「俺にはこれで、十分なんですよ」
そう言っても、娘の不満そうな顔は変わらない。
「ずっと聞きたかったんですけど」
「はい」
「その髪は、染めてるんですよね?」
「…」
男はちらりと娘に視線を向ける。
「まさか、不健康だから色素が抜けたと、思っているんですか」
「え…」
どうやら図星をついたらしい。
「地毛、ですよ。生まれつきこの色です」
「生まれつきですか!?」
目を丸くする娘。
「家が、薬の行商をしている家系で…」
「それって、“先祖代々、色々飲んできたから”とか言っちゃいます?」
男は無言で目を細める。
「え…?」
男の反応に娘は絶句する。
「おい」
「あ、はぁい」
奥から声がかかり、娘がそちらに身体を向ける。
「あれ…?」
「いいからだしてやれ」
「うん」
娘は、男の前に盆を差し出した。
そこには、盛り蕎麦にはない天ぷらが付けてあった。
特に目を引いたのは、堂々とした海老。
「…。俺は盛り蕎麦を頼んだはずですが」
「常連さんへのサービスだって」
娘が奥にいる店主を示しながら笑う。
「お父さん、あぁ見えて義理人情に厚い人なんです」
「はぁ…」
「さ、遠慮しないで食べてください」
「はぁ…」
ため息とも返事とも取れない言葉を吐き出して、男は箸をとった。
「どうしてだろう…」
男が静かに蕎麦を啜っていると、不意に娘が呟いた。
「毎日来てるからですか?」
「何が、ですか」
「何だか私、お客さんのこと前から知ってた気がするんです」
小首を傾げながら、男をしげしげと見る。
「毎日来てるからですよね?」
「さぁて、どうでしょうかね」
「その勿体ぶった言い方とか。歌舞伎じゃあるまいし、今時流行らない話し方するのに…。全然違和感がないんです」
「貶しているんですか」
「そうじゃありません! …それに」
じっと男の頭を見る。
「その髪も、聞く前から地毛って分かってた気がします。前はもっと長くなかったですか?」
男は、口角を上げた。
「随分と、古い話ですね」
「…古い…?」
考え込む娘を余所に、男は箸を置いた。
「さん、お勘定を」
「あ、はい」
娘はレジへ回るとおつりを持って戻った。
「親父さんに、礼を言っておいてください」
「はい」
「それじゃあ、ご馳走様、でした」
「はい、ありがとうございました!」
暖簾の向こうに消えていく男の後ろ姿。
「あ」
娘は弾かれた様にその後を追った。
「あの、薬売りさん!」
表に出たところで、二人の視線が交わる。
「どうして私の名前、知ってるんですか?」
そう背中に投げかけられ、男は立ち止まる。
やがてゆっくりと振り返る。
困惑の表情を浮かべる娘。
黒い髪が、サラサラと風に靡く。
いつだってそうだった。
何一つ、変わらない。
男は、それまでになかった穏やかな顔をした。
そうして投げかけた。
「…貴女こそ」
言われた娘は、ハッと目を見開いた。
そうしてゆっくりと、互いの距離を縮めた。
END
15000打お礼です。
リクがなかったので、勝手に書きました。
いつの世でも薬売りさんとヒロインは必ず出会う。
ありがとうございました!
2013/2/10