短編
〜紫陽花〜






 雲は薄く、空は白んでいる。
 けれど、ぽつぽつと降り続く雨。
 傘は雨を弾いて、軽快な音を立てる。
 石畳を行く下駄も、小気味いい音を奏でている。

 薬売りとは、小雨の降る中、細い道を歩いていた。
 傘を広げると、二人並んでは歩けない。
 だから薬売りが先、はその後ろについていた。

 両側は竹で編まれた垣根が連なり、その向こうでは、雨を受けた緑が鮮やかに茂っている。
 雨の雫と淡い日の光が、それらを輝かせている。
 辺りには、緑独特の青臭さが漂う。


「あぁ、此処、ですね」


 先を歩いていた薬売りが、足を止めた。
 もそれに倣う。

 二人の左手に、垣根の途切れた場所があった。
 傘を差しても二人並んで歩けるくらいの幅。
 石畳が続いているけれど、少し先は石段になっている。



「わぁ…っ」


 は思わず声をあげていた。

 石段の両側に、紫陽花が咲き乱れているのだ。
 控えめな青紫の花が、いくつも顔を覗かせている。
 延々と続く石段を彩って、その先へ導いているようだ。

「正に見頃ですね!」

 は薬売りより先に駆け出して、石段を数段上った。
 薬売りはその後姿に、微かに口角を上げる。
 そうしてすぐに後を追う。

さん」
「はい?」
「あまり屈むと、背中が濡れて、しまいますよ」
「あ、そうですね」

 慌てて姿勢を戻す

「もう、笑わないで下さい」
「笑っちゃあ、いませんよ」

 そんな事を話しながら、ゆっくりと石段を上っていく。

「こんな所、よく知ってましたね。前にも来たことがあるんですか?」
「いえ、町の人から、聞いたんですよ。紫陽花が沢山咲いている、ってね。通称、紫陽花寺、なんてぇ呼ばれているそうですよ」
「じゃあ、境内にも?」

 嬉しそうに振り返ったに、薬売りは首肯する。

「紫陽花は、薬の原料になりますから、ね。これだけ咲いていれば、いくらか、譲ってもらえるだろうと、思ったもんで」

 は、一瞬胸の奥がチクリと痛んだのを感じた。

「あ、紫陽花が薬の原料になるんですか?」
「えぇ、熱冷ましの効果が、あるんですよ」
「そうなんですか、知りませんでした」

 そうして会話は途切れた。


 は、少しだけ石段を上る速度を速めた。
 何を期待しているのかと、内心で戒めながら。
 “さんに見せたかった”とか“さんと見たかった”なんて言葉を、薬売りが言うと思ったのかと。
 折角の紫陽花が、あまり目に入らなくなってしまった。



「!? …きゃあっ!!」


 唐突に、の視界が揺らいだ。
 ふわりと身体が後ろに投げ出される。
 頭上に挿していた傘は、前に傾いでいく。

 濡れた石段を、下駄の後ろ側の歯が捉え切れなかったのだ。

 身体が後ろに倒れていくのに、は目を瞑る事しかできなかった。





 ドン、と背中に強い衝撃があった。


 それから、前と後ろで、傘が石を打つ音がした。



 思っていたほどの痛みは無く、は恐る恐る目を開けた。




「全く、貴女ってぇ人は…」


 安堵したような声は、薬売りのものだ。

 は、薬売りに受け止められていた。

 自身の傘も手放して、両手でを抱きとめている。



「あ…、ご、ごめんなさい」

「世話の焼ける。紫陽花も、転ばせるために、咲いているんじゃあ、ないでしょうに」

「すみません…」



 薬売りの腕の中でしょ気る

 薬売りは、を自分の一段上に上らせ体勢を整える。


「折角一緒に来ても、怪我されたんじゃあ、堪りませんよ」
「…」
「これじゃあ、一緒にこなけりゃあよかった、ってぇもんですよ」
「…そんな…」

 薬売りの腕を離れようとするを、薬売りはそのまま留めた。

「冗談、ですよ」
「…」
さんと一緒でなけりゃあ、意味がありません」

 その言葉に、の表情が変わった。

「それに…」
「それに?」
「俺が抱き止めなくて、一体誰が、貴女を抱き止めるんで」

 薬売りの悪戯っぽい声に、の表情はまた変わった。

「…薬売りさんって、結構意地悪ですよね」
「そりゃあ、どうも」
「褒めてません。…でも…」


 は、自分を抱きとめてくれた薬売りの腕を抱きしめ返した。





「ありがとうございます」





 雨はしとしとと降り続き、咲きすさぶ紫陽花は二人を見守っていた。





















-END-










まだ咲いてますよね?

2012/7/8