そこには、使われなくなった井戸があってな。
水は枯れていたが、暗くて底は見えんようじゃった。
その井戸には曰くがあって、誰も近付こうとはせん。
こういう話じゃ。
昔、この村には大層綺麗な娘が住んでおった。
何をやらせても人並み以上で、優しく穏やかな、本当に非の打ち所のない娘じゃった。
娘に結婚を申し込んだ男は、数え切れんほどで、娘の両親は一体誰を選ぼうかと途方に暮れておった。
娘自身は結婚には興味が薄く、両親が決めた相手であれば、誰でもいつでも嫁ぐつもりでいたそうな。
ある日、一人の男が現れた。
行商をしている男でな、派手な着物と奇妙な空気を纏っていてな、村では瞬く間に噂になった。
話に寄れば、男とは思えない顔立ちで、何もかもが独特なのだと。
その噂を聞いて、娘は一目、その行商に会ってみたいと思った。
そうして、実行したのだ。
行商の周りは村の者たちが取り巻いていて、娘には遠目にしか見ることが出来なかった。
話す事も、声を聞く事さえも出来なかった。
けれど、娘はその行商に見事に心を奪われてしまったそうな。
それから毎日毎日行商のところへ通っては、いつも遠巻きに見ていたそうな。
何日もそれを繰り返した後、両親に告げた。
嫁ぐならあの人だと。
もちろん両親は困り果てた。
求婚してくる男の中には、大地主の息子や大店の若旦那、はたまた武家の嫡男なども居た。
娘の幸せを思えば、何処から来たのか、何処に行くのか分からない行商よりも、そちらの男達から選んだほうが良いに決まっているからの。
けれど、娘は折れなかった。
あの行商がいいのだと、譲らなかった。
それを聞きつけた男達は、黙ってはいなかった。
両親に進言し、娘がもう二度と行商の姿を見ることがないよう、家に閉じ込めたのじゃ。
両親も、娘の幸せの為だと、それを受け入れざるを得なかった。
そうして数日後、行商は村を発った。
自分が村一番の娘に想いを寄せられている事も、その娘が軟禁されている事も、何も知らずに、じゃ。
漸く解放された娘は、行商が去った事を知って、絶望した。
行商に会わせてくれなかった両親、それを進言した男達を恨んだ。
自分に気付くことなく村を去った行商さえも、憎んでいたという。
悲しみに暮れる日々を数ヶ月送って、その娘は結婚したそうな。
親が決めた相手と。
けれど、娘は死んだ。
あの井戸の中で。
娘は、嫁いだ先から逃げ出したのじゃ。
本意ではない男の元では、何もする気が起きず、抜け殻のようじゃったらしい。
本意ではない男の為に、飯は作れない。
縫いものもできない。
笑ってやる事もできない。
夜の相手など、到底無理だ、と。
何度も逃亡を繰り返した。
その夜は、亭主が追ってきた。
我慢の限界じゃったんだろう。
自分はこんなに愛して、大切にしているのに、それに一つも応えない。
まして、他の男の事ばかりを考えている。
井戸の前で漸く娘を捕まえて、男は娘を強かに打った。
弾みで、娘の身体は井戸の上へ投げ出された。
男も娘も、最後に見た互いの顔は、驚いて目を見開いた顔だったらしい。
その頃はまだ、水も出ていたその井戸の底へ、娘は落ちた。
井戸の底で大仰な音がして、娘の悲鳴が聞こえた。
暫くはもがいている様な音がしていたが、やがて何も聞こえなくなった。
翌日、男は村の者たちにこう説明した。
いつまでも行商のことが忘れられず、自分のところに嫁に来た事が苦痛だった。
自害したのだ、と。
「それ以来、あの井戸には誰も近付かんのです」
「どうしてですか?」
「覗き込むと引きこまれる、という噂がありましてね」
だから、くれぐれも近付かないように。
そう、釘を刺された。
遠巻きに井戸を眺める薬売りと。
「声も聞こえないし、モノノ怪ではないと思うんですけど」
「あの井戸…」
薬売りは呟くと、井戸に向かって歩き始めた。
「薬売りさん…!」
近付くなと言われたばかりだというのに。
は躊躇いながらも、その後を追った。
背後に鬱蒼とした森を従えて、その井戸はひっそりと佇んでいる。
井戸の周りは、膝よりも高く草が生い茂っていて地面は見えない。
薬売りは井戸まであと一歩のところで立ち止まった。
追いついてきたも、同じ所で止まろうとした。
「きゃっ!」
突然体勢を崩して、前のめりになる。
井戸の縁に手を掛けようとしたけれど、近付きすぎてその手は空を切った。
このままでは、井戸に落ちる―。
「―っ!!」
けれど、落ちる事は無かった。
横から手が伸びてきて、の身体を抱きとめたのだ。
「…く、薬売りさん…?」
「やれ、やれ」
は薬売りの腕にすっぽりと収まった。
頭上から聞こえてくるのは、溜め息混じりの声。
「まったく、世話の焼ける」
「…ご、ごめんなさい。何かに足を取られて」
薬売りの腕にしがみついて、の方は安堵の溜め息を吐く。
「しかし、これで得心がいった」
「え…?」
「この井戸の周りは、陥没、しているんですよ」
「陥没?」
薬売りはを抱えたまま、そこから一歩遠ざかった。
「伸びた草で分かり辛いが、ここから、急に低くなる」
そう言って、何度か下駄で地面を打つ。
最後の一打だけが、深くに落ちた。
ちょうど、薬売りの高下駄の高さほど。
「それじゃあ」
「この井戸に近付いたものは、この窪みに足を取られて落ちた、てぇところでしょう」
「モノノ怪ではないんですね?」
「そういうことだと、思いますがね」
良かった、と明るい顔になる。
そんなを、薬売りは口角を上げて眺める。
「な、何ですか?」
「注意力のない者が、落ちていたってぇことでしょうよ」
「…それは、私に注意力がないって言いたいんですか?」
「さぁて」
絶対にそう言っている、と視線で言ってから、は思いついたような顔をした。
「薬売りさん。私、一つ気になることがあるんですけど」
「何ですか」
「派手な着物と奇妙な空気を纏った行商って、薬売りさんじゃないですよね?」
今度は疑いの視線を向ける。
「何故、俺が」
「だって見るからに」
「一体俺を、いくつだと思っているんで」
「分かりません。だから疑ってしまうんです」
「行商人など、皆、変わっていると、思いますがね」
そういえば、まだ薬売りの腕の中だと、は頭の隅で思った。
「そうかもしれませんけど」
「行商は、人目を引くことが、そのまま客引きになる。変わった行商人など、五万といますよ」
は薬売りの答えに、不満そうな顔をする。
「まぁ、俺は」
たっぷりと時間を溜めて、薬売りは囁いた。
貴女の目が引ければ、それでいいんですがね―。
-END-
夏の終わり頃テレビで「リング」を見た後に思いついた話。
出すタイミングを逃して暫く放置してました。
怪談話にしようと思ったらこんな感じに。
2010/12/5