屋敷の門まで来ると、その向こうの空は既に白んでいた。
それを見ては深呼吸した。
利津は、仇を討ったから家に帰れると、それでも複雑そうな表情でここを後にした。
生気の戻った女たちは存外元気で、そのまま家に帰るように促した。
ここでのことは悪い夢だった。
そう思うように。忘れるように。
薬売りはそれだけ言った。
「よかったですね、皆助かって」
何度か深呼吸を繰り返していたが、薬売りを見て笑った。
「…?」
何の返事もくれない薬売りに、は首を小さく傾ぐ。
「薬売りさん?」
「何も、いいことなどありませんよ」
「え…」
そんな、と言いかけたの腕を、薬売りは掴んだ。
そうしてを自分の方へと引き寄せる。
「あの」
「いとも容易く、男の手に落ちたのは」
「あれは、いきなり後ろから」
「夜道を歩くってぇのに、何故、気を張らないんで」
「それは、月が綺麗で…見惚れてしまって」
真っ直ぐにを見る薬売り。
それを受け止められない。
視線が泳ぐ。
「そういう問題じゃあ、ないんですよ」
「…」
「貴女には、自覚ってぇものが、ないんですよ」
「自覚…ですか?」
一体何の、とは思った。
腑に落ちないという顔のに、薬売りは言ってやった。
「俺のものだという、自覚が」
「…俺? 薬売りさんの?」
「貴女はとうに、俺のものであって、他の誰にも、容易く触れられては、いけないんですよ」
その自覚が足りないのだと、薬売りは言った。
「…っ」
次第に、の頬が紅潮していく。
「勿論、俺も、ですよ。俺も、貴女のものであって、他の誰にも、容易く触れられてはいけない」
は惚けた顔で薬売りを見上げる。
ごめんなさい、と言った声はとても小さかった。
謝ったところで、薬売りの機嫌が戻るわけではなかった。
けれど、にはどうするべきか思い至らない。
「もっと、自覚させて、あげましょう」
「!?」
声と同時に、薬売りの右手が、の後頭部を捕える。
ゆっくりと、二人の距離が詰まる。
けれどには、何が起こるのか、分からなかった。
「――っ!」
薬売りは、に口付けた。
それは触れるだけの、優しいもの。
静かに触れて、ゆっくりと離れた。
そうして同じ距離に戻る。
けれど腕は掴まれたまま、後頭部も捕らわれたまま。
目を丸くしたままのが、何かを言おうと口を戦慄かせる。
けれど何も言えず、頬を染めていくだけだった。
それを見た薬売りは、口角を上げる。
そうして、宥めるような低い声で言った。
「少しは、自覚しましたか」
コクリと頷く。
溶けるような視線を寄越すに、薬売りは目を細める。
「今更かも、しれませんが」
「…?」
「言っておかなけりゃあ、いけないことが、あるんですよ」
「…なんですか?」
薬売りは、の腰に手を当て、更に引き寄せた。
真上からを見下ろすような形になる。
「好き、ですよ。さん」
息を飲む。
「俺は、貴女を、好いています」
「くすりう」
「言葉で応えるのが遅くなって、すみません、でしたね」
は小さく首を横に振って、そんなことない、と伝える。
「俺は貴女のものだし、貴女は俺のものだ」
は目を潤ませて、コクリと頷く。
「もう、他の誰の手にも、触れさせない」
薬売りの真剣な眼差しがを捕える。
徐々に二人の顔が近付く。
は薬売りから目を反らせず、その瞳に囚われていた。
「これは、その全ての証、ですよ」
「…っ」
二人の唇は、もう一度優しく触れ合った。
END
2014/8/17