ギィと音を立てて、船頭が櫂を漕ぐ。
対岸まで十丈ほどの川を、小さな船がゆっくりと漂っている。
「こんな遅くに船に乗りたいなんて、どうかしたのかい?」
しかも濃い霧まで出ている。
そのせいで船頭の顔は暗くて分からない。もちろん乗っている者の顔も。
「いえ、ね」
男は答えるでもなく、それだけ言って沈黙した。
傍らには若い娘。
船頭には気味が悪く思えた。
ギィと音を立てて、船頭が櫂を漕ぐ。
「この辺で、少し停めてくれませんか」
川の中ほどまで来たとき、男が静かに訴えた。
「お、おう」
言われたとおり、船頭はそこで船を留める。
「本当に、現れるんですか?」
傍らの娘が男に聞いている。
「このくらいの霧なら、見られるはずですよ」
そう答える男の声は、何処か楽しそうだ。
ふと、水面から少し浮いたあたりに、ぼんやりと明りが灯った。
指先ほど小さく、丸い明り。
ゆらゆらと水面を漂っている。
「あ、薬売りさん!」
遠くに見えるそれを指差して、娘が男を呼ぶ。
「あれです」
「本当に出ましたね」
「嘘だと、思っていたんですか」
「そんなことないですけど」
二人の会話の間に、その明りは数を増していった。
そのうち船の周りにも漂い始めた。
暖色の光が、辺り一面に広がる。
「綺麗ですね」
明りに照らされて、船上の三人の顔が判別できるようになった。
娘は嬉しそうに丸い明りに見入っている。
男はそんな娘を眺めている。
「ちょっと待ってくれ…、こりゃあ一体」
船頭は訳がわからず身を縮めている。
「これは、川蛍、ですよ」
「か、川蛍!? でも、お前、こりゃあ虫じゃあねえだろ」
「そりゃあ、そうです」
男はクツリと喉を鳴らして笑った。
笑いながら娘の方をチラリと見遣る。
「―!」
「きゃあ!?」
男は瞬間的に、手を伸ばして娘の身体を引いた。
自分の胸で、寄りかかってきた娘を受け止める。
船が小刻みに揺れる。
「く、薬売りさん?」
「触れては、いけません」
「え?」
「触れれば、貴女は燃えてしまいますよ」
男は、手を伸ばして川蛍に触れようとした娘を止めたのだ。
「あれは人の心、易々と触れてはいけません。触れれば、痛い目に遭いますよ」
「…すみません…」
娘は項垂れる。
男は、そんな娘の頭をポン、と軽く叩く。
「何か、聞こえますか」
「ちょっと集中してみます」
娘はそのまま瞳を閉じた。
抱き合ったような二人の立ち位置と、二人を仄かに照らす川蛍。
船頭には、その二人の姿がこの世のものではないように感じた。
「一つだけ、とても小さな声ですが」
娘は顔を上げて男を見る。
「もっと遊びたかった、て聞こえました」
「そう、ですか」
「船頭さん」
娘が男の腕の向こうから、船頭を覗き見た。
「な、なんだい」
「沢山船に乗せてくれて、楽しかったって、勇坊が言ってます」
微笑む娘は、幻のよう。
「な…っ! 何であんたがそんなこと!」
「聞こえたんです。勇太郎ちゃん。貴方の息子さんですよね?」
「勇太郎…」
俺の、息子。
「何か、訳あり、ですか」
男が横目で船頭を見遣る。
「…もう、半年前になる。大雨の次の日、増水してるって言うのに…」
船頭の息子、勇太郎は、川の中で異様に光を放っている何かが見たいと言った。
いくらダメだと言っても煩く騒ぎ立てて聞かないので、仕方なく船をだしてやった。
けれど、増水した川の渦に巻き込まれて、船は傾いた。
「勇太郎だけ投げ出されてな…」
淡く照らされる船頭の顔は後悔に満ちている。
「だからって船は手放さないで、て」
娘の言葉に、船頭は目を丸くする。
「…何でもお見通しか、勇太郎…」
息子を失くして以来、船に乗ることが少なくなった。
何れは売ってしまおうとも考えるようになった。
忘れるためではない。辛すぎるのだ。
「手放しては、いけませんよ」
「勇坊は、この船が大好きなんです」
男と娘、二人の視線が同時に一つの川蛍を追った。
船頭もつられてそれを追う。
するとその川蛍は、船頭の頭上でくるりと旋回して、舳先に留まると次第に薄れて、最後には消えてしまった。
「勇太郎…」
船頭は、暗くなった舳先を見つめていた。
ギィと音を立てて、船頭が櫂を漕ぐ。
その音を何度も繰り返して岸に戻ってきた。
「船を出してもらって、ありがとうございました」
「いや、俺のほうこそ…」
岸に上がると、娘と船頭が礼を言い合った。
「この船は手放さない。これからも勇太郎と二人で乗り続けるよ」
「はい、勇坊も喜ぶと思います。ね、薬売りさん」
「そう、ですね」
それでは、と言って二人は川を後にした。
船頭の目に、土手を登る二人の姿が焼き付く。
男が先を行き、娘に手を貸している。
やがてその姿は、さっきよりも薄くなった霧の中に消えて行った。
「薬売りさん…」
娘が後ろから声を掛ける。
「何か」
「モノノ怪になったりしませんよね、勇坊」
「さぁて」
その曖昧な答えに口を尖らせた娘は、わざと両手で男の手を引っ張る。
「おっと」
僅かに身体が傾いたものの、男が動じることはない。
「何をするんで」
「そういう時は、嘘でも“なりません”って言うもんです」
「そういうもん、ですかね」
「そういうもんです」
「はい、はい」
土手の上に漸くたどり着いて、二人は夜道を並んで歩く。
「綺麗ですね、人の心って」
「触れては、いけないものですがね」
「恐いものでもあるんですね」
立ち止まる娘に気付いて、男も足を止める。
ゆっくりと振り返ると、娘に手を伸ばす。
「行きますよ、さん」
娘はその手をじっと見つめてから、微笑んだ。
「はい」
霧の晴れた川岸には、幾匹もの蛍が舞っていた。
-END-
初めまして。HPはじめました。
とりあえず夏なので蛍っぽいネタです。
変換が最後しかなくてすいません。
これが記念でいいのか微妙ですが、どうぞよしなに。
2009/8/20