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存外、早いうちに触ってしまった。
鏡台の前で髪に櫛を入れている蒼衣を横目で見ながら、薬売りはぼんやりと思った。
蒼衣の髪に触れてはいけないと、自分に言ったのはついこの間のことだ。
どんなに蒼衣の髪が綺麗で、自分の手で艶を弄びたいと思っても、出来ないことなのだ。
髪に触れてもいいほど、近しい間柄ではないのだから。
世間とかけ離れた生活をしている自分でも、綺麗なものを愛でたいというくらいの感情はあるし、女の髪に容易く触ってはいけないというくらいの常識はある。
だから、あの時蒼衣の髪を触ってしまったのは、本当に無意識だった。
モノノ怪の“理”を引き出してくれた感謝と、恐いながらもモノノ怪と対峙した労を労ったようなものだ。
けれど、思ったとおり。
蒼衣の髪は正に絹のような手触りだった。
触れたのはたった一瞬。
それなのにこんなにも掌に、指先に感触が残っている。
もう一度…。
薬売りは軽く息を吐いて、その考えを打ち消した。
旅をしていると、ものへの執着心というものは徐々に薄らいでいくものだ。
一所に留まり続けるということがないから、土地にも人にも、食べ物や習慣にも執着は殆んどないといっていい。
拘るのはモノノ怪と薬くらいで充分なのだ。
きっと、この娘とは一緒に旅をしているせいで、他のものよりも興味が湧いているだけなのだろう。
いつか別れる日が来ても、躊躇うことなく別れられるだろう。
「薬売りさん?」
思いのほか考え込んでいたのか、蒼衣が心配そうに薬売りの顔を覗き込んでいる。
この娘は、瞳も漆黒なのだ。
そんな事を考える。
「どうかしましたか? お加減でも?」
「いえ、そういう訳では」
「なら、いいですけど。あの、準備できました」
蒼衣は荷物を持って笑う。
「いつも、そんなに時間のかかるものですか」
「あ…すみません。待たせてしまいましたよね」
笑顔が翳る。
「いつもは待ち合わせる時間に間に合うように支度するんですけど、その…」
同室になって待ち合わせる必要がなくなったから、一応の目安の時間を決めるだけ。
薬売りの支度などあってないようなものだから、必然的に蒼衣の支度が整うのを待つことになる。
「違いますよ」
「え?」
「長い髪を整えるのは、難儀でしょうと、言っているんですよ」
事実、蒼衣が髪に掛ける時間は長かった。
「あぁ、いえ。私は慣れてしまっていますから。でも時間が掛かるのは本当なので、切ってしまおうかとも思っているんですけど」
苦笑する蒼衣に、薬売りは僅かに眉を顰めた。
「それは、ダメですよ」
考えるより早く言っていた。
「えっと…?」
「切ってはダメですよ。折角の、綺麗な髪、なんですから」
「あの…、先に行きます」
蒼衣は薬売りに背を向けて障子を開けて出て行ってしまった。
薬売りは、蒼衣の居なくなった部屋で一人、自嘲する。
これが、執着というものだったな…。
-END-
年末年始に急遽公開した期間限定短編が終って
やっと長編が再開しました。
でもきっと停滞気味になります…
幕間第七巻と女郎蜘蛛の大詰めを受けての話です。
ここで(どの部分かは言いません)薬売りさんが問題発言してますが
実際には悩むんですよ。
ふふん。
2010/1/17