張り替えられたばかりの、新しい畳の上に、行李を下ろす。
い草の匂いが部屋中に漂っていて、心地よくもあり、鬱陶しくもあった。
部屋を一通り見渡してから、障子や襖、柱などに一枚ずつ札を貼っていく。それが習慣となっている。
それから一息ついて、もう一度行李を背負い商売に出かける。
その前に、連れの部屋を訪ねるのは最近身に付いた習慣。
廊下の角を曲がって、その連れが入って行った部屋の前に立つ。
「さん」
暫く待つが、返事は無い。
「お早い、ことで…」
薬売りは札を二枚、部屋の入口に貼って踵を返した。
連れている娘は、いつも宿を取ると休むと言うことをしないですぐに居なくなる。
最初は落ち着きのない娘だと思ったが、それには、理由があった。
「あ、薬売りさん、お仕事ですか?」
階段を下りていくと、廊下を雑巾掛けしているの姿があった。
「貴女も、仕事が見つかったようで…」
「はい! ちょうど下働きが一人やめてしまったところらしいんです」
そう言って嬉しそうに笑う。
いつもと違って、髪を後頭部でまとめて、襷で袖を留めている。
彼女はそうやって働かなければ、金を稼ぐことが出来ない。
「そう、ですか」
では、と薬売りは出かけていく。
「いってらっしゃい」
は、屈託の無い明るい声でそれを見送った。
変わった娘。
初めてを見たときの、薬売りが持った印象だ。
それは、今でも変わらない。
初めは、モノノ怪の声が聞こえるという力に対して、そう思った。
けれど今は、その力も含めて、彼女自身に対して思っている。
“これから物凄〜くお世話になる予定でいますので”と言っていた割には、随分控えめで健気な娘だ。
これまで特に世話という世話はしていない。
宿代くらい払うつもりでいた。それが誘った者の責任というものだ。けれどもは、それを拒んで自ら払い続けた。
そして旅費を稼ぐために訪れた町々で奉公先を探す。
これまで、薬売りを頼ってきたことは一度も無い。
先のモノノ怪退治のときは、モノノ怪の攻撃に遭っても取り乱すことなく真と理を導くきっかけとなった。そしてモノノ怪の声を受け止め、手を合わせてその平安を祈る。
「変わった、娘だ」
自然と口角が上がる。
行李を背負い直した彼の姿は、町の喧騒の中に消えていった。
一通りの商いを終えて、薬売りは宿に戻った。
思っていたよりも売れたので、薬の調合をしなければいけないと思いながら部屋を目指した。
「…?」
その途中、聞きなれない音が耳に入った。
耳を澄ますと、それは宿の奥のほうから聞こえてくる。
何となく気になってそちらに足を向けると、そこは大部屋らしい。
何人もの客が集まって、床の間の方に視線を注いでいる。薬売りが立っているところからは床の間の方は見えないが。
この声は…。
以前に聞いたことがある。
というか、毎日聞いている声に似ている。
「あぁ、お客さん」
後ろから声を掛けられ顔だけを向けると、宿の女将だった。
「あんたの連れ、不思議な歌を歌うね。いい見世物になってるよ」
女将の話では、掃除中にが歌を口ずさんで、それがとても良かったからこうして人を集めて見世物として歌わせているという。
薬売りは部屋に入って、一番後ろから見てみることにする。
彼女の歌を聞くのは、あの時以来か。
初めて、が声を掛けて来たとき。
あの時は距離があって、何か歌っているということしか分からなかった。
だから、初めて聞くに等しい。
床の間の前に立って、目を閉じて、少し頬を染めながら、けれど気持ち良さそうに歌っている。
の歌声は、小唄や長唄のようなはやりうたとは違う。地方にある地域に根付いた民謡とも全く違う。
彼女だけの音階、彼女だけの旋律、彼女だけの言葉を持っている。
流れるように、言葉が揺れる。
うるんだ瞳の奥に
変わらぬ君の姿
「どこまで世界は続くの」
途絶えた日々の言葉
凍える嵐の夜も
まだ見ぬ君へ続く
教えて 海渡る風
祈りは時を越える
聞き入ってしまうのは、彼女の声のせいなのか、それとも聞きなれない旋律のせいなのか。
変わった娘だ。
その印象が更に増す。
曲の終りかけに薬売りはそっと立ち上がって部屋を出た。
いいものを聞かせてもらったが、生憎薬の調合をしなければならない。
部屋の前に来たとき、パタパタと足音が近付いてきた。
「薬売りさん」
声で分かる。
振り向けば、やはりだった。
「おかえりなさい」
薬売りはゆっくりと瞬きをすることで応える。
「お薬は売れましたか?」
「まぁまぁ、ですね」
「それは何よりです」
笑顔が絶えない。
「お部屋にお邪魔してもいいなら、お茶を淹れます。まだ日も落ちてないし、お酒には早いですよね」
「…どうぞ」
薬売りは障子を引いてを部屋に入れる。
行李を下ろして、中を漁る。
はその間に茶の支度をする。
「さっきの、歌は…」
ふいに、薬売りが口を開く。
「え、あぁ…あれが、何か?」
「変わった、歌、ですね」
「そうですね。私もそう思います」
「何処かで、習ったんですか」
「いえ。…えっと…たまに聞こえるんです」
急須を持ったまま動きを止める。
聞こえる?
「この世、ならざるものの声、ですか」
「それとはちょっと違うんですけど」
歯切れが悪い。
「何処からか聞こえてくることがあるんです。さっきみたいな聞いたことも無い歌が」
困ったように笑いながらお茶を注いでいく。
「本当は、あまり人前では歌いたくないんです」
「何故?」
「今みたいに、“何処で?”ってなるでしょ? そうすると、他に言いようがなくて。だから…」
薬売りに湯呑みを差し出して、も自分の湯呑みを持つ。
「この話をしたのは、薬売りさんが初めてです」
「…ほぅ…」
「なんですか、それ」
薬売りの相槌に、笑う。
「でも、歌うと、どこぞで奉公するより稼げるんですよね…。皆珍しい物好きだから…」
肩を落としてしょ気た素振りをする。
「それは、そうでしょう」
あの声、あの旋律、あの言葉。確かに興味を引かれる。よほど気に入ったものや見世物小屋のものなら、大金を積んででも手元に置きたいと思うかもしれない。
「でも頼まれたりしたときや急いでるとき以外は歌わないんです」
「出し惜しみ、ですか」
クスリと意地悪く言う。
「違いますよ、人聞きの悪い。これも、この世ならざるものの声が聞こえるのと同じように、私の大切なものの一つですから」
「仕舞っておきたい、と」
「はい」
つくづく変わった娘だ。
普通の人間ならば、効率よく稼ぐ方があるなら、そちらを選ぶものが多いだろう。
それを、大切なものと言って敢えて避ける。
二人で、茶を啜る。
どちらも、何故か楽しそうだ。
「あ、私そろそろ戻りますね」
「まだ、仕事ですか」
「はい。もっと稼がなきゃいけないんです」
もっと、ずっと旅を続けるために。
笑っては部屋を出て行った。
が残していった湯呑みを見つめて、薬売りはいつものように口角を上げる。
けれど、いつもよりも何処か優しく見える。
変わった娘だ。
けれど、悪くない。
-END-
「祈り〜you raise me up〜」
歌詞に英語とかカタカナのない歌。
ありそうでなかったり…。
2009/9/20