幕間第三十三巻
〜不得手〜






 思いの外売れたな、と商売相手の商家から出てきた薬売り。

 ゆっくりと暖簾をくぐると、珍しく溜め息をついた。

 帰らなければいけない。

 宿へ。

 あの娘の待つ宿へ。




「どうかされたんですか?」



 店の中から声を掛けられた。

 ゆっくりと振り返ると、まだ年若い手代が立っていた。

 漆黒の羽織の下の、鮮やかな緑の着物が目を引いた。


「いえ、ね…」


 帰りにくいもんで、と呟くと、手代に首を傾げられた。


「でしたら、中でお茶でもいかがですか? もちろん商談は抜きで」


 まだ日も傾き始めたばかり、少々の寄り道もいいだろう。

 薬売りはこくりと頷くと、踵を返して店の中に戻って行った。





「それで、どうして帰りにくいんですか?」

 静かに湯呑みを置いて、手代は何とはなしに聞いてきた。

「誰か、待っておられるのでは?」

「そう、なんですがね…」

 差し出された湯呑みを取ると、薬売りはその揺らめく水面をじっと見つめた。

「待っている人がいるというのは、幸せな事ではないですか」

「そう、なんですがね…」

 同じ返事を返す薬売りに、手代は苦笑する。

「なかなか好機が、ないんですよ」

「何のです」

「髪紐を、渡す」

「髪紐ですか」

 薬売りはちらりと行李の引き出しに視線を遣った。

 一番上の引き出しに、あの髪紐が入っている。

 わざわざ注文して作った、あの髪紐。

 その手に受け取ってから、いくらか時間が経ってしまった。

 いつでも傍にいて、いつでも渡せると思うと、渡す機会がなかなか巡って来ない。

 こんなことなら、受け取ってすぐにでも渡せばよかったと、思い返す。



「得てして、そんなものなのかもしれませんよ」

 そうしてそのまま忘れてしまうなんてことも有り得ます、と手代は微笑む。

 忘れてしまっては意味がない。

 渡してこそ、あの髪紐の意味がある。



「それにしても、貴方のような人にも不得手なものがあるんですね」

「不得手…」

 なるほど、と薬売りは僅かに目を開いた。

 確かに、人にものを贈ることは、あまり経験がない。

 贈りたいとか、与えたいと思ったことがなかった。

 だから、なのだ。

 何かを贈ろうと思っても、うまく切り出せない。

 何か理由を付けなければ、渡す事が出来ない。

 あの時もそうだった。

 “魔除け”だとか“褒美”だとか、そんな理由をつけた。

「一見すると、貴方はいとも容易く何でもやってのけてしまいそうなのに」

 手代はクスリと微笑んだ。

「俺も、今の今まで、そう、思っていたんですがね」

 どうにも調子が狂っているような気がする。

「そう、上手くはいかないものですよ。そういうものなんです」

 手代は、何処か遠くを見ながら呟いた。

「普段、何でも出来てしまう人も、不器用になってしまう」

 そういうものなんですよ、ともう一度呟くと、薬売りを見てにこりと笑った。

 “何が”とは敢えて言わないが。

「そういうもの、ですか…」
















「まず戻ったら、“土産だ”と差し出すのは?」

「きっと、不思議がられますよ。理由を聞かれるはず…」

「福引で当たったとか」

「髪紐が当たる福引なんて、聞いたこと、ありませんよ」




「では、寝ている間に摩り替えてしまうとか」

「俺は、盗人ですか。第一、一緒に寝ているわけじゃあ…」




「だったら、髪を梳いてやると言って」

「髪に触れられるような間柄じゃあ、ないんですよ」





「ならば、それが出来るよう、踏み込んでみては…?」





 色々と提案をしてくる手代の、その一言に、薬売りは動きを止めた。

 踏み込む…。

「聞いていると、貴方達二人はとても不思議な関係で、とても曖昧な立ち位置にあるようです」

 それを、壊してみてはいかがですか、と手代は言った。

「壊す、ですか…」

「もちろん、無理にとは言いません。今の居心地がいいなら、それでいいのでしょうし」

 手代は微笑みながら、湯呑みを口元に寄せた。


 踏み込んで、壊す。


 手代はこっそりと薬売りを盗み見ながら茶を啜った。

 思案しているというように、何処か遠くを見つめる薬売り。

「例えば踏み込んでみたとして、それがどう転ぶのか、私には分かりませんし、保証もできません」

「そんな事は、分かっていますよ」

 要は、二人が今までどう過ごしてきて、今後どうなりたいか、ただそれだけなのだから。

「俺は…」

 何かを言いかけて、けれど薬売りは言葉を切った。

 軽く息を吐いて、それから口角を上げた。

「お帰りですか?」

 薬売りの様子を察して、手代が明るい声で問いかけた。

「ええ、邪魔を、しましたね」

「いいえ、誘ったのはこちらですから」






 互いに会釈をして、薬売りは歩き出した。

 の待つ宿へと。











 俺は…




 この髪紐を、渡したい。






















-END-











うちの薬売りさんはヘタレですが…何か?

薬売りさんが女の人に贈り物とか出来ないわけないですよね。
きっとさりげなく渡すはず…

似非薬売りですいません…


2011/1/9