思いの外売れたな、と商売相手の商家から出てきた薬売り。
ゆっくりと暖簾をくぐると、珍しく溜め息をついた。
帰らなければいけない。
宿へ。
あの娘の待つ宿へ。
「どうかされたんですか?」
店の中から声を掛けられた。
ゆっくりと振り返ると、まだ年若い手代が立っていた。
漆黒の羽織の下の、鮮やかな緑の着物が目を引いた。
「いえ、ね…」
帰りにくいもんで、と呟くと、手代に首を傾げられた。
「でしたら、中でお茶でもいかがですか? もちろん商談は抜きで」
まだ日も傾き始めたばかり、少々の寄り道もいいだろう。
薬売りはこくりと頷くと、踵を返して店の中に戻って行った。
「それで、どうして帰りにくいんですか?」
静かに湯呑みを置いて、手代は何とはなしに聞いてきた。
「誰か、待っておられるのでは?」
「そう、なんですがね…」
差し出された湯呑みを取ると、薬売りはその揺らめく水面をじっと見つめた。
「待っている人がいるというのは、幸せな事ではないですか」
「そう、なんですがね…」
同じ返事を返す薬売りに、手代は苦笑する。
「なかなか好機が、ないんですよ」
「何のです」
「髪紐を、渡す」
「髪紐ですか」
薬売りはちらりと行李の引き出しに視線を遣った。
一番上の引き出しに、あの髪紐が入っている。
わざわざ注文して作った、あの髪紐。
その手に受け取ってから、いくらか時間が経ってしまった。
いつでも傍にいて、いつでも渡せると思うと、渡す機会がなかなか巡って来ない。
こんなことなら、受け取ってすぐにでも渡せばよかったと、思い返す。
「得てして、そんなものなのかもしれませんよ」
そうしてそのまま忘れてしまうなんてことも有り得ます、と手代は微笑む。
忘れてしまっては意味がない。
渡してこそ、あの髪紐の意味がある。
「それにしても、貴方のような人にも不得手なものがあるんですね」
「不得手…」
なるほど、と薬売りは僅かに目を開いた。
確かに、人にものを贈ることは、あまり経験がない。
贈りたいとか、与えたいと思ったことがなかった。
だから、なのだ。
何かを贈ろうと思っても、うまく切り出せない。
何か理由を付けなければ、渡す事が出来ない。
あの時もそうだった。
“魔除け”だとか“褒美”だとか、そんな理由をつけた。
「一見すると、貴方はいとも容易く何でもやってのけてしまいそうなのに」
手代はクスリと微笑んだ。
「俺も、今の今まで、そう、思っていたんですがね」
どうにも調子が狂っているような気がする。
「そう、上手くはいかないものですよ。そういうものなんです」
手代は、何処か遠くを見ながら呟いた。
「普段、何でも出来てしまう人も、不器用になってしまう」
そういうものなんですよ、ともう一度呟くと、薬売りを見てにこりと笑った。
“何が”とは敢えて言わないが。
「そういうもの、ですか…」
「まず戻ったら、“土産だ”と差し出すのは?」
「きっと、不思議がられますよ。理由を聞かれるはず…」
「福引で当たったとか」
「髪紐が当たる福引なんて、聞いたこと、ありませんよ」
「では、寝ている間に摩り替えてしまうとか」
「俺は、盗人ですか。第一、一緒に寝ているわけじゃあ…」
「だったら、髪を梳いてやると言って」
「髪に触れられるような間柄じゃあ、ないんですよ」
「ならば、それが出来るよう、踏み込んでみては…?」
色々と提案をしてくる手代の、その一言に、薬売りは動きを止めた。
踏み込む…。
「聞いていると、貴方達二人はとても不思議な関係で、とても曖昧な立ち位置にあるようです」
それを、壊してみてはいかがですか、と手代は言った。
「壊す、ですか…」
「もちろん、無理にとは言いません。今の居心地がいいなら、それでいいのでしょうし」
手代は微笑みながら、湯呑みを口元に寄せた。
踏み込んで、壊す。
手代はこっそりと薬売りを盗み見ながら茶を啜った。
思案しているというように、何処か遠くを見つめる薬売り。
「例えば踏み込んでみたとして、それがどう転ぶのか、私には分かりませんし、保証もできません」
「そんな事は、分かっていますよ」
要は、二人が今までどう過ごしてきて、今後どうなりたいか、ただそれだけなのだから。
「俺は…」
何かを言いかけて、けれど薬売りは言葉を切った。
軽く息を吐いて、それから口角を上げた。
「お帰りですか?」
薬売りの様子を察して、手代が明るい声で問いかけた。
「ええ、邪魔を、しましたね」
「いいえ、誘ったのはこちらですから」
互いに会釈をして、薬売りは歩き出した。
の待つ宿へと。
俺は…
この髪紐を、渡したい。
-END-
うちの薬売りさんはヘタレですが…何か?
薬売りさんが女の人に贈り物とか出来ないわけないですよね。
きっとさりげなく渡すはず…
似非薬売りですいません…
2011/1/9