“責任を取ってくださいね”
笑いながら、さんが言った。
例え冗談だとしても、女が男に言う科白にしては、重いものがある。
前にも言ったが、世間からかけ離れた生活をしていても、それくらいの常識はある。
さんとは、そういう色恋に関した軽口を叩いても、妙な雰囲気になることはなかった。
俺もさんも、“ふり”として割り切っているからだ。
けれど、本心はどうだろうか。
あの、意地悪く笑ったさんの心の奥は、どうだっただろうか。
互いに大人だといえば聞こえがいい。
反面、本心を隠していないとも言い切れない。
いや、本音を言い合えるほどの仲、なのだろうか。
本音を、本音として言葉にしているのだろうか。
俺は。
さんは。
ふと、いくつかの言葉が蘇って来た。
“男の人が紅を贈るのは意中の人って相場は決まってるんですよ? そのつもりであげたんですか?”
“さんみたいな人が傍に居てくれることが、どれだけ幸せな事かをとくと言い聞かせたかったんだけどな”
“俺らが同じ時を過ごすなんざ、人の一生からみたらほんの刹那だぁな。特にお前みてぇな生き方をしてると、人と出会って別れるなんてことはざらだ。けどな、俺はそれ以外の存在があるって信じてるよ”
“聞いていると、貴方達二人はとても不思議な関係で、とても曖昧な立ち位置にあるようです。それを、壊してみてはいかがですか”
不思議と、言葉の主の顔を思い出す。
たかだか一度会ったくらいの、すぐに通り過ぎた人。
けれど、よく覚えている。
今までに出会った人など、沢山居すぎて覚えては居ないはずなのに。
彼らの言葉は、皆、確かめるような、試すような言葉ばかりだった。
何を…。
もちろん、俺の心を。
その言葉と共に、自分の心が確かなものだと理解っていった。
自分には到底縁のないはずの、そう思っていたものだ。
縁の無いものを、どう扱えばいいのか。
そう、戸惑っている。
あの手代に言われて分かった。
だからいつも、冗談を言うふりをして、その実それは本音なのだ。
それをさんが冗談として受け止めてくれると、分かっていながら…
俺は、卑怯なのだ。
相手が本気と受け取らない事をいいことに、自分の本音を、本音として伝えていなかった。
避けていたから。
本音が、本音として伝わることを。
その後、どうなるのか、その結末が訪れるのを。
何より…失う事を。
「薬売りさん?」
唐突に呼ばれてドキリとする。
「…さん」
「どうしたんですか?」
「今、帰ったんで」
「? はい…。あの、大丈夫ですか」
「何が、ですか」
「何だか少し、辛そうだったので、何処か具合でも悪いのかと」
「辛そう…」
顔に出ていたのか。
視線を手元に移すと、中途半端なところで途切れた帳簿の上の文字。
その隣の墨は疾うに乾いていた。
もう一度、視線を上げる。
さんが心配そうな顔をして、こちらを見下ろしている。
胡坐の俺より、膝を着いた中腰のさんの方が、視線が高い。
無言の俺に痺れを切らしたのか、さんは正座に変える。
薄明かりの中で、俺の顔を覗きこんでくる。
距離が近くなって、さんの白い肌が何故か眩しい。
一瞬、黒髪切りのときのあの夜が頭を過ぎった。
横たわるさんの髪も、肌も、全てが綺麗で…
その時と、何ら変わりのない…
その頬に、触れたい。
ただ、この手を伸ばせばいい。
それだけなのに、容易く行動には移せない。
貴女にそんな想いを抱いていると知ったら、貴女はきっと俺に幻滅して去ってしまう。
そうなったとき、俺は…
だから、貴女が居なくなってしまうくらいなら、いっそ、このままで―。
「そう、ですね…」
「え?」
「辛い」
「薬売りさん…?」
「どうやら、本当に」
それ以上は、言うことが出来ない。
幻滅なんてされたら、たまったもんじゃない。
静かに目を伏せる。
冷静になれと、自分に言い聞かせた。
責任。
俺には責任がある。
さんに対して、旅に誘った責任が。
最初からそうだった。
だから、ずっとそのつもりでやってきた。
さんにはそのつもりがなくても。
俺には、責任がある。
そう思っていれば、いいのだ。
だから、ずっ…
「私がいます」
すぐ横から声がした。
控えめの、どちらかというと弱気な声だ。
その声で思考が止まる。
何が辛いとか、どうしたいとか、何一つ聞いてくることなく、さんの声はその一言だけで終った。
そっと視線を向けると、小さく微笑む顔があった。
心底、安堵した。
さんがそう言ってくれた。
それなら、前言を撤回しよう。
責任などという言葉では到底片付けられない。
「私が、傍にいます」
もう一度発せられた言葉。
最初の言葉とは、少しだけ意味合いが異なっている。
貴女が傍にいてくれる。
それだけで、俺は―。
-END-
2011/4/3