“責任を取ってくださいね”


 笑いながら、さんが言った。









幕間第三十五巻
〜責任と〜







 例え冗談だとしても、女が男に言う科白にしては、重いものがある。
 前にも言ったが、世間からかけ離れた生活をしていても、それくらいの常識はある。
 さんとは、そういう色恋に関した軽口を叩いても、妙な雰囲気になることはなかった。
 俺もさんも、“ふり”として割り切っているからだ。


 けれど、本心はどうだろうか。
 あの、意地悪く笑ったさんの心の奥は、どうだっただろうか。


 互いに大人だといえば聞こえがいい。
 反面、本心を隠していないとも言い切れない。


 いや、本音を言い合えるほどの仲、なのだろうか。
 本音を、本音として言葉にしているのだろうか。


 俺は。


 さんは。





 ふと、いくつかの言葉が蘇って来た。


“男の人が紅を贈るのは意中の人って相場は決まってるんですよ? そのつもりであげたんですか?”


さんみたいな人が傍に居てくれることが、どれだけ幸せな事かをとくと言い聞かせたかったんだけどな”


“俺らが同じ時を過ごすなんざ、人の一生からみたらほんの刹那だぁな。特にお前みてぇな生き方をしてると、人と出会って別れるなんてことはざらだ。けどな、俺はそれ以外の存在があるって信じてるよ”


“聞いていると、貴方達二人はとても不思議な関係で、とても曖昧な立ち位置にあるようです。それを、壊してみてはいかがですか”





 不思議と、言葉の主の顔を思い出す。



 たかだか一度会ったくらいの、すぐに通り過ぎた人。
 けれど、よく覚えている。
 今までに出会った人など、沢山居すぎて覚えては居ないはずなのに。




 彼らの言葉は、皆、確かめるような、試すような言葉ばかりだった。
 何を…。
 もちろん、俺の心を。


 その言葉と共に、自分の心が確かなものだと理解っていった。


 自分には到底縁のないはずの、そう思っていたものだ。




 縁の無いものを、どう扱えばいいのか。
 そう、戸惑っている。
 あの手代に言われて分かった。




 だからいつも、冗談を言うふりをして、その実それは本音なのだ。

 それをさんが冗談として受け止めてくれると、分かっていながら…

 俺は、卑怯なのだ。

 相手が本気と受け取らない事をいいことに、自分の本音を、本音として伝えていなかった。



 避けていたから。


 本音が、本音として伝わることを。


 その後、どうなるのか、その結末が訪れるのを。


 何より…失う事を。








「薬売りさん?」


 唐突に呼ばれてドキリとする。


「…さん」
「どうしたんですか?」
「今、帰ったんで」
「? はい…。あの、大丈夫ですか」
「何が、ですか」
「何だか少し、辛そうだったので、何処か具合でも悪いのかと」
「辛そう…」


 顔に出ていたのか。

 視線を手元に移すと、中途半端なところで途切れた帳簿の上の文字。
 その隣の墨は疾うに乾いていた。

 もう一度、視線を上げる。

 さんが心配そうな顔をして、こちらを見下ろしている。
 胡坐の俺より、膝を着いた中腰のさんの方が、視線が高い。

 無言の俺に痺れを切らしたのか、さんは正座に変える。
 薄明かりの中で、俺の顔を覗きこんでくる。
 距離が近くなって、さんの白い肌が何故か眩しい。

 一瞬、黒髪切りのときのあの夜が頭を過ぎった。

 横たわるさんの髪も、肌も、全てが綺麗で…

 その時と、何ら変わりのない…




 その頬に、触れたい。




 ただ、この手を伸ばせばいい。
 それだけなのに、容易く行動には移せない。



 貴女にそんな想いを抱いていると知ったら、貴女はきっと俺に幻滅して去ってしまう。



 そうなったとき、俺は…



 だから、貴女が居なくなってしまうくらいなら、いっそ、このままで―。




「そう、ですね…」
「え?」
「辛い」
「薬売りさん…?」
「どうやら、本当に」


 それ以上は、言うことが出来ない。
 幻滅なんてされたら、たまったもんじゃない。


 静かに目を伏せる。
 冷静になれと、自分に言い聞かせた。


 責任。


 俺には責任がある。
 さんに対して、旅に誘った責任が。
 最初からそうだった。
 だから、ずっとそのつもりでやってきた。
 さんにはそのつもりがなくても。
 俺には、責任がある。


 そう思っていれば、いいのだ。


 だから、ずっ…




「私がいます」



 すぐ横から声がした。
 控えめの、どちらかというと弱気な声だ。
 その声で思考が止まる。


 何が辛いとか、どうしたいとか、何一つ聞いてくることなく、さんの声はその一言だけで終った。


 そっと視線を向けると、小さく微笑む顔があった。


 心底、安堵した。


 さんがそう言ってくれた。
 それなら、前言を撤回しよう。

 責任などという言葉では到底片付けられない。


「私が、傍にいます」



 もう一度発せられた言葉。
 最初の言葉とは、少しだけ意味合いが異なっている。





 貴女が傍にいてくれる。








 それだけで、俺は―。
















-END-









2011/4/3