木戸を叩く雨の音が、次第に強くなっていく。
それに合わせて、ガタガタと音がする。
風が、唸る。
小さい宿ではないのに、建物全体を風が揺らす。
まるで地が揺れているかのように。
昼過ぎから湿った風が吹き始め、夕方からは雨が降り出した。
その雨と風は尋常ではなく、それが野分けだと、誰もが理解していた。
この時期に、列島に訪れる。
それは夏の終わりを告げるもの―。
は、うんざりしていた。
この雨と風のお陰で町には人の気配がなく、よって仕事も無かった。
宿についても、打ち付ける雨の音や、建物に吹き付ける風の音が煩くて、落ち着いていられない。
加えて決して安い造りではないこの宿でさえ、この豪雨と強風には耐えられないのではないかと、密に怯えている。
実際、部屋のあちこちでギシギシと軋みを訴えている。
妙な緊張感で、気疲れしてしまう。
どうやら今夜は、眠れそうにない。
「はぁ」
小さく溜め息をつくと、寝返りを打つ。
衝立の向こうの薬売りは、疾うに寝付いてしまっただろうか。
「眠れませんか」
衝立の向こうから、薬売りの声がした。
「…はい。煩くて…とても眠れません」
「ならば、起きていませんか」
「え?」
「どうせ眠れないのなら、朝まで、どうですか」
は起き上がった。
「それも、いいかもしれません」
衝立を取り払って、それぞれの布団の上に座りこむ。
薬売りは胡坐、は膝を抱えて。
二人のちょうど真ん中に、蝋燭を立てた。
何処かからの隙間風で、時折蝋燭が大きく揺らめく。
「何か話しますか?」
こうして向かい合っているだけでは、つまらない。
「では、さんのことを、教えて、くれませんか」
「私のことですか??」
唐突な薬売りの言葉に、は戸惑う。
「幼い頃の話や、母上の事」
話せる程度でいいですから、と付け加える。
「面白くも何ともないですよ?」
聞きたいんですよ、と笑う。
「じゃあ、後でちゃんと薬売りさんの話も聞かせてくださいね」
「はい、はい」
「えっと…、私と母は、小さな長屋に住んでました」
長屋は五部屋が連なって、それが何棟か平行に並んでいて、その一番端の一番小さな部屋に住んでいた。
周りに住んでいるのは大家族ばかりで、けれどよりも年下の子は、旅に出るまでついぞ見ることは無かった。
兄代わり姉代わりは沢山居たが、弟や妹のような存在は居なかった。
だから、長屋では末っ子で、どちらかというと甘やかされて育ったのかもしれない。
「母は私を育てるために、朝から夕方までお店で奉公して、夜は内職をしてました」
針子をしたり、風車や紙風船を作る事もあった。
とにかく働いていて、いつ休んでいたのか、には分からなかった。
「でも、私と居るときはいつも相手をしてくれました」
「いい、お母上でしたね」
はコクリと頷いたけれど、表情は苦笑いだった。
「相手と言っても、お手玉遊びを名目に針と糸を持たされて裁縫を教えてもらったり、雨の日に散歩をするためだと傘を作るのを手伝わされていたんですよ。今思えば、一緒に内職をしていたんです」
「知らずに、器用になったでしょう」
「器用かは分かりませんけど、小さい頃からある程度のことは出来るようになってました」
「では、やはり、良いお母上だ」
自分の事を褒められている訳ではないのに、くすぐったい。
膝の上に顎を乗せて、は微笑む。
「力のことは。いつから、その力が?」
「えっと、気が付いたときにはもう」
今度は首を傾げてみる。
物心ついた頃から、何だか色んな声が聞こえていた。
それが、生きている人の声ではないことを、幼いながらも漠然と理解していた。
確かに、初めのうちは恐かったし、誰かに力のことを話したいと思ったけれど、自分でも分からないことを人に説明する事がとても大変で、言葉を探しているうちに疲れて諦めてしまった。
だからと言って自分が変な人間だとか、周りと違うことには大して頓着しなかった。
「長屋には、色んな人が居ましたから」
ふふふ、と思い出し笑いのを、薬売りは優しい目で見つめている。
「三日三晩呑み続けて、四日目にはお酒が嫌いになったお隣の小五郎おじさんとか、一度息を引き取ったのに、お通夜の最中に棺桶から這い出てきたおトヨ婆とか。自分は動物の気持ちが分かるんだって、ネコをいっぱい飼ってた大家さん…」
の口から出てくる長屋の人々は、薬売りにとっては珍しい人ばかりだ。
けれど、の力と同類のものではない気がする。
それでも、そんな妙な人が周りに居たお陰で、は自分だけが力を持っていて、例えそれを誰にも話せなくても“そういうものだ”と思って生きてこられたのかもしれない。
「そりゃあ、面白い」
「そうですか?」
長屋はいつも大騒ぎだった。
だからそれが日常で、面白いかどうかはには分からなかった。
「皆いい人ばかりでした」
それは確かな事だ。
「…でも…」
「でも?」
「いえ」
母親が死んでからは、少しだけ皆が羨ましかった。
それだけだ。
風が唸って、建物が悲鳴を上げる。
「…こんな嵐の夜は」
は目を伏せ思い出す。
「一晩中母が傍にいてくれて」
狭い布団に二人で横になって。
「私はいつの間にか眠っていて」
風の音も、雨の音も届かないくらい深くまで落ちて。
とても、幸せな夢を見るのだ。
「それが、母の不思議な力だったのかもしれません」
目を開けると、薬売りが口角を上げて笑っていた。
いつものような怪しげな、艶やかな笑みではなく、本当に笑っている。
それを見て、は無性に泣きたくなった。
「あ」
けれど、その瞬間、一際強い風が建物を襲って、蝋燭の灯を消してしまった。
「消えちゃいましたね」
もうお開きかと、少しだけがっかりした声色の。
さっきもそう明るかったわけではないため、すぐに目が慣れる。
「薬売りさん?」
すぐ正面に居たはずの薬売りの気配がなくなっていた。
その代わりに―。
右の肩が何かに触れた。
それが薬売りの肩だという事は、確かめなくても分かる。
「母親代わりをしてくれるんですか?」
茶化してみる。
「何なら、父親でも、いいですよ」
クスリと笑った声が返ってくる。
「こんな派手な父親、嫌です」
そう言いながらも、はその肩に凭れる。
「ほんの、少しだけ…」
このままで、いさせて―。
さっきまで、あれ程耳障りだった外の音が、たったこれだけのことで、完全に遮断された。
その代わり、少しだけ胸がざわめく。
けれどこれで、漸く眠れそうだ。
-END-
ちょっと気に入ってます。
2011/5/15