夜、荷物を纏めるのに風呂敷の端を結んでいるときだった。
「痛っ」
ピリ、と音を立てたかと思うほど勢いよく裂けたのは、中指の関節の皮。
皺だった所に赤く筋が走って、見事にぱっくり行っている。
うえぇ、と思わず小声で言ってしまった。
「どうか、しましたか」
帳簿をつけている薬売りさんが、視線だけくれる。
「いえ、何でも」
「痛い、と聞こえたのは、俺の空耳、ですか」
「きっとそうです」
手が荒れて指が割れただなんて、言うほどのことでもないと思う。
一応誤魔化してやり過ごしてみる。
すると薬売りさんは、私から視線を外して、何処か別の方に向かって小さく笑った。
「“うえぇ”なんて、滅多に聞ける言葉じゃあ、ないですがね」
「…」
そこまで聞こえてましたか。
「…洗い物が多かったので、手が荒れただけです」
一切の誤魔化しは効かない。
分かってるんだから初めから素直に全部話してしまえばいい。
でも、それが出来ない。
薬売りさんの事だから、きっと何を話しても力になってくれる。
詰まるところ、薬売りさんは私には結構甘かったりするから。
嬉しいけど、甘えちゃいけないと思う。
頼れる人が居るという事、受け止めてくれる人が居るという事。
それは凄く幸せな事だと思う。
でも、それに甘えて、頼り切ってはダメだと思う。
手荒れなんてそんな些細な事、自分で対処出来る。
「ちょっと、待っていてくれますか」
「え…?」
「これを、終わらせてしまいます」
「? とりあえず、手持ちの油を塗って…」
「待っていて、ください」
その念押しは何ですか。
「何ですか、その不満そうな顔は」
「“不満そう”じゃなくて“不満”なんです」
「何が不満なんで」
そんなこと、言えない。
甘やかしすぎだ、なんて。
「やれやれ」
黙ったままの私をほったらかして、薬売りさんは帳簿に向き直ってしまった。
そして少し筆を走らせると、それを片付け始めた。
どうやら帳簿付けを終わらせたらしい。
行李に用具一式を仕舞うと、代わりに何かを取り出した。
それから薬売りさんは、私の正面に腰をおろした。
「手を」
「え…」
私が手を差し出す前に、薬売りさんが私の手を取った。
「見事に、荒れ放題、ですね」
「すみませんねっ」
口を尖らせた私を、薬売りさんは面白そうに見る。
口角を上げて、クツクツと笑う。
「そんな時期だと思って、手荒れによく効く軟膏を、仕入れてきたんですよ」
そう言って薬売りさんが出したのは、二枚貝の軟膏容器だった。
光沢のある白い貝。
その上側をずらすと、中には少し濁りのある赤いものが入っていた。
独特の匂いが鼻を衝いた。
「少し、滲みるかもしれませんが」
薬売りさんは指先にそれを取ると、私の見事に割れた関節に塗り始めた。
「あの…っ」
「動かないで、ください」
「ご、ごめんなさい。でも、自分で塗れますから」
優しく、労わるように塗ってくれる。
恥ずかしくて、どうしようもない。
「いいんですよ」
「良くないんです」
「良くない、ですか」
「こんなんじゃ、私、薬売りさんに頼ってばかりで…。いつも」
自分ひとりじゃ、何も出来なくなってしまう。
「大丈夫ですよ」
「でも」
「これまで一人で何でも遣ってきた人が、急に何も出来なくなる、なんてぇことは、ありませんよ」
押し問答を続ける間も、薬売りさんは私の手に薬を塗っていく。
他の指の関節や、ささくれ、手の甲。
色が気になるけれど、塗った所はしっとりとしている。
「じゃあ、徐々に出来なくなります」
「そうは、なりませんよ。貴女はずっと、自分の食い扶持は、自分でどうにかしているじゃあないですか」
「そうですけど…。こんなに薬売りさんにしてもらってたら」
「だから、いいんですよ」
薬売りさんは手を止めた。
でも、私の手は取ったまま。
「俺が、甘やかしたいんですよ」
そう口角を上げたものだから、私は何も言えなくなって。
だた、俯くしかできなかった。
その視線の先には、再び薬を塗り始めた手と、塗られる手。
-END-
冬にありがちな、他愛のない、些細な出来事で
甘やかしてみました。
いいえ、嘘です。すみません。
丁度これを書いた頃、管理人が手荒れに悩まされていただけです。
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2012/4/15