幕間第五巻
〜気になるんです〜










 気にしないようにしてるのに、たまにぶり返してくる。








 普段は頭だか心だか、とにかく体の奥底の方に眠ってるこの気持ちが、突然に表に出てくることがあって、その時は凄く大変。














 そう、薬売りさんの、耳。


















 私は、宿の女将さんに紹介してもらった食事処で、仕込みや掃除、給仕をする仕事にありついた。
 そこの店主の奥さんの体調が悪くて、人手が足りないのだ。
 明後日までの約束だけど、それまでに奥さんの調子か良くなればいい。
 この店は、割と大きな通りの傍にあって、お客さんも多いし、夜になると結構忙しい。

 今は店を開ける前の仕込みを手伝っている。
 店主の通称親父さんは、奥で秘伝のタレの調整をしていて、私は通りに面した板場で、野菜を切っている。
 これでも一応昔は蕎麦屋に奉公していた。
  包丁を持つのは久しぶりだったけど、鈍ってはいないみたい。


 格子窓からは、通りの様子が良く見えて、一段落付くたびに行き交う人を眺めてみる。
 通りの向こう側には甘味処があるらしくて、外に誂えられたいくつかの長椅子には、何人か娘さんが楽しそうにしている。


 羨ましいと、思うことはあるけれど、私はあの子達には出来ないことをしてるから、別に引け目は感じない。
 こうやって働いて、薬売りさんと旅をして…って。


「薬売りさん!?」


 見ていた甘味処の長椅子に、突然現れた薬売りさんが腰を下ろした。
 店の奥から出てきた給仕といくつか言葉を交わす。
 一度奥へ戻った給仕は、すぐにまた出て来て、薬売りさんに声を掛けた。
 何を話してるのかは、分からない。
 けれど、給仕がまた奥へ戻ると、薬売りさんは行李を引いて中から薬を取り出した。
 すると、瞬く間に人が集まってくる。
 薬売りさんの出で立ちは確かに目を引くけど、いきなりこんなに人が集まるものなの?
 そういえば、薬売りさんが道端で薬を売る姿なんて、初めて見た。
「どんな仕掛けですか…」
 ついぼやいてしまう。
 あれなら、すぐに売り切ってしまうだろうに。
 それに、すごく女の人が多い。
 まぁ、薬売りさんなら仕方ない。だって、あの顔だもん。
 薬売りさんも満更でもないように、口角を上げている…ように見えるのは、紫の紅のせいなのか。分からない。


 何故か面白くなくて、その光景から目を逸らした。


 まな板の上に新しく大根を置いて輪切りにしていく。
 輪切りにしたそれを、今度は慎重に桂剥きにしていく。ここまでは習得していないから、結構時間と集中力が要る。
 四つ目を剥き終わった瞬間、酷く耳に障る声が聞こえた。




「この耳って生まれつきですか?」




 気になって、見てしまった。
 薬売りさんは、一通り商売が終ったのか、甘味処のお茶を啜っている。
 その周りにはまだ何人か娘さんが居て、薬売りさんを取り巻いている。


 何か、嫌。


「そうでしょ? 後から付けるわけにいかないもの」


 何を、言っているの?


「何でこんな形なの?」


 何で、そんなこと聞くの? 聞けるの?


 私なんて、もう結構一緒にいて、それでもまだ耳のことは聞けないのに。
 初対面の貴女たちが、どうしてそんなこと、聞けるの?
 私だって、気になって、気になって仕方ないのに。

 でも、違うの。
 どうして一番に聞くべきことが分からないの?
 そんな事よりも、もっと最初に聞くべき事があるでしょ?



「ねぇ、触っていい?」



 そう、それよ!!
 それ以外に何を聞くの?
 ていうか、触り心地はどうか、でしょ!?




 思わずぎらついてしまった目を、瞬きで誤魔化す。
 別に薬売りさんに気付かれてるわけでもないのに。


「すみませんが、それは…」


 そう言って、薬売りさんは席を立った。
 行李を背負うと、店の中に声をかけて何かを受け取ると、去っていってしまった。


  聞こえてきた拒否の声に、心が重くなった。
  そりゃ、見ず知らずの人に触られたら、誰だっていい気はしない。
  あんなに一方的に質問攻めにされて、いい気なんてするはずだってない。




 だから、私も、聞けないんだと思う。




 気になって仕方ないし、いつかは耳について聞けて、触らせてもらえる日が来るかもなんて、淡〜い期待も抱いて無かったとは言わない。
 だけど、やっぱりそんなこと皆無だって、分かった。
 頭を振って、耳のことを頭の中から追い払う。
 もう、止めよう。



 私は、五つ目の大根を掴んだ。














 宿の部屋に帰ると、私はへたり込んだ。
 もう、結構遅い時間になる。
 長い時間働いたせいなのか、それとも別な理由からなのか分からないけど、体が、心が重かった。
 壁に寄りかかって、天井をぼんやり見つめる。


 湯屋には行ったし、賄いも少し頂いたし、もう寝ようかな。
 あ…。
 天秤さん。
  今日はまだ借りてない。
 でも、薬売りさんの部屋を訪ねる勇気が、ない。


 だって…。






さん、帰って、いますか」





 廊下から、静かに声がした。
 この声。


「く、薬売りさん?」


 慌てて障子を開ける。
 頭の手拭も、隈取も無い薬売りさんだった。
「随分、遅くまで」
「あ…いえ、大したことじゃないですよ。お酒を出すところだったので」
 無理な笑顔になってるかもしれない。
「これを」
「え?」
 差し出された包みと、その上の天秤さん。
「天秤さんと…??」
「今日は、甘味処で商いをしたんですよ。さんも、どうかと、思いましてね」
 あぁ。
 最後に給仕から受け取っていたもの。
 それが、これ。
 きっと中身は団子か何か。


 何故だか、嬉しさがこみ上げてくる。


「私にですか?」
「他に、誰が?」
 似たような会話を、初めの頃にした。
「ありがとうございます」
 ちゃんと笑えてる?
 薬売りさんを見上げると、紅のない口角が上がっていた。
「ですが、こんな時分には、食べないほうが、いいですよ」
 クスリ、と笑いかけてくれる。
「わかってます」


 お休みなさい、と言おうとしたのに声が出なくて、何故かもどかしくなった。


 薬売りさんの顔が見ていられなくて、天秤さんの乗った包みに視線を落としてしまった。
「どうか、しましたか」
「…いいえ、何でも」
 良く分からない。どうしてこんなに苦しいのか。
 きっと、薬売りさんは困っているだろうに。
「ただ、どうしてかなって」
「何が、ですか」
「その…これ…」
 包みを目で示す。
「好きそうだと、思ったもんで」
 その言葉が、信じられなかった。
 思わず見上げれば、濃い空色の瞳が私を見ていた。
 私のことを、考えてくれたの?
 そんなこと、聞けないけど。
「それが、何か」
 私は、首を横に振ることしか出来なくて。
 ただ…。
「何でもないです。ありがとうございます」
 それしか、言えなくて。
「そうですか。…では、おやすみ、なさい」
「はい、おやすみなさい」
 薬売りさんが足を踏み出して、軽い軋みを訴える廊下。
 私は薬売りさんの後姿を見送る。


「あぁ、一つ、言い忘れていました」


「え?」
 薬売りさんは振り返ると、何だかとても楽しそうに、というか意地悪そうに? 微笑んでいた。


「安心して、ください」


「え? 何を…」


「他の誰にも、触らせるつもりは、ありませんから」


 …??


 そう言って薬売りさんは去って行った。


 何のことだろう。
 障子を閉めて、またへたり込む。
 他じゃない人って、誰?
 何を触らせるつもりがないの?
 意味が分からない。
 暫く考えてみたけど、全く言葉に心当たりがなくて、答えは見つからなかった。





 だけど、薬売りさんが私のことを考えてくれたことだけで、私は嬉しかった。
 ほかの、あの、薬売りさんを取り巻いてた女の子達と、私は違うんだって思った。
 一緒に旅をして、同じ時を過ごしてる。
 薬売りさんも、そう思ってくれてるって思っていいんだよね?
 大切な天秤さんを毎晩貸してくれて、はぐれても探してくれて、迎えに来てくれて、お土産をくれて…。




 少しは、近付いたと思って、いいですか?












-END-



実はひっそりシリーズ化です。
薬売りさんの耳は永遠のテーマ…?

2009/10/24