気にしないようにしてるのに、たまにぶり返してくる。
普段は頭だか心だか、とにかく体の奥底の方に眠ってるこの気持ちが、突然に表に出てくることがあって、その時は凄く大変。
そう、薬売りさんの、耳。
私は、宿の女将さんに紹介してもらった食事処で、仕込みや掃除、給仕をする仕事にありついた。
そこの店主の奥さんの体調が悪くて、人手が足りないのだ。
明後日までの約束だけど、それまでに奥さんの調子か良くなればいい。
この店は、割と大きな通りの傍にあって、お客さんも多いし、夜になると結構忙しい。
今は店を開ける前の仕込みを手伝っている。
店主の通称親父さんは、奥で秘伝のタレの調整をしていて、私は通りに面した板場で、野菜を切っている。
これでも一応昔は蕎麦屋に奉公していた。
包丁を持つのは久しぶりだったけど、鈍ってはいないみたい。
格子窓からは、通りの様子が良く見えて、一段落付くたびに行き交う人を眺めてみる。
通りの向こう側には甘味処があるらしくて、外に誂えられたいくつかの長椅子には、何人か娘さんが楽しそうにしている。
羨ましいと、思うことはあるけれど、私はあの子達には出来ないことをしてるから、別に引け目は感じない。
こうやって働いて、薬売りさんと旅をして…って。
「薬売りさん!?」
見ていた甘味処の長椅子に、突然現れた薬売りさんが腰を下ろした。
店の奥から出てきた給仕といくつか言葉を交わす。
一度奥へ戻った給仕は、すぐにまた出て来て、薬売りさんに声を掛けた。
何を話してるのかは、分からない。
けれど、給仕がまた奥へ戻ると、薬売りさんは行李を引いて中から薬を取り出した。
すると、瞬く間に人が集まってくる。
薬売りさんの出で立ちは確かに目を引くけど、いきなりこんなに人が集まるものなの?
そういえば、薬売りさんが道端で薬を売る姿なんて、初めて見た。
「どんな仕掛けですか…」
ついぼやいてしまう。
あれなら、すぐに売り切ってしまうだろうに。
それに、すごく女の人が多い。
まぁ、薬売りさんなら仕方ない。だって、あの顔だもん。
薬売りさんも満更でもないように、口角を上げている…ように見えるのは、紫の紅のせいなのか。分からない。
何故か面白くなくて、その光景から目を逸らした。
まな板の上に新しく大根を置いて輪切りにしていく。
輪切りにしたそれを、今度は慎重に桂剥きにしていく。ここまでは習得していないから、結構時間と集中力が要る。
四つ目を剥き終わった瞬間、酷く耳に障る声が聞こえた。
「この耳って生まれつきですか?」
気になって、見てしまった。
薬売りさんは、一通り商売が終ったのか、甘味処のお茶を啜っている。
その周りにはまだ何人か娘さんが居て、薬売りさんを取り巻いている。
何か、嫌。
「そうでしょ? 後から付けるわけにいかないもの」
何を、言っているの?
「何でこんな形なの?」
何で、そんなこと聞くの? 聞けるの?
私なんて、もう結構一緒にいて、それでもまだ耳のことは聞けないのに。
初対面の貴女たちが、どうしてそんなこと、聞けるの?
私だって、気になって、気になって仕方ないのに。
でも、違うの。
どうして一番に聞くべきことが分からないの?
そんな事よりも、もっと最初に聞くべき事があるでしょ?
「ねぇ、触っていい?」
そう、それよ!!
それ以外に何を聞くの?
ていうか、触り心地はどうか、でしょ!?
思わずぎらついてしまった目を、瞬きで誤魔化す。
別に薬売りさんに気付かれてるわけでもないのに。
「すみませんが、それは…」
そう言って、薬売りさんは席を立った。
行李を背負うと、店の中に声をかけて何かを受け取ると、去っていってしまった。
聞こえてきた拒否の声に、心が重くなった。
そりゃ、見ず知らずの人に触られたら、誰だっていい気はしない。
あんなに一方的に質問攻めにされて、いい気なんてするはずだってない。
だから、私も、聞けないんだと思う。
気になって仕方ないし、いつかは耳について聞けて、触らせてもらえる日が来るかもなんて、淡〜い期待も抱いて無かったとは言わない。
だけど、やっぱりそんなこと皆無だって、分かった。
頭を振って、耳のことを頭の中から追い払う。
もう、止めよう。
私は、五つ目の大根を掴んだ。
宿の部屋に帰ると、私はへたり込んだ。
もう、結構遅い時間になる。
長い時間働いたせいなのか、それとも別な理由からなのか分からないけど、体が、心が重かった。
壁に寄りかかって、天井をぼんやり見つめる。
湯屋には行ったし、賄いも少し頂いたし、もう寝ようかな。
あ…。
天秤さん。
今日はまだ借りてない。
でも、薬売りさんの部屋を訪ねる勇気が、ない。
だって…。
「さん、帰って、いますか」
廊下から、静かに声がした。
この声。
「く、薬売りさん?」
慌てて障子を開ける。
頭の手拭も、隈取も無い薬売りさんだった。
「随分、遅くまで」
「あ…いえ、大したことじゃないですよ。お酒を出すところだったので」
無理な笑顔になってるかもしれない。
「これを」
「え?」
差し出された包みと、その上の天秤さん。
「天秤さんと…??」
「今日は、甘味処で商いをしたんですよ。さんも、どうかと、思いましてね」
あぁ。
最後に給仕から受け取っていたもの。
それが、これ。
きっと中身は団子か何か。
何故だか、嬉しさがこみ上げてくる。
「私にですか?」
「他に、誰が?」
似たような会話を、初めの頃にした。
「ありがとうございます」
ちゃんと笑えてる?
薬売りさんを見上げると、紅のない口角が上がっていた。
「ですが、こんな時分には、食べないほうが、いいですよ」
クスリ、と笑いかけてくれる。
「わかってます」
お休みなさい、と言おうとしたのに声が出なくて、何故かもどかしくなった。
薬売りさんの顔が見ていられなくて、天秤さんの乗った包みに視線を落としてしまった。
「どうか、しましたか」
「…いいえ、何でも」
良く分からない。どうしてこんなに苦しいのか。
きっと、薬売りさんは困っているだろうに。
「ただ、どうしてかなって」
「何が、ですか」
「その…これ…」
包みを目で示す。
「好きそうだと、思ったもんで」
その言葉が、信じられなかった。
思わず見上げれば、濃い空色の瞳が私を見ていた。
私のことを、考えてくれたの?
そんなこと、聞けないけど。
「それが、何か」
私は、首を横に振ることしか出来なくて。
ただ…。
「何でもないです。ありがとうございます」
それしか、言えなくて。
「そうですか。…では、おやすみ、なさい」
「はい、おやすみなさい」
薬売りさんが足を踏み出して、軽い軋みを訴える廊下。
私は薬売りさんの後姿を見送る。
「あぁ、一つ、言い忘れていました」
「え?」
薬売りさんは振り返ると、何だかとても楽しそうに、というか意地悪そうに? 微笑んでいた。
「安心して、ください」
「え? 何を…」
「他の誰にも、触らせるつもりは、ありませんから」
…??
そう言って薬売りさんは去って行った。
何のことだろう。
障子を閉めて、またへたり込む。
他じゃない人って、誰?
何を触らせるつもりがないの?
意味が分からない。
暫く考えてみたけど、全く言葉に心当たりがなくて、答えは見つからなかった。
だけど、薬売りさんが私のことを考えてくれたことだけで、私は嬉しかった。
ほかの、あの、薬売りさんを取り巻いてた女の子達と、私は違うんだって思った。
一緒に旅をして、同じ時を過ごしてる。
薬売りさんも、そう思ってくれてるって思っていいんだよね?
大切な天秤さんを毎晩貸してくれて、はぐれても探してくれて、迎えに来てくれて、お土産をくれて…。
少しは、近付いたと思って、いいですか?
-END-
実はひっそりシリーズ化です。
薬売りさんの耳は永遠のテーマ…?
2009/10/24