薬売りとは、林の中を歩いていた。
次の町までは、あと少し。
この一本道を抜ければすぐだ。
木の葉の間から差し込む日差しが、足元に斑な陰を落としている。
緑に囲まれた道は、清々しい。
は思わず立ち止まって、大きく深呼吸する。
「気持ちいい〜」
両腕を天に向けて伸ばして、伸びまでする。
の声に、先を歩いていた薬売りが振り返る。
「何度目、ですか」
「だって気持ちいいんですもん」
は笑顔で応えると、足早に薬売りの隣りまで駆け寄った。
「薬売りさんもやってみればいいのに」
「遠慮しますよ」
「…う〜ん…」
「何ですか」
「薬売りさんって、呼吸浅そうですよね」
脈絡の無い。
「ダメですよ。すぐに息あがっちゃいますから」
「大丈夫、ですよ」
何の心配をしているのやら、と薬売りは思う。
そうして再び林の中を歩く。
は不満そうにその後を追うのだが、その途中でふと、気付く。
小さな声がする。
「…あれ…?」
茂みの奥の方に視線を向ける。
「泣いてる…?」
子どもの泣く声がする。
かなり小さい声。
それも、多分“この世ならざるもの”。
自然と、そちらに足が向く。
「さん」
ぐいと腕を掴まれる。
は我に返る。茂みの向こうは、道の近くよりも木の密度が高くて真っ暗だ。
「あれ…私…」
「聞こえましたか」
「え…っと、泣き声が」
「行って、みますか」
薬売りはの腕を掴んだまま、声の聞こえるほうへと足を踏み入れた。
道から一歩外れると、の膝よりも高い草が地面を覆っていて、足元が悪い。
薬売りはいつの間にかの手を握っていて、時折よろめくを支えた。
二人とも、そんなことは気にも留めず、奥へ、奥へ進んでいった。
暗い木々の合間を縫って、やがて辿り付いたのは木の生えない開けた場所だった。
その真ん中に、ぽつりと、小さな男の子が立っていた。
男の子は泣いていた。
幼子のように大きな声を上げて泣くのではなく、静かに、時折しゃくるように。
は薬売りを見上げる。
薬売りは、危険はない、というように頷いた。
それを了解して、は男の子に近付いた。
「ねぇ、どうしたの?」
の声に、男の子はびくりと肩を震わせる。
それからゆっくりと顔を上げると、顔をしわくちゃにして涙を流した。
「おっとうとおっかぁがいない」
「お父さんと、お母さん…?」
男の子は頷く。
「君はどこから来たの?」
「分かんない。けど、もっと奥」
もっと木が生えてたという。
この奥に、民家があるとは思えない。
だからもしかすると、この子の両親も。
けれど、放っておくことは出来ない。
「じゃあ、一緒に探してあげる。行こう?」
そう言っては男の子に手を差し出す。
男の子は、を見上げて、薬売りを見上げて、それから漸くの手を取った。
冷たい。
は、男の子の手の冷たさに驚いた。
けれど、しっかりと握ってやる。
が手を握ると、男の子は泣きじゃくった後の真っ赤な顔で、に笑った。
それからを引っ張って行って薬売りに近付くと、空いているほうの手で薬売りの手を取った。
そうして満足そうな笑顔を二人に振りまいた。
「やれ、やれ」
薬売りは厄介なものに遭ったというように、軽くため息をついた。
それからは目を瞑って耳を澄ますようにする。
いつもは自然と入ってくる声を聞いているが、集中すればもっと遠くからの声にも気付くことが出来る。
“…ち”
“末吉”
林の、もっと奥の方で声がした。
か細い女の人の声だ。
「ねぇ、君の名は末吉ちゃんでいいのかな」
の問いに、男の子は大きく頷く。
「じゃあこっちだね、末坊」
三人は並んで歩き出す。
と末吉は、繋いだ手を大きく振って楽しそうに喋る。
それと連動して、末吉は反対の手も大きく振る。
つまり、薬売りと繋いだ手も大きく振られているのだ。そのため、薬売りの大きな袂が、前後に揺れる。
「末坊のお父さんとお母さんは優しい?」
「うん!」
「そっか」
は静かに微笑む。
「おねえちゃんのおっとうとおっかぁは?」
「え?」
一瞬、が戸惑ったことに、薬売りは気付いた。
それまで末吉に視線を向けながら歩いていただったが、顔を上げて頭上の緑の葉を仰ぎ見た。
「お母さんは凄く優しかったよ。お父さんも優しい人だったって」
そう言ってから、末吉に顔を向けて笑う。
「じゃあおそろいだ!」
無邪気に笑う末吉に、は何処か寂しそうに微笑んだ。もちろん、薬売りはそのの変化に気付いていた。
暫く歩くと、小さな泉が見えた。
そこだけ日が射して、水面がきらきらと輝いている。
それを見た途端、末吉は二人の手を離れ、走り出した。
「おっとう! おっかぁ!!」
泉に向って叫んだ末吉は、そのまま泉へ突進した。
「あ…っ」
危ない、と言おうとしたとき、水面にゆらりと何かが姿を現した。
「あれは…」
「末坊の、親御殿のようだ」
現れたのは、男女。
女はしゃがみ込んで、泉に走っていった末吉を抱きとめた。
男はかがんで抱き合う二人を笑顔で見つめる。
“おっかぁ〜”
“あれほど一人で行ってはダメだと、言ったでしょう”
怒るというより、困ったような声で末吉を諌める母親。
“末吉はやんちゃだからなぁ”
“もう、感心するところではありませんよ、お前様”
穏やかな家族の空気が、手に取るようにわかる。
母親は末吉を抱き上げると、薬売りとを見た。
父親も、居住まいを正す。
“お手を煩わせて忝い”
父親が罰の悪そうな顔で言う。
“これから、向こうに行くと言うのに、いつも遊んでいたところにもう一度行きたいといって聞かなくて”
「一人で飛び出して行ってしまったんですね?」
の問いかけに、二人とも苦笑いをする。
“本当に、ありがとうございました”
深々と頭を下げる夫婦。
そして徐々にその姿が薄れていく。
“ほら、末吉も、お礼を”
母親の促す声に、きょとんとする末吉。
きっと自分の置かれている状況が分かっていないのだろう。
けれど、達のお陰で両親に会えたことは分かっている。
“おにいちゃん、おねえちゃん、ありがと”
“おっとうとおっかぁといるみたいで、うれしかった”
そう言い残して、家族は消えていった。
は、手を合わせてじっと祈った。
家族が、幸せでありますように、と。
「お待たせしました」
振り返ると、薬売りはずっとのことを見ていたのか、すぐに目が合った。
「…えっと…、寄り道させてしまって、すみません」
何故見られていたのか不安になって、思わず謝っていた。
「構いませんよ」
特に怒っている感じではない。
しかし、すぐに踵を返して来た道を戻ろうとする薬売り。
「行きますよ」
そう言って、に手を差し出す。
また、足場の悪い茂みを通って戻らなければいけない。
差し出された手に、無意識に自分の手を重ねる。
あの子のような冷たさはない。
そうして二人は、道に戻る。やはり時折よろめくを、薬売りが支えながら。
「それにしても、面白いことを言う子ども、でしたね」
不意に薬売りが口を開いた。
「え? 面白いことですか?」
「俺と貴女が、どうとか」
「…!!」
は動きを止めた。
あの家族が消えていくことが切なくて、末吉の言った言葉の意味をまともに捉えてはいなかった。
けれど、中々どうして、結構なことを言ってくれたではないか。
「あ、あれは…ほら、子どもの言うことだし、大した意味はないんじゃないですか?」
徐々に顔が熱くなっていくのが分かる。
そして、気が付く。
薬売りと手を繋いでいるという事に。
それを初めて意識して、はその手を解こうとする。が、一瞬離れた手を、薬売りは即座に捕まえる。
「危ない、ですよ」
ぐい、と引っ張られて、薬売りのすぐ傍まで連れてこられる。
目の前に迫った青に、戸惑う。
「大丈夫ですから」
「どうですかね」
薬売りは、再び歩き始める。
も引っ張られて進んでいく。
ガサガサと茂みを掻き分ける音が、自分の跳ね上がった鼓動の音を消してくれているような気がする。
その、音の合間に、微かに声が聞こえた。
「あれはあれで、意外と、楽しいもの、ですね」
は、薬売りの背中を見つめた。
「これもこれで…」
その先の言葉を聞き取ることは、には出来なかった。
木漏れ日が、静かに二人に降り注いでいた。
-END-
第五巻が酷い駄作だったので
来週にUP予定だったものを急遽前倒ししました…。
これもそんなに大したことないですが…個人的に気に入ってます。
2009/10/24