幕間第六巻
〜微かな声〜










 薬売りとは、林の中を歩いていた。
 次の町までは、あと少し。
 この一本道を抜ければすぐだ。


 木の葉の間から差し込む日差しが、足元に斑な陰を落としている。
  緑に囲まれた道は、清々しい。

 は思わず立ち止まって、大きく深呼吸する。
「気持ちいい〜」
 両腕を天に向けて伸ばして、伸びまでする。
 の声に、先を歩いていた薬売りが振り返る。
「何度目、ですか」
「だって気持ちいいんですもん」
 は笑顔で応えると、足早に薬売りの隣りまで駆け寄った。
「薬売りさんもやってみればいいのに」
「遠慮しますよ」
「…う〜ん…」
「何ですか」
「薬売りさんって、呼吸浅そうですよね」
 脈絡の無い。
「ダメですよ。すぐに息あがっちゃいますから」
「大丈夫、ですよ」
 何の心配をしているのやら、と薬売りは思う。
 そうして再び林の中を歩く。
 は不満そうにその後を追うのだが、その途中でふと、気付く。


 小さな声がする。


「…あれ…?」


 茂みの奥の方に視線を向ける


「泣いてる…?」


 子どもの泣く声がする。
  かなり小さい声。
 それも、多分“この世ならざるもの”。
 自然と、そちらに足が向く。


さん」


 ぐいと腕を掴まれる。
 は我に返る。茂みの向こうは、道の近くよりも木の密度が高くて真っ暗だ。
「あれ…私…」
「聞こえましたか」
「え…っと、泣き声が」
「行って、みますか」
 薬売りはの腕を掴んだまま、声の聞こえるほうへと足を踏み入れた。

 道から一歩外れると、の膝よりも高い草が地面を覆っていて、足元が悪い。
 薬売りはいつの間にかの手を握っていて、時折よろめくを支えた。
 二人とも、そんなことは気にも留めず、奥へ、奥へ進んでいった。







 暗い木々の合間を縫って、やがて辿り付いたのは木の生えない開けた場所だった。
 その真ん中に、ぽつりと、小さな男の子が立っていた。
 男の子は泣いていた。
  幼子のように大きな声を上げて泣くのではなく、静かに、時折しゃくるように。

 は薬売りを見上げる。
 薬売りは、危険はない、というように頷いた。
 それを了解して、は男の子に近付いた。
「ねぇ、どうしたの?」
 の声に、男の子はびくりと肩を震わせる。
 それからゆっくりと顔を上げると、顔をしわくちゃにして涙を流した。
「おっとうとおっかぁがいない」
「お父さんと、お母さん…?」
 男の子は頷く。
「君はどこから来たの?」
「分かんない。けど、もっと奥」
 もっと木が生えてたという。
 この奥に、民家があるとは思えない。
 だからもしかすると、この子の両親も。
 けれど、放っておくことは出来ない。
「じゃあ、一緒に探してあげる。行こう?」
 そう言っては男の子に手を差し出す。
 男の子は、を見上げて、薬売りを見上げて、それから漸くの手を取った。

 冷たい。

 は、男の子の手の冷たさに驚いた。
 けれど、しっかりと握ってやる。
 が手を握ると、男の子は泣きじゃくった後の真っ赤な顔で、に笑った。
 それからを引っ張って行って薬売りに近付くと、空いているほうの手で薬売りの手を取った。
 そうして満足そうな笑顔を二人に振りまいた。
「やれ、やれ」
 薬売りは厄介なものに遭ったというように、軽くため息をついた。


 それからは目を瞑って耳を澄ますようにする。
 いつもは自然と入ってくる声を聞いているが、集中すればもっと遠くからの声にも気付くことが出来る。


“…ち”


“末吉”


 林の、もっと奥の方で声がした。
 か細い女の人の声だ。
「ねぇ、君の名は末吉ちゃんでいいのかな」
 の問いに、男の子は大きく頷く。
「じゃあこっちだね、末坊」
 三人は並んで歩き出す。

 と末吉は、繋いだ手を大きく振って楽しそうに喋る。
 それと連動して、末吉は反対の手も大きく振る。
  つまり、薬売りと繋いだ手も大きく振られているのだ。そのため、薬売りの大きな袂が、前後に揺れる。
「末坊のお父さんとお母さんは優しい?」
「うん!」
「そっか」
 は静かに微笑む。
「おねえちゃんのおっとうとおっかぁは?」
「え?」
 一瞬、が戸惑ったことに、薬売りは気付いた。
 それまで末吉に視線を向けながら歩いていただったが、顔を上げて頭上の緑の葉を仰ぎ見た。
「お母さんは凄く優しかったよ。お父さんも優しい人だったって」
 そう言ってから、末吉に顔を向けて笑う。
「じゃあおそろいだ!」
 無邪気に笑う末吉に、は何処か寂しそうに微笑んだ。もちろん、薬売りはそのの変化に気付いていた。










 暫く歩くと、小さな泉が見えた。
 そこだけ日が射して、水面がきらきらと輝いている。
 それを見た途端、末吉は二人の手を離れ、走り出した。

「おっとう! おっかぁ!!」

 泉に向って叫んだ末吉は、そのまま泉へ突進した。
「あ…っ」
 危ない、と言おうとしたとき、水面にゆらりと何かが姿を現した。
「あれは…」
「末坊の、親御殿のようだ」
 現れたのは、男女。
 女はしゃがみ込んで、泉に走っていった末吉を抱きとめた。
 男はかがんで抱き合う二人を笑顔で見つめる。


“おっかぁ〜”
“あれほど一人で行ってはダメだと、言ったでしょう”


 怒るというより、困ったような声で末吉を諌める母親。


“末吉はやんちゃだからなぁ”
“もう、感心するところではありませんよ、お前様”


 穏やかな家族の空気が、手に取るようにわかる。
 母親は末吉を抱き上げると、薬売りとを見た。
  父親も、居住まいを正す。


“お手を煩わせて忝い”


 父親が罰の悪そうな顔で言う。


“これから、向こうに行くと言うのに、いつも遊んでいたところにもう一度行きたいといって聞かなくて”


「一人で飛び出して行ってしまったんですね?」


 の問いかけに、二人とも苦笑いをする。


“本当に、ありがとうございました”


 深々と頭を下げる夫婦。
 そして徐々にその姿が薄れていく。


“ほら、末吉も、お礼を”


 母親の促す声に、きょとんとする末吉。
 きっと自分の置かれている状況が分かっていないのだろう。
 けれど、達のお陰で両親に会えたことは分かっている。


“おにいちゃん、おねえちゃん、ありがと”


“おっとうとおっかぁといるみたいで、うれしかった”


 そう言い残して、家族は消えていった。
 は、手を合わせてじっと祈った。
 家族が、幸せでありますように、と。








「お待たせしました」
 振り返ると、薬売りはずっとのことを見ていたのか、すぐに目が合った。
「…えっと…、寄り道させてしまって、すみません」
 何故見られていたのか不安になって、思わず謝っていた。
「構いませんよ」
 特に怒っている感じではない。
 しかし、すぐに踵を返して来た道を戻ろうとする薬売り。
「行きますよ」
 そう言って、に手を差し出す。
 また、足場の悪い茂みを通って戻らなければいけない。
 差し出された手に、無意識に自分の手を重ねる。
 あの子のような冷たさはない。
 そうして二人は、道に戻る。やはり時折よろめくを、薬売りが支えながら。
「それにしても、面白いことを言う子ども、でしたね」
 不意に薬売りが口を開いた。
「え? 面白いことですか?」


「俺と貴女が、どうとか」


「…!!」
 は動きを止めた。
 あの家族が消えていくことが切なくて、末吉の言った言葉の意味をまともに捉えてはいなかった。
 けれど、中々どうして、結構なことを言ってくれたではないか。
「あ、あれは…ほら、子どもの言うことだし、大した意味はないんじゃないですか?」
 徐々に顔が熱くなっていくのが分かる。
 そして、気が付く。

 薬売りと手を繋いでいるという事に。

 それを初めて意識して、はその手を解こうとする。が、一瞬離れた手を、薬売りは即座に捕まえる。
「危ない、ですよ」
 ぐい、と引っ張られて、薬売りのすぐ傍まで連れてこられる。
 目の前に迫った青に、戸惑う
「大丈夫ですから」
「どうですかね」
 薬売りは、再び歩き始める。
 も引っ張られて進んでいく。
 ガサガサと茂みを掻き分ける音が、自分の跳ね上がった鼓動の音を消してくれているような気がする。
 その、音の合間に、微かに声が聞こえた。


「あれはあれで、意外と、楽しいもの、ですね」


 は、薬売りの背中を見つめた。


「これもこれで…」


 その先の言葉を聞き取ることは、には出来なかった。






 木漏れ日が、静かに二人に降り注いでいた。








-END-








第五巻が酷い駄作だったので
来週にUP予定だったものを急遽前倒ししました…。
これもそんなに大したことないですが…個人的に気に入ってます。


2009/10/24