少しずつ日が伸び始め、漸く真冬の寒さからは抜け出したこの頃。
いつもより長く商ってしまったと、薬売りは暗くなりかけた道を宿へと急いだ。
真冬ではないにしても、朝夕の寒さは相変わらずで、宿の中へ入ると、その温かさに肩の力が抜ける。
帳場に居た奉公人たちに声をかけられ、それに薄く返事を返す。
そこを通り過ぎ、部屋へ延びる廊下を歩いた。
不意に、誰かの話し声が聞こえた。
先の、角を曲がったところからだ。
薬売りが取った部屋とは逆の方向。
「年は?」
「…えっと」
若い女の声だった。
「知らないの?」
「聞いたこと、ないので」
さん?
よくよく聞いてみれば、一人は連れのだと分かった。
いつからそうしているのか、廊下は冷えるだろうに。
「どうして?」
「知らなくても困らないので」
「そういうものかしら…。じゃあ、生まれは?」
「それも…」
「えぇ??」
の答えに、呆れた声を出すのは、きっと宿の奉公人だ。
自分と同じ年頃で、男と二人旅をするに、どうやら興味をもったようだった。
「一緒に旅をしてるのに、素性も知らないの?」
「…そう言われても…」
その声から困り果てるの顔が、見て取れる。
「知らなくても、これまで私たちの間に困ることはありませんでしたから」
「だからって、好きな人の事、なんでも知りたいって思うのは当然でしょ?」
「…そういうものなんですか?」
「そういうものなのよ」
言われてみれば、薬売りは、に自分の話などしたことはなかった。
話したことと言えば、ずっと旅をしている、ということくらいだ。
考えてみれば、それだけの素性と、モノノ怪退治の実績と、好きだと言う気持ちだけで、は薬売りと共に歩んできた訳である。
一方薬売りは、の一通りの事を知っている。
母を亡くし、声を宛てに旅を始めたこと。幼少の折、父はその命と引き換えに狐に約束を取り付け、に音を与えた。
そうして今に至る。
薬売りに比べれば、かなりの情報量だ。
そう言えば、聞かれもしない。
ふと、薬売りはそう思った。
「どうして聞かないの?」
「あまり、そういうことは気にならない性質みたいなので」
の言葉に、女は明らかにため息をついた。
「気にしなさい。それこそ、もし夫婦になる何て言ったら、相手の家族とか郷とか、暮らし向きやら財やら、そういうことは知っておくべきよ」
「…」
無言の。何か考えているようだ。
薬売りは成程な、と思う。
しばらく一緒に居るのだから、暮らし向きに関しては問題ない。
けれど確かに、並の人間の感覚ならば嫁ぐ相手の事は知っておきたいだろう。
薬売りは顎に手を当て、しばし考えを巡らせていた。
「何て言うか、聞いてはいけないような気がして」
が、そんな返事を返していた。
「え? 訳ありって事?」
「分からないですけど。でも、私は薬売りさんから話してくれるなら、その時は聞こうと思ってるんです」
だからそれまでは、聞くことはないし、気にしないことにしている。
薬売りは小さくため息を漏らした。
冷え切った廊下で、その息は微かに白く色づいた。
そんなふうに思っていたのかと。
取り立てて、知られたくない過去があるわけではない。
ずっと変わらぬ暮らしをしてきたのだから。
ただ、その詳細を知った時、きっとは驚くだろうし、困惑するだろう。
そうして、どうするべきなのか考えあぐねることになる。
そうなることを、避けてきた。
けれど、自分の事を知ってもらいたいとも思う。
自分が話せば、は聞いてくれるのだという。
聞いた後、どうするのかは分からないが…。
薬売りの中で、珍しく感情が渦巻いた。
END
一緒にupした期間限定モノと、繋がりがあるような、ないような。
ちなみに偶然です。
2016/1/31