幕間第七十四巻

〜ため息〜







 少しずつ日が伸び始め、漸く真冬の寒さからは抜け出したこの頃。
 いつもより長く商ってしまったと、薬売りは暗くなりかけた道を宿へと急いだ。
 真冬ではないにしても、朝夕の寒さは相変わらずで、宿の中へ入ると、その温かさに肩の力が抜ける。
 帳場に居た奉公人たちに声をかけられ、それに薄く返事を返す。
 そこを通り過ぎ、部屋へ延びる廊下を歩いた。

 不意に、誰かの話し声が聞こえた。
 先の、角を曲がったところからだ。
 薬売りが取った部屋とは逆の方向。

「年は?」
「…えっと」

 若い女の声だった。

「知らないの?」
「聞いたこと、ないので」

 さん?
 よくよく聞いてみれば、一人は連れのだと分かった。
 いつからそうしているのか、廊下は冷えるだろうに。

「どうして?」
「知らなくても困らないので」
「そういうものかしら…。じゃあ、生まれは?」
「それも…」
「えぇ??」

 の答えに、呆れた声を出すのは、きっと宿の奉公人だ。
 自分と同じ年頃で、男と二人旅をするに、どうやら興味をもったようだった。

「一緒に旅をしてるのに、素性も知らないの?」
「…そう言われても…」

 その声から困り果てるの顔が、見て取れる。

「知らなくても、これまで私たちの間に困ることはありませんでしたから」
「だからって、好きな人の事、なんでも知りたいって思うのは当然でしょ?」
「…そういうものなんですか?」
「そういうものなのよ」

 言われてみれば、薬売りは、に自分の話などしたことはなかった。
 話したことと言えば、ずっと旅をしている、ということくらいだ。
 考えてみれば、それだけの素性と、モノノ怪退治の実績と、好きだと言う気持ちだけで、は薬売りと共に歩んできた訳である。
 一方薬売りは、の一通りの事を知っている。
 母を亡くし、声を宛てに旅を始めたこと。幼少の折、父はその命と引き換えに狐に約束を取り付け、に音を与えた。
 そうして今に至る。
 薬売りに比べれば、かなりの情報量だ。

 そう言えば、聞かれもしない。

 ふと、薬売りはそう思った。

「どうして聞かないの?」
「あまり、そういうことは気にならない性質みたいなので」

 の言葉に、女は明らかにため息をついた。

「気にしなさい。それこそ、もし夫婦になる何て言ったら、相手の家族とか郷とか、暮らし向きやら財やら、そういうことは知っておくべきよ」
「…」

 無言の。何か考えているようだ。

 薬売りは成程な、と思う。
 しばらく一緒に居るのだから、暮らし向きに関しては問題ない。
 けれど確かに、並の人間の感覚ならば嫁ぐ相手の事は知っておきたいだろう。

 薬売りは顎に手を当て、しばし考えを巡らせていた。

「何て言うか、聞いてはいけないような気がして」

 が、そんな返事を返していた。

「え? 訳ありって事?」
「分からないですけど。でも、私は薬売りさんから話してくれるなら、その時は聞こうと思ってるんです」

 だからそれまでは、聞くことはないし、気にしないことにしている。



 薬売りは小さくため息を漏らした。
 冷え切った廊下で、その息は微かに白く色づいた。

 そんなふうに思っていたのかと。

 取り立てて、知られたくない過去があるわけではない。
 ずっと変わらぬ暮らしをしてきたのだから。

 ただ、その詳細を知った時、きっとは驚くだろうし、困惑するだろう。

 そうして、どうするべきなのか考えあぐねることになる。


 そうなることを、避けてきた。


 けれど、自分の事を知ってもらいたいとも思う。
 自分が話せば、は聞いてくれるのだという。
 聞いた後、どうするのかは分からないが…。


 薬売りの中で、珍しく感情が渦巻いた。















END








一緒にupした期間限定モノと、繋がりがあるような、ないような。
ちなみに偶然です。

2016/1/31