短編







 全てのものが輪郭を失くし、全てのものの存在が曖昧な夜。


 溶けてしまわぬように、手を伸ばした。







〜朧月夜〜







 真冬の冴えた空気に、月は冷たく鋭い光を放っていた。

 ほんの数日前までは。

 漸く吹いた暖かい風が、その空気を一変させた。

 霞がかった今宵の空は、夢の中にでもいるような気分になる。

 滲んだ月は、淡い光で辺りを包む。

 その光を受けた地上のものも、ぼんやりと光を発しているように見える。



 目の前には、ゆらゆらと風に揺れる菜の花。

 輪郭をなくした花は、黄の波のようだ。

 その波の向こうには、咲き始めたばかりの桜の木がひとつ。

 控えめなその姿は、儚い。





 そんな情景に、何の違和感もなく溶け込んでいる娘。

 菜の花の海に、うっとりと身を委ねているかのよう。




 彼女の姿もまた、ぼんやりとしている。

 輪郭を失くし、淡い光を帯びて。

 溶けてしまいそうだと思った。

 だから、自らも海の中に入った。




 さわさわと音を立てる菜の花。

 その音で、俺が近付いている事に、彼女は気付いているはずだ。

 なのに彼女は、こちらに見向きもしない。

 本当に溶けてしまったのかもしれない。






 後ろから彼女の肩に手を掛ける。




 驚いた顔を垣間見たけれど、霞に隠れて見えなかったことにする。




 そのまま、静かに背中から抱き寄せた。




 そうして存在を確かめた。




 輪郭を失くした身体も、曖昧に思えた存在も、この腕の中で確かなものに出来る。




 そう思うと、腕に力が入った。






 彼女は、俺に凭れるようにする。






 そうして小さく、笑った。






「よかった。少し肌寒かったんです」





 喜んでもらえるのは有り難いけれど。

 彼女は、俺の殊勝な不安なんて、理解っちゃいない。

 それでもいいと思えるのは、惚れた弱みと言う奴か。







 寒いと言う彼女の肩を、軽く撫ぜてやった。







さん」



「はい?」



「このまま一緒に、溶けてしまいましょうか、ね」



 瞬間、僅かに驚いて、けれど彼女の口角が上がった。



 そして小さく囁いた。







「…いいですよ」







 言って彼女が身体の力を抜いた。





 何とも、心地のいい世界だ。










 暫くそうやって景色に溶け込んでいると、不意に彼女の肩が動いた。

 大きく息を吸ったらしい。

 それから彼女は音を奏でた。





 菜の花畠に 入日薄れ

 見わたす山の端 霞ふかし

 春風そよふく 空を見れば

 夕月かかりて にほい淡し



 里わの火影も 森の色も

 田中の小路をたどる人も

 蛙のなくねも かねの音も

 さながら霞める朧月夜









 聞いた事のない、情緒のある歌だった。


 もう少し早い時分の歌。


 けれど、ぼんやりと霞んだこの場所には、これ以上の歌はない。


 いつもより幾分落ち着いた彼女の声も、歌にとても合っていた。




 俺は腕の力を弱め、彼女を解放してやる。


「その歌は、一体…」


 彼女は俺に向き直って、穏やかに微笑んだ。


「さっき、薬売りさんが傍に来る前に聞こえてきたんです」



「とても、いい歌、ですね」



「はい」




 うっとりとした瞳でこの空気を味わう彼女。


 本当に、溶けてしまいそうだ。


 だからもう一度、彼女を確かなものにした。





















 全てを優しく包み込み、滲ませ曖昧にする。


 静かで穏やかで、少しだけ気だるい。





 朧月夜―。



















「朧月夜」童謡


















-END-














数日前の帰宅途中の月がまさに。

春のSSは桜ものが既にいくつかあるんですが
たまには他のものをと思いまして。


2012/4/8