丑の刻。
白い月の下。
四つの影。
木々のざわめき。
微かに香る、蜜柑の香。
夜も更けたというのに、じっとりと暑い。
「本当に、紗和さんがくるんですか?」
「来るはずです」
境内に、木霊する。
そして、静まり返る。
薬売りが身構える。
それに気付いて、も身体を堅くする。
蒸し暑さが、消える。
代わりに冷えた風が漂う。
来る。
“何処に居るの”
徐々に近付いてくる声。
捜し求める、哀しい声色。
四人の頭上から、それは現れた。
こけた頬。
窪んだ眼窩。
乱れた髪。
長い、首。
「お紗和ちゃん…!」
震える声。
エツが一歩、進み出る。
両手を伸ばし、縋りつく様。
“由次さん…”
「お紗和ちゃん、すまなかったねぇ。すまなかったねぇ、本当に…っ」
伸ばした両手を合わせる。
ガクリと、膝を着く。
「アタシがもっと親身になってあげれば…こんなことには…」
「エツさん…」
は、エツの震える肩を擦る。
“由次さん…”
「由次さんはここです!」
更に前に出たのは蓮。
紗和に向かって広げるのは手拭。
その中には由次の遺髪。
「貴女と由次さんを引き裂いたのは、私です!」
たちに背を向けている蓮の表情は分からない。
けれど。
「恨むなら、由次さんではなく私を恨んでください!」
涙声。
も薬売りも、見ている事しかできない。
解ってもらえるのか。
モノノ怪となってしまった紗和に。
“由次さん…”
「由次さんは、ここです!」
そう言って手拭を示す。
「貴女を追って、川に身を投げました!!」
うろうろとしていた首が止まる。
ゆっくりと、蓮の方を向く。
「貴女を追って死んだんです!!」
首が漂ってきて、手拭を覗き込む。
遺髪を凝視する。
は、目を見開いた。
“いやぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!”
絶叫が、耳を劈いた。
見えたのは、祭りの景色。
提灯の下がった神社への道。
ぼんやりと、現実味が無い。
階段を見上げる一人の女。
約束の時間にはまだ早いけれど。
口元が、緩んでいる。
“ここから、始まる…”
二人の日々が。
その日、始まるはずだった。
徐々に人出が少なくなって。
やがて提灯の火も消された。
誰もいなくなった境内に、女が一人。
やはり、嬉しそう。
小さく纏めた荷物。
今はそれだけあればいい。
この荷物と、あの人と…。
けれど…。
約束の刻限は過ぎた。
徐々に空は明るくなっていく。
彼女の表情は、曇っていく。
待ち人は、来なかった。
“どうして…?”
木霊する声は、細い。
それから、来る日も来る日も彼女は待った。
けれど、夏が過ぎ、秋になり、冬が来て…。
それでも待ち人は来なかった。
そしてあの日。
一面の銀世界。
そろりと階段を下りる姿。
一段一段、慎重に。
大分やつれて細くなった身体。
骨のような足。
ふらつき、ぎこちない動き。
そして―。
次の瞬間、彼女の姿は、石段の下にあった。
変わり果てた姿で。
「さん…!」
「―っ!!?」
呼ばれて目を開ける。
薬売りが見下ろしている。
その向こうには真っ暗な空。
遠くで聞こえる金切り声。
何が、どうなっているのか。
「薬売りさん…?」
「大丈夫、ですか」
そうして漸く気付く。
しゃがみ込んだ薬売りに、抱えられていることを。
二人を、札が丸く囲んでいる事を。
エツと蓮も同じように札に守られている。
「わ、たし…」
「急に、倒れたんですよ」
あの光景のせいだ。
紗和の見たものが、見えた。
感じたものが、分かった。
期待。
不安。
切望。
そして。
絶望。
「大丈夫、ですか」
頭上から降ってくる声。
思わず、俯く。
深呼吸して。
俯いたまま頷く。
そうして顔を上げる。
「ちゃんと教えてあげなくちゃ」
「…何を、ですか」
「由次さんが、もうここには居ないという事をです」
は立ち上がる。
薬売りも一緒に立ち上がる。
が歩き出す。
それに合わせて薬売りも札も動く。
蓮の傍へ行き、遺髪を受け取る。
そして紗和の顔の前に進み出る。
首を横に振る紗和。
いやだ、いやだと、ダダを捏ねる子どものよう。
「由次さんの髪です」
静かな声。
その声で、紗和の動きが止まる。
「貴女なら、分かるでしょう?」
ゆっくりと、覗き込んでくる。
「由次さんは、ここにはいません」
すぐ手元まで、顔が伸びてくる。
「待っているだけでは、ダメです」
手が、震える。
「貴女から会いに行ってあげてください」
瞬間、顔が消えた。
そして、紗和が居た。
元の姿の紗和。
人並みの首。
何処にあるのか行き着かなかった身体。
涙をたたえる瞳。
エツの行っていたとおり、とても綺麗な人。
“由次さんに会いたい…”
は、力強く頷いた。
「きっと、会えます」
そうして辺りは金に染まった。
神社の裏手。
細く、急な石段。
下れば直ぐに、田んぼの畦道。
そこにはもう、誰も居ない。
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2010/10/2