「ここは、人の心が創り出した場所だ」
桜を見遣っていた視線を、自らの足元へと落とす。
何処か、憂いを帯びた顔をしている。
「人の、心…」
「そうだ。現の世の桜は、咲けばすぐに散ってしまう。それを惜しむ人々の心が集まり、ここを創り出した」
薬売りとは、木の下から抜け出し、男の傍へと近づいた。
男が手をひらりと動かすと、やはり何処かから長椅子が二人の背後に現れた。
二人は顔を見合わせ、長椅子へと腰掛ける。
「この国の者たちは、特別桜が好きだろう? その美しさに感嘆すると共に、一瞬にして散ってしまうこの花に寂寥を覚える」
ずっと咲いていればいいのに。
数多のそんな感情が渦巻いた結果がここだ。
「貴方は?」
は首を傾げる。
「うむ。私にも分からんが、想いの集合体か、生前余程桜が好きだったかのどちらかだろう」
男は、一人ここに在り続ける存在だという。
「この里は、何のために、あるんで」
「慰みだ」
男は言い切って桜に目を遣る。
「この場所は、人を呼ぶのだ。人の世…現に迷い、疲れ、逃げたいと思う人を」
その言葉に二人はそろって怪訝そうにする。
「一刻しか咲かない桜が、延々と咲き続ける様を見せ、その心を慰める。それだけだ。お前たちは違うようだが…」
「俺たちは、何を迷うことも、ありませんからね」
真っ直ぐな薬売りの視線に、男はまた肩を竦める。
「娘もか」
「はい」
強い意志の感じられる瞳に、男は目を細めた。
「迷い込んだ者は、初めはこの美しい桜に目を奪われ、喜び、心を休める。しかし…」
出口もなく、時の過ぎるのも分からないこの地を、やがて恐れるようになる。
慌てふためき、怯え、恐れ戦く。
現から逃げたいと思っていた人も、帰りたいと思うようになるのだ。
「そうなったとき、その者を現へ返すのが私の役目だ」
「何をするでもなく?」
「あぁ。長く桜を見ていたいと想う気持ちで作られたこの里も、私も、人に何かをする必要などないのだ」
「此処に在って、人を慰められればそれでいい、と」
「その通り。これほどまでに美しい場所なのに、それだけなのだよ」
小さく嘆息した風の男だが、柔和な顔をしている。
「お前たちがここに来たのは、桜の木々たちが、お前たちに気付いて欲しかったからなのだろうな」
男の言葉に、二人は顔を見合わせる。
「いつもいつも、気鬱なものばかり相手にしておる故。仲睦まじい夫婦に見てもらいたかったのだろうよ」
なぁ、桜たち、と呼びかけると、木々はさわさわと枝を揺らした。
その音を聞くと、男はクスッと笑みを漏らした。
「確かに俺たちは、常人ではない、ですがね」
薬売りが言った。
「人に混じって生きる怪だなんて、酷いです」
続けてが不満そうな顔で言った。
「おいおい」
男は目を丸くした。
「木々たちの声が聞こえるのか」
「常人ではありませんからね」
「だから、木々たちはお前たちを招いたのか」
男は何処か嬉しそうに呟いた。
さわさわと揺れる枝の奏でる音が、三人を包み込む。
ひらひらと舞い散る花弁が、一層数を増す。
けれど、枝に咲く花の数が減ることはなく、永遠に咲き続ける。
この場所は、いつまでも此処に在り続けるのだろう。
薬売りは思った。
人々が、花咲くのを心待ちにし続ける限り。
人々が、花散るのを惜しみ続ける限り。
「綺麗な所でしたね」
弾むような歩調で、薬売りの前を行く。
「えぇ」
薬売りはその様に目を細める。
「でも、少し悲しい場所…」
憂いを含んだ微笑み。
「えぇ」
そんな顔をするの傍へ寄ると、薬売りはの髪に触れた。
「人の心は、色々なものを創り出してしまうんですね」
「それだけ、人の想いは強いってぇこと、ですよ」
は薬売りのその言葉を、噛みしめるように口の中で繰り返した。
「何れまた、招かれるでしょう」
「?」
「気に入られてしまったよう、ですからね」
半ば呆れるように笑って、薬売りは背後を振り返った。
視線の先、遠くなった山の中腹。
その一角にある桜色を、薬売りは見遣った。
も、それに倣う。
さわさわと、枝の揺れる音が聞こえたような気がした―。
END
日本人は皆桜が好きだと勝手に思い込んだ結果のお話。
2013/4/21