「申し訳ありません、姫」
莢矢は、眉間に皺を寄せて言った。
「何を謝ってるのよ」
「しかし、言い出した本人が」
「いいのよ。言ってたじゃない、私の為になることをするんだって」
「姫…」
藍姫は、莢矢に背を向けて空を仰いだ。
月の光を全身に浴びる。
「綺麗ね」
ポツリと呟いた声に、莢矢も空を見上げる。
雲の流れが早く、月にかかってはすぐに消えていく。
その度に、辺りが僅かに暗くなっては、また明るくなる。
「はい、とても」
藍姫の背中に、そう答える。
「ねぇ、莢矢」
「はい」
「これから言うこと、すぐに忘れて」
「…」
「忘れて」
「はい」
「私、お嫁に行く」
「はい」
「でもね、私の心の中には、ずっと一人の人が居るの」
「…はい」
「それは、変わらない。変えられない。それが私の本心」
「はい」
藍姫は、くるりと莢矢に向き直った。
その泣き出しそうな笑顔は、とても輝いていた。
「…ありがとう、聞いてくれて」
でも、忘れて、と藍姫は言った。
「菖矢の願いを聞いたなら、私の願いも聞いてくれませんか」
暫くの間を置いて、莢矢が口を開いた。
藍姫は首を傾げた。
「何?」
「姫を、驚かせる願いです」
莢矢の切なそうな顔に、藍姫は少しばかり動揺した。
「だから、何?」
「すぐに、忘れてください」
自分と同じ事を言う。
「分かった、忘れる」
「一度だけ、抱きしめてさせていただけますか」
莢矢の言葉に、藍姫は目を丸くした。
「莢矢…」
目の前の男が、決して冗談を言う性格ではないことくらい分かっている。
それくらい意外な言葉だった。
「今、何て…」
「これきりでいいのです」
真剣な眼差しが藍姫に向けられている。
「不躾な願いだという事は、承知の上です」
「…不躾なんかじゃない…」
「っ!?」
藍姫は、自ら莢矢の胸に飛び込んだ。
莢矢は、予期せぬ姫の行動に、驚きを隠せなかった。
「…姫…」
胸に触れる藍姫の手が、小さく震えていることに気付く。
「莢矢」
すぐ傍から呼ばれて、莢矢は両腕を上げた。
そうして、藍姫を抱きしめた。
「姫」
もう二度と、手に触れることのないもの。
二度と、感じることのない温もり。
忘れてと、互いに言ったけれど、きっと忘れることはない。
そんなこと、出来るはずがない。
きっと月を見るたびに、思い出す。
月だけが知っている、二人だけの―。
それから姫は、嫁いでいった。
白無垢姿は、それはそれは綺麗なもんだった。
冬新様も巴様も、俺達も親父も、仕えていた他の奴らも、祝福の言葉を口にした。
本当は、そんな言葉は言いたくなかった。
皆、同じ気持ちだ。
月見のときのことは、少しだけ兄貴から聞いた。
俺の思ったようにならなかったことが少しばかり悔しかったけど、でも、それが二人の選んだ道なんだから、俺には何も言うことはない。
だから、姫を送り出す。
とても笑顔で、なんて事は出来ないけど、それでも、送り出す。
豪勢な籠に乗り込んで、姫は深月の屋敷を出る。
小さくなっていくその籠を俺も兄貴も、いつまでも見つめていた。
なぁ、姫。
俺達はいつでも姫を思っているよ。
特に兄貴が、だけど。
いつでも、姫を守るから。
何処にいても。
何があっても―。
深月の屋敷と吾妻を含めた家臣の家が襲われたのは、それから半年後の事だった。
-END-
2012/3/4