第十五夜





「申し訳ありません、姫」


 莢矢は、眉間に皺を寄せて言った。


「何を謝ってるのよ」
「しかし、言い出した本人が」
「いいのよ。言ってたじゃない、私の為になることをするんだって」
「姫…」


 藍姫は、莢矢に背を向けて空を仰いだ。
 月の光を全身に浴びる。


「綺麗ね」


 ポツリと呟いた声に、莢矢も空を見上げる。
 雲の流れが早く、月にかかってはすぐに消えていく。
 その度に、辺りが僅かに暗くなっては、また明るくなる。


「はい、とても」


 藍姫の背中に、そう答える。


「ねぇ、莢矢」
「はい」


「これから言うこと、すぐに忘れて」
「…」
「忘れて」
「はい」


「私、お嫁に行く」
「はい」


「でもね、私の心の中には、ずっと一人の人が居るの」
「…はい」
「それは、変わらない。変えられない。それが私の本心」
「はい」


 藍姫は、くるりと莢矢に向き直った。
 その泣き出しそうな笑顔は、とても輝いていた。


「…ありがとう、聞いてくれて」


 でも、忘れて、と藍姫は言った。







「菖矢の願いを聞いたなら、私の願いも聞いてくれませんか」


 暫くの間を置いて、莢矢が口を開いた。
 藍姫は首を傾げた。


「何?」
「姫を、驚かせる願いです」


 莢矢の切なそうな顔に、藍姫は少しばかり動揺した。


「だから、何?」
「すぐに、忘れてください」


 自分と同じ事を言う。


「分かった、忘れる」












「一度だけ、抱きしめてさせていただけますか」









 莢矢の言葉に、藍姫は目を丸くした。



「莢矢…」



 目の前の男が、決して冗談を言う性格ではないことくらい分かっている。
 それくらい意外な言葉だった。



「今、何て…」
「これきりでいいのです」



 真剣な眼差しが藍姫に向けられている。



「不躾な願いだという事は、承知の上です」




「…不躾なんかじゃない…」







「っ!?」



 藍姫は、自ら莢矢の胸に飛び込んだ。
 莢矢は、予期せぬ姫の行動に、驚きを隠せなかった。


「…姫…」


 胸に触れる藍姫の手が、小さく震えていることに気付く。


「莢矢」


 すぐ傍から呼ばれて、莢矢は両腕を上げた。


 そうして、藍姫を抱きしめた。


「姫」




 もう二度と、手に触れることのないもの。
 二度と、感じることのない温もり。




 忘れてと、互いに言ったけれど、きっと忘れることはない。
 そんなこと、出来るはずがない。





 きっと月を見るたびに、思い出す。






 月だけが知っている、二人だけの―。

















 それから姫は、嫁いでいった。

 白無垢姿は、それはそれは綺麗なもんだった。

 冬新様も巴様も、俺達も親父も、仕えていた他の奴らも、祝福の言葉を口にした。
 本当は、そんな言葉は言いたくなかった。
 皆、同じ気持ちだ。


 月見のときのことは、少しだけ兄貴から聞いた。
 俺の思ったようにならなかったことが少しばかり悔しかったけど、でも、それが二人の選んだ道なんだから、俺には何も言うことはない。


 だから、姫を送り出す。



 とても笑顔で、なんて事は出来ないけど、それでも、送り出す。



 豪勢な籠に乗り込んで、姫は深月の屋敷を出る。



 小さくなっていくその籠を俺も兄貴も、いつまでも見つめていた。








 なぁ、姫。

 俺達はいつでも姫を思っているよ。

 特に兄貴が、だけど。




 いつでも、姫を守るから。

 何処にいても。







 何があっても―。
















 深月の屋敷と吾妻を含めた家臣の家が襲われたのは、それから半年後の事だった。

















-END-













2012/3/4