ゆらゆらと提灯が揺れる。
夜も遅い時間、提灯なしでは出歩けない。
薬売りはそれを恨めしく思った。
左手には件の提灯。
右手はやや後ろに回して、あるものを支えている。
あるもの…
「う…ん…」
耳元で聞こえた微かな声。
薬売りはちらりとそちらに視線を向ける。
漆黒の髪と、伏せられた目蓋から伸びる長い睫毛。
すやすやと寝息を立てるだった。
「やれ、やれ…」
呆れた声を出しながらも、薬売りは何処か楽しそうだった。
薬売りが商いを終えて宿に戻って暫くすると、訪ねてくる者があった。
その女は奉公先でと知り合ったと言い、を迎えに来るようにと言った。
聞けば、そこは流行の居酒屋で、奉公人が多く働いているらしい。
そして、そこでは十日に一回ほど、店仕舞いをしつつ店の者たちで酒を酌み交わすのだ。
丁度その日に居合わせたも、もちろんその宴に参加する事になった。
周りがどんどん酒を注いで、もそれを断ることが出来ずに結構な量を飲んだらしい。
飲ませた当人たちが、が畳に突っ伏して熟睡しているのに気付いたのは、大分経ってからだった。
いくら声を掛けても揺すっても起きやしない。
このまま店で寝かせておくのもいいかと思われた。
けれど店主が、には連れが居るということを思い出し、宿に人を遣ったという話だった。
そうして、薬売りが迎えに行ったのだ。
声が聞こえたものの、目が覚めたわけではなさそうだった。
普段口には出さないが、疲れているのだろう。
背中に背負ったは、本当に良く眠っている。
それにも関わらず、薬売りにしっかりとしがみついている。
薬売りには、何故だかそれが嬉しかった。
「!?」
唐突に、首筋に何かが触れて、薬売りは珍しく身体を硬くした。
「…知ってる…」
やけにはっきりと聞こえた声に、薬売りはやはり珍しく吃驚する。
「…さん?」
薬売りの呼びかけには、何の反応も返ってこない。
けれど、何が気に入ったのか、はそのまま薬売りの首筋に顔を埋める。
「ん…いい匂い…」
笑っているのか、微かに息遣いを感じる。
そうして、ぎゅう、と肩と首にかかる重さが増す。
薬売りは、自分との間にある帯を、残念に思った。
それがなければ、もっと近付く事が出来たのに。
「…匂い…か」
薬売りは、身体を揺らしてを背負い直すと、嬉しそうに夜の中に消えていった。
ふわりと、何かが香る。
かぎ慣れている香りではあるけれど、いつもよりも少しキツイ。
けれど、嫌というほどでもない。
そして、とても暖かい。
は、まだぼんやりとする頭の何処か遠くの方で考え始めた。
自分は、仕事をしていたはずだ。
それが店仕舞いと共に酒宴へと様変わりした。
何回かお酒を注がれて、呑んだのは覚えている。
でも、そのまま店に居るなら、この香りはしないはず。
だって、この香りは、あの人からしかしない。
では、此処は何処だろう。
確かめたいけれど、どうにも目を開けるのが億劫で、はそこで思考を止めた。
この香りに包まれているなら、何を心配する必要があるのか。
「薬売りさんの…匂いだもん…」
胸の内での言葉が、声に出ていたことに、気が付くはずもなかった。
「俺の匂いだから、なんだってぇ言うんで…」
薬売りは、口角を上げつつ呟いた。
宿に戻ってから、薬売りはを自分の腕の中で眠らせた。
それほど自分の匂いが気に入ったのなら、傍で眠ろうと思ったのだ。
の頭の上の方に肘をついて、を見下ろすような形で一晩を過ごした。
自分も多少眠ったが、まだ夜明けまで随分とある頃に目が覚めた。
そして、幸せそうに眠るを、夢見心地で眺めていた。
腕の中で寝息を立てているはずの。
その口から唐突に囁かれたのが先の言葉。
小さな、とても小さな声だったけれど、この距離では聞き逃しようがない。
「…何の心配もいらないの…」
「さん…??」
自分の独り言に、まさか返事があるとは思っていなかった。
思わず名を呼んだけれど、それには何の反応もない。
その代わり、とても嬉しそうな顔をしている。
薬売りは、更に口角を上げた。
寝ている人に話しかけてはいけない、とは聞いたことがあるけれど。
せずには居れない。
「つまり、安心、ってぇことで」
薬売りの問いかけに、はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
そうして、微かに声が漏れる。
「薬売りさんの」
「俺の」
「匂いだから」
「…」
薬売りは、少々呆れ顔になる。
「話が、戻りましたよ」
やはり寝言なのだと納得して、薬売りは苦笑した。
そのせいなのか、敬語でもない事に気付く。
薬売り本人に聞かれているとは、思っていないらしい。
だから敢えて、他人のフリをして聞いてみたくなった。
「それほど、薬売りさんの匂いが、気に入っているんですか」
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2011/9/24