天気雨の夜

雨女〜序の幕〜







 鮮やかな紅い傘から、雨粒が滴り落ちる。

 それを目で追うと、紅い傘を差している人物の背中が見える。
  大きな行李を背負う、青い着物。
 降り出した雨を気にも留めず、ゆっくりと傘を開いて、ただ前を行く。
 町に着いたと同時に降り出した雨は、大降りになることなく、しとしとと静かに、泣くように粒を落としている。

 薬売りと旅を始めてから十日あまり。
  未だに二人はモノノ怪には出会っていない。

  あの宿を出るとき、薬売りはの感覚を試すように、行き先は任せると言って来た。
  は、まだ声は聞こえないと言ったけれど、押し切られた。
  そうして二つ目の町に辿り着いた。

  は紅い傘を差す後姿を、自分の傘の下から盗み見るようにしていた。

  モノノ怪に遭遇していないということは、まだ、互いに互いの力を見ていないということだ。
  に声が聞こえること、薬売りにモノノ怪が斬れること、どちらも確かめてはいない。

  先を行く薬売りは、何やら町の様子を窺っている。
  宿でも探すのか、商売の出来そうな家を探しているのか。
  は少々うんざりする。
  人を旅に誘っておいて、ほったらかし。
  何だか自分が勝手に付いてきているようにしか思えないのだ。
  話しかければ一応は答えてはくれるが、一言で終わる。しかも殆んどはぐらかしたような言い方。

  気付かれないように立ち止まって、軽く溜め息をつく。
 それからまた、薬売りの後を追おうと足を踏み出したとき、雨音に混じって、何かが聞こえた。
 ビクリ、との肩が揺れる。

“…して…”

 弱弱しいが、鼓膜を通した音ではない。
 この世ならざるものの声。
「薬売りさん」
 は何ら変わりのない声で、薬売りを呼び止める。
「何か」
 薬売りが振り向くと、それに合わせて雫も孤を描く。
 薬売りより背の低いの顔は、傘に隠れてしまっている。
  はそれに気付いたのか、僅かに傘を斜めにして、薬売りを見上げる。
「聞こえます」
 の言葉に、薬売りの表情が僅かに変わった。
「何処か、分かりますか」
「まだ声は小さいけど、多分」
 は頷くと、薬売りを追い越して先を行った。
 町の中を、時々足を止めながら歩く。
  足を止めるたびに、は耳を澄ましているかのように静かに目を閉じる。
  再び目を開けると、もう進む方向は決まっている。
 薬売りは、そのあとを、何処か面白いものを見るような顔をして付いていく。






 やがて辿り着いたところは、大きなお屋敷を取り囲む塀の前だった。
  以前に見た坂井の屋敷よりも一回り、いやそれ以上に大きな敷地のようだ。
「…今は聞こえないですけど、この中ですね」
「ほぅ…」
 薬売りが目を細めたことに、は全く気が付かなかった。
 二人が塀を辿って門の前に来ると、傘を持った人が一人、そこから出てきたところだった。
 白衣を着て、木箱を持っている。傘の下に垣間見る髪は白髪交じりで、髷を結っているが総髪。
「お医者様ですね」
 がぼそりと薬売りに話しかける。
「そのようで」
 となれば、薬売りの出番、なのだろうか。
「行きますよ」
 後姿を見送って、薬売りはその門をくぐる。
「え、行くんですか!?」
 は慌てて後に続く。








 玄関先で、傘の雨粒を払う。
 そしてそれを手近なところに立てかけておく。
 玄関の敷居を跨ごうとして、薬売りが一瞬、動きを止める。
「薬売りさん?」
 不思議に思ったが、薬売りの顔を覗きこむと、俄かに笑っている。
「どうやら、その通り」
 薬売りも何かを感じたようだ。
 薬売りはそのまま玄関の中に入ると、ちょうど通りかかった奉公人らしき女の人に声を掛ける。
「ちょいと、すみませんが」
 抑揚の無い声にも関わらず、薬売りを見た女の表情が変わる。僅かに頬が染まっていく。
「な、何かの押し売りですか?」
「いえいえ、私は薬売り。何か、ご入用ではないかと」
 それを聞いた女は、今度は驚いたように目を丸くする。
「くすり…、ちょ、ちょっとお待ちになってください」
 そう言って慌てた様子で屋敷の奥へと姿を消していく。
「何かあったんでしょうか?」
 後姿を見送りながら、は呟く。
「さあて、ね」
 二人はそのまま玄関で待ち、程なくして女がお侍を連れて戻ってきた。
 ごつごつと角ばった顔をした不機嫌そうなお侍は、薬売りとを爪先から頭のてっぺんまで嘗め回すように見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「お主が薬売りか」
「はい」
「そっちの女子は」
「ただの、連れにございます」
 言われては頭を下げる。下げた瞬間の誰の目にも触れないところで、不満そうな顔をしてやる。
「効くのか」
「病と、薬の種類に、寄りますが」
 薬売りの答えにお侍はまた、ふん、と鼻を鳴らした。
「…診てもらおう。イト、この者たちをサエ様の部屋に連れて来い。…身体を拭いてからな」
「はい」
 そう言うとお侍は、二人を一瞥して去っていき、イトと呼ばれた奉公人は、手拭を持ってくるといって再び姿を消した。




「サエ様というのは、どなたで?」
 手拭で着物の端を拭いていく薬売りは、傍に控えているイトに話しかける。
「若奥様です。ここのところ具合がお悪くて、何度も医者を呼んでるんですけどね」
 体調不良の原因が分からないという。
「さっきのお医者様も?」
 の問いに、イトは頷いた。門の外で見た医者も、首を傾げるだけ傾げて帰っていった。
  置いていった薬も気休めにしかならないだろうと言ったらしい。
「先ほどのお侍は」
 薬売りは更に続けた。
「牛尾様です。先代から今の旦那様に、長く仕えていらっしゃる方です」
 イトは二人から手拭を受け取ると、それを籠の中に入れる。
 身なりを整えた二人は、イトに案内されて“サエ様”の部屋に向う。
「…」
 は薬売りの後ろに続き、廊下を歩く。
 その表情は徐々に不安の色を濃くしていく。
 奥へ行けば行くほど、には声の源が近くなっているように感じる。
  外で聞いたよりも言葉が鮮明になってきている。とはいえ、まだ何を言っているのかは分からない程度だ。

さん?」

 の落ち着かない様子に気が付いたのか、薬売りが声を掛けてくる。
「あ、いえ。何でも…」
 何でもないということは無いのだが。
 しばらく行くと、イトが中庭に面した部屋の障子の前で膝をつく。
「お連れいたしました」
「おぉ、来たか。入れ」
 先ほど玄関先に来た牛尾とは異なる、良く通る声が聞こえてきた。
 イトは静かに障子を引くと、薬売りとを中に入れる。
 二人が中に入ると障子は閉まり、イトの足音が遠のいていく。
 薬売りとは正座をして頭を下げる。
「面を上げよ。堅苦しいことは無用だ」
 良く通る声に言われ、二人は頭を上げる。
 二間続きのその部屋の、手前には牛尾が控え、奥には一人の男が胡坐をかき、その後ろの御簾越しに人の影が見える。
「薬売りといったな」
 胡坐で座っている男が問う。
「左様で」
「儂はこの屋敷の主、日向泰善、奥にいるのが妻のサエだ」
 言われて二人は深々とお辞儀をする。
 まだ若い。
 話し方こそ年を取ったような言葉遣いだが、皺もなく艶もいい。
  牛尾と比べると、線も細く、少々頼りなく見える。
「サエの病に効く薬はないものか…」
「診てみないことには、何とも」
「そうか…。サエ、いいか?」
 日向は振り返り、御簾の奥にある影に話しかける。
「…はい」
 掠れた弱弱しい声が、微かに聞こえた。
「では。さんも」
「はい」
 チラリとを見る薬売り。多分、女の寝所に男だけで入ることが憚られたのだろう。
 薬売りは日向の後に続いて御簾を潜る。はその後に続く。

“…返して…”

「―っ!?」
 御簾を潜って、布団の端を目に捉えたとき、微かに声がした。
  今度は何を言っているのかも、はっきりと分かるほどに。
 左側の襖に目を向ける。
  もっと、奥。
  ここよりももっと屋敷の奥から聞こえた気がする。
さん?」
 明後日の方向を見ていたことに気付いたのか、薬売りが声を掛ける。
  その声で我に返ったは、すぐに薬売りの傍に行く。
 一度薬売りと目を合わせたのは、“聞こえた”と伝えたつもり。
 薬売りは何も答えず、サエの状態を見る。
 少々やつれてはいるが、外見上の異常は見つからない。
  青白い肌に、下ろされた黒い髪、頭には紫の帯が巻かれ、退魔のまじないがされている。
「失礼、しますよ」
 そう言って薬売りは、サエの呼吸を診たり、脈を取ったり、指でトントンと身体を叩いたりして様子を見ていく。
 は、その医者のような振る舞いに少々驚いていた。
「どうだ?」
「良くは、分かりませんが…。手持ちの調合済みの薬では、効きそうなものは、ありません」
「…そうか」
 がくりと肩を落とす日向。
 サエの辛そうな表情にも拍車が掛かる。
「あなた…」
 か細い手が、日向に伸びる。日向はそれをしっかりと握る。
「少々、調合をさせては、くれませんか」
「効く薬が出来るのか?」
「それは、何とも」
 パッと明るくなった日向の表情が、一瞬にしてまた暗くなる。
「やってみないことには…」
「そ、そうか…では、部屋を用意させる故」
 日向の言葉を受けて、牛尾がイトを呼ぶ。
「もう、日も落ちる頃だ。雨も降っていることだし、泊まって行くといい」
「ありがたく…」
 薬売りは丁寧に頭を下げる。





 通された客間で一息も付くことなく、薬売りはいつも背負っている行李の引き出しを開けた。
 は初めて見るその中身に興味津々といったところで、後ろから覗き込んでいる。
 引き出しの中から、不思議なものが出される。
 両腕を広げて、先の尖った足が一本、両腕の中間にはそれぞれ一つずつ丸い玉のようなものがついて、目のように見える。腕の先には鈴。
 薬売りはそれをいくつか取り出して部屋の四隅に並べる。並べるというより、人差し指で、足の先をひょいとつつくとそれが勝手に飛んで行くのだ。
 は不思議そうにそれを眺める。
「何か、聞こえましたか」
「え!?」
 見入っていたは、咄嗟に声が裏返る。
「あぁ、すみません。…聞こえました。返して、と」
「返して、ですか」
「はい。御簾の中に入った瞬間。でも、声の源はもっと別なところだと思います」
「…ほぅ…。そこまで」
 何やら感心した風にを見る。
「あの、聞いてもいいですか? 今四隅に投げたのは、何ですか」
「天秤、ですよ」
 薬売りは、行李からもう一つ取り出すと、ぽんとに投げる。
 は緩やかに飛んで来たそれを、慌てて薬売りがやっていたのと同じように人差し指の腹で受け取る。
 そうすると、天秤が独りでに、お辞儀をするようにに向って前傾する。
  その可愛らしい仕草に、は思わず笑みを零す。
「天秤ですか? 一体何に?」
「距離を、測るんですよ。モノノ怪との、ね」
「モノノ怪との…距離」
 は薬売りの言葉に、周りの天秤たちを見回す。
 見たところ、設置してからの変化は無い。
  まだ近くに居ないと言うことだろうか。
 首を傾げるを他所に、薬売りは別な段からいくつかの包みを取り出す。
「薬を作るんですか?」
「一応は、ね」
「一応って…あの若奥様の病は治らないものなんですか?」
 は身を乗り出して薬売りの顔を覗きこむ。
「まだ、分かりません」
 小さな擂り鉢に何種類かの粉を入れて、何回か棒で擦りつける。
  そして何を思ったのか行李を背負い直して部屋から出て行く。
「く、薬売りさん!?」
 慌ててその後を追う。




 薬売りが行った先は土間。
 奉公人達が夕餉の支度を始めている。
「あら、アンタが薬屋かい?」
 窓際の台で青菜を刻んでいる女がこちらに気付く。
「すみませんが、湯を少し、いただけませんか」
「さっき沸いたのがそこにあるから、勝手に持っていきな」
「ありがたく…」
 そう言うと行李を置いて、土間に降り、竃に向う。は土間用の下駄がなく降りられなかったので、そのまま行李の脇で待つ。
「ちょいと、お聞きしたいんですがね」
「なんだい?」
 見ていると、薬売りが奉公人たちに何か尋ね始める。
「奥様は、いつから具合がお悪いんで?」
「さあ、もう何年も前からだと思うけど」
「りん様が生まれて、少ししてからじゃないのか?」
 隅の方で焼き物をしている男が口を挟んだ。
「りん様?」
「三つになるご息女様だよ」
 今日は何処で遊んでるんだか、とぼやく。
「奥様は雨の日に悪くなるっていうのに、逆にりん様はいつも以上に元気で…どうなってるんだか」
 薬売りは少しのお湯を入れた擂り鉢の中を、ゆっくりと擦っていく。
  ザリザリ、と規則的に音がする。
 は手持ち無沙汰になってしまい、仕方なく床に座り込む。
  ぼんやりと土間にいる人々の背中を眺める。
 すると、廊下の方から足音が近付いてきた。
「おセン、居るかい?」
 姿を現したのは、年増の女。渋い色ではあるが見るからに高級そうな着物。
  同じように細かく織り込まれた帯。
  白髪混じりの髷には豪奢な櫛と簪が刺さっている。
 うぇ。
 はその女の姿に辟易した。あまり派手な色を好まない上に、経済的に無理なには、あまりにも金の掛かりすぎた出で立ちである。
「はい、大奥様」
 青菜を切っていた女は、呼ばれると直ぐに女の下へと行く。
 薬売りは聞こえていないかのように振舞いながらも、チラリとそちらを見る。
「りんが着物を汚してしまってね、すぐに着替えさせておやり」
「はい、大奥様」
 そう言うとセンは廊下へ消えていく。
「…全く、あれ程離れには行くなと言ってるのに」
 それを見送った女は、ぶつぶつと言いながらに目を向ける。
「見ない顔だね」
「はい、先ほどからお邪魔させていただいている薬売りの連れで、といいます」
 居住まいを正して、床に手をついて挨拶をする。
「そうかい。ま、医者も手に負えないような病を薬売り風情がどうこうできるとは思えないけど」
 さらりとそう言ってのけた女は、薬売りを視界に入れることなくそのまま去っていった。
「何なの、あの言い方」
 女が消えていった方に向って、不満そうな顔をする。そんなを宥めるように男が言う。
「あんまり気にするな。ああいう方だ」
「今の、大奥様って…」
「あぁ。いそ様だ。大奥様って言っても、サエ様の母上でな。先代とその奥様が亡くなってから居座るようになって、デカイ面してるんだよ」
 呆れたと言わんばかりの言い方。どうやら良く思っていないようだ。
 は困ったように笑いながら、薬売りに目を向ける。と、何故か目が合ってしまった。
「…?」
 なんですか、と言おうとすると、急に雨脚が強くなった。
 さっきまでの静かな降り方とは打って変わって、屋根や地面を激しく叩く音が聞こえる。
「本降りになりやがったな」
 ぼやくように言って、男は僅かに開けていた窓を閉じ始める。
さん…」
 薬売りは土間から上がって、目配せをする。
「急に強くなりましたね」
 は外を気にしながら薬売りの元に行く。
「これを、持っていて、くれませんか」
 薬売りは懐から何かを取り出して、傍に来たに渡す。
  首を傾げながらそれを開くと、何やら模様が描かれていて、何かのまじないの札ようだった。
「これは…?」
「持っていれば、分かりますよ」
「はい」
「どうやら、サエ様の部屋で、何かあったようだ」
「え!?」











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2009/8/29



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2010/2/8