二人がサエの部屋の前まで来ると、障子の向こうには、何の気配も感じられない。
がふと、障子を見ると、さっき薬売りから貰ったあの札が何枚か貼ってあった。
いつの間に貼ったんだろう。
そんなことを思う。
そんなを他所に、薬売りは障子を開け放つ。
スパン、と小気味いい音がして、開かれた障子の向こうには、日向と牛尾、いそが驚いた顔をしてこちらを見ていた。日向の膝の上には、小さな女の子。
「お、お前、急に入ってくるなど、無礼千万!」
牛尾が鼻息を荒くして立ち上がる。
「早急に、対処したほうがいいかと、思いましてね」
「な!?」
「サエ様に、何か、あったのでしょう?」
牛尾に構うことなく、御簾に近付いていく。
「薬売り、何故分かる!?」
日向が驚いた顔のまま薬売りを見上げる。
「いえね、札が、騒ぎまして」
「札…?」
薬売りはそれだけ言うと、御簾に手を掛ける。
そして思い切り引っ張って外してしまった。
「薬売りさん!?」
その奥では、サエが横になっているというのに、何を考えているのか。
しかし、の心配を他所に、そこには何故かずぶ濡れになったサエが、布団に包まってがくがくと震えていた。
「何が、あったんで?」
「き、急に…。雨が強くなったと思ったら、急にサエが悲鳴を上げて。御簾の中を見たらずぶ濡れで」
日向は項垂れる。
「…ほぅ…」
「でも、悲鳴なんて聞こえませんでしたよね?」
は持っていた手拭でサエの頬や髪を拭う。
何故、誰も拭いてあげないんだろう。
そう思っていると、拭いた傍からまた湿っていく。
「なに…これ…」
「拭いても無駄だよ。またすぐに濡れちまうんだ」
唸るに、いそが腹立たしそうな声を出す。
「そんな…」
が顔を顰めると、その目の前を天秤が飛んだ。
薬売りの方を見れば、先ほど、客間でやっていたのと同じように、いくつも天秤を部屋に投げている。
「おい、何をしている!! それは何だ!?」
怒鳴りつける牛尾。
「天秤、ですよ」
客まで聞いた言葉、そのまま。
「天秤だと!? そんなもの、どうする!」
「測るんですよ…」
“…私の子…”
はハッとする。
薬売りの声と被るように、か細い女の声が聞こえた。
「薬売りさん!」
は声の出所を探るように辺りを見回しながら、薬売りに声を掛ける。
薬売りが身構えるのと同時に、天秤がいその方に傾く。
「!」
薬売りはすかさずそちら側の襖に無数の札を放つ。
貼りついた札は、一度ぐにゃりと模様を替えて、落ち着く。が、すぐにその模様が赤黒く光る。
その状態が暫く続いたかと思うと、やがて札が元に戻った。見れば天秤も水平に戻っている。
「薬売りさん…」
は、不安そうな顔で薬売りを見る。どうやらあの札は、結界になるらしい。は懐にしまった札を、着物の上から確かめた。
「母様ぁ」
ポツリと、日向の膝の上のりんが言った。
どちらとも無い方向を向いて。
その声に、その場に居た誰もがりんを見る。
「母様ぁ、どこ?」
「りん?」
日向は立ち上がるりんに手を伸ばす。しかし、その手は空を切る。
サエですら、そのりんの声に、体の震えを止めていた。
薬売りは、鋭い目でそれを見ている。何か、探るように。
「りん、母様はここですよ」
弱弱しい声で、サエはりんを呼ぶ。
呼ばれてりんは、サエの方に向うのだが、その顔は不満そうに歪んでいる。
「母様…?」
また、明後日の方を向いてしまう。
「りん! 母様はここです!! 私がお前の母様ですよ!?」
サエはふら付きながら、這ってりんの元に行くと、掻き抱く。そうして何度も頭を撫でる。
「お前の母様はここにいます!!」
はその光景に、複雑な思いがした。
あの声は、この子を指しているのだろうか。
直線に結んだ唇に、力が入る。
「さん」
そろり、と薬売りが近付いてきて、小声で呼ばれる。
「声は、何と」
「…私の子、と言っていました…」
の答えに、薬売りの目は鋭く光った気がした。
返して。
私の子。
あの声は、何を言いたいのだろうか。
は無意識に、薬売りの着物の袂を掴んでいた。
「ひいぃぃぃ!??」
大仰な叫び声が聞こえた。
見れば、いそが酷く青ざめた顔をして、うなじの辺りに手を当てたまま固まっている。
「義母上?」
「どうされた!?」
近付こうとする日向を制し、牛尾が立ち上がると、いその背後の襖に貼ってある札が再び色を変えた。
すると、いその頭上からボタボタと雫が落ちてくる。
それは次第に粒を大きくし、瞬く間にいその足元を濡らしていく。
いそは、固まったまま動けない。
「お母様!!」
掠れたサエの声が響く。
その余りにも不可思議な現象に、皆動けずにいる。
「く、薬売りさん」
何が起こっているのか。は縋るように薬売りを見上げる。
「…!」
見上げた薬売りの顔は、見たことも無いくらい険しい表情をしていた。
薬売りはいその方を見たまま、丁寧にの手を解く。そしていつもより幾分早足でいそに近付いていく。
ある程度距離のあるところで歩を止めると同時に、右手をいその方に向けて翳す。
「ひぃぃぃぃ!!」
薬売りの突然の行動に、手を向けられたいそは両腕で顔を覆う。
すると、何かに弾かれたように、天井から滴る雫が粉砕する。いその足元に広がっていた水溜りも動揺に吹き飛んでなくなっていた。
「お前、何をした!?」
牛尾が酷い剣幕で薬売りに詰め寄る。
「どうやら、効果は、ないようで」
牛尾など微塵も気にせず、薬売りはいその様子を窺う。その表情はやはり厳しい。
薬売りの言葉で、いそへと視線が集中する。
「お、お母様…」
りんを抱きしめたままのサエ。そのあまりの力で、りんは苦しそうにしている。
いそに降り注ぐ雫は止まず、却って勢いを増していく。やがて小さな滝のように水量を増すと、いそを飲み込んでしまった。
「義母上!」
「お母様!!」
日向もサエも、立ち上がっていそに近付こうとする。が、遮られた。
いつの間にか剣を握った薬売りによって―。
「き、貴様…そんなもの何処から」
「近付かないほうが、得策かと」
がなり立てる牛尾を無視して、横目で二人を見る薬売り。
は、その光景をただ遠巻きに見ているしか出来なかった。
「あ゛…ぁ」
水に飲み込まれたいそは、苦しそうに呻いてそこから逃れようともがく。
しかし、何かに縫いとめられたようにそこから動くことが出来ず、やがて喉を引っ掻くように喘ぎ始めた。
「このままじゃ、息が…」
の顔も、青ざめていく。
けれど、見ているだけしか出来ない。
「お母様ぁ!」
サエの悲鳴にも似た声で、我に返る。
いその方を見れば、信じられない水量が打ちつけ、いその姿すら見えなくなっていた。
不思議なことに、その流れ出た水は畳みの中へ吸い込まれるように消えていき、あふれ出すことは無い。
その勢いが弱まり、いその姿が薄っすらと見えたとき、いそは天井を見上げた格好をしていた。
目をこれでもかと見開いて、何かに驚いているように見える。
それからゆっくりと頭を動かすと、牛尾、そしてサエ、とその見開いた目で順に見ていった。
「お、お母様?」
何かを訴えるように口を震わせている。
「何を…仰りたいの?」
しかし、その口からは何も発せられないまま、いそは力尽きた。
いそが畳みに崩れ落ちるのと同時に、天井からの滝も止まった。そして札の色も元に戻る。
「お母様…」
「義母上!」
日向が薬売りの腕をくぐり、いそに駆け寄る。
抱き上げて揺すってはみるものの、反応は無い。
「―くっ!」
日向は目を閉じて唇を噛む。
そこにサエがよろよろとやってきて、いその死を目の当たりにする。
「そんな…いやよ、お母様…いやぁぁぁ」
いその身体に縋って、泣き崩れた。
“…返して、私の子…”
ぞくりと、は背筋が冷えていくのが分かった。
今まで、感じたことも無いような哀しみが伝わってくる。一体何処から、誰が。全く分からない。
はその哀しみに押しつぶされそうになるのを、必死に耐える。
「札を貼ります。奥へ」
苦虫を潰したような顔で、薬売りが静かに呟いた。
「一体、何なのだ」
日向が、サエをいそから引き剥がし、いそを横たえる。サエは放心したように、横たわるいそを見つめている。
「おい、薬売り、何か知っているんだろう。何故義母上は死んだ」
薬売りはがいる奥の部屋に来ると、まだ手前の部屋にいる三人に目だけを向ける。
「モノノ怪の、仕業、ですよ」
「モノノ怪だと? そんなものが居るわけ無かろう」
牛尾が鼻息を荒げる。
「では、ただの雨漏り、と?」
鋭い視線が牛尾に向けられる。
「そ、それは…だな…」
口ごもる牛尾。
「だ、大体、何故薬売りのお前が刀なぞ持っている! その刀で何をするつもりだ!!」
その場を転換しようと、必死に薬売りを攻めようとする。
牛尾の責めに、薬売りは動じることなく剣を己の顔の前に翳す。
「斬るんですよ、モノノ怪を、ね」
NEXT
「義母上」は「ははうえ」と読んで欲しいです。
「何故」はもちろん「なにゆえ」。
アクションの描写が得意ではないし、人を苦しめることが出来ないので、あまり危機的状況にはなりません。
2009/9/4