雨の音だけが、聞こえてくる。
当初、サエが寝床としていた部屋に、六人が沈鬱な顔で座り込んでいる。
日向は未だ濡れたままのサエを傍に置き、りんを膝に座らせている。
牛尾は薬売りへの警戒からか、いつでも薬売りに刀を抜ける距離にいる。
はといえば、聞こえてくる声や、伝わってくる感情に押し潰されないように耐えていることを薬売りに気付かれないよう距離を取っている。
そして周りの障子や襖、壁に至るまで、札が張り巡らせてある。
「おい、何だか知らんが、斬れるというなら、さっさと斬れ」
腹立たしげに薬売りをねめつけながら、牛尾が言う。
「今は、無理です」
「何だと!?」
「斬る“モノ”の“形”、“真”、“理”が揃わなければ、剣は抜けません」
は、薬売りの手元の剣をチラリと見る。
茜色の本体に、金の縁取りがされて、常磐色と朱色の玉が鏤めてある。
柄の先には獅子のような頭が付いて、白い鬣が流れている。
「貴様、何を…」
「薬売り、モノノ怪とは何だ」
牛尾の声を遮って、日向が口を開く。
その問いに、暫く目を閉じていた薬売りが静かに目蓋を上げる。
「モノノ怪の形を為すのは、人の因果と縁。人の因果が廻って、モノノ怪を為す」
呪文でも聞いているかのよう。
「よって、皆々様の、“真”と“理”、お聞かせ願いたく候―」
そこに居る人間を、その青い瞳が睨む。
「真と、理と言われてもな」
「“真”とは事の有り様。“理”とは心の有り様。何かが有り、何者かが何故にか、怒り恨んでいる」
珍しく、長く話す薬売り。
はそれだけ事が重大なのだと思う。
「それを明らかにしなければ、剣に力は宿らない」
「つまり、斬れぬと?」
沈黙が肯定を意味する。
「“真”と、“理”を、お聞かせ願いたい」
その言葉を最後に、再び沈鬱な空気がのしかかった。
は、深く息をする。
この哀しみに溢れた声が聞こえるのは、自分だけ。これを伝えれば、何か解決の糸口になるかもしれない。皆が忘れている何か、知らない何かを見つけられるかもしれない。
そうしてモノノ怪を斬ることが出来れば…。
は、右手で懐の札を、着物の上から確かめるように擦った。
「誰かが、哀しんでいます」
突然のの発言に、皆の視線が集まる。
その視線に痛みを感じながらも、は続ける。
「子どもを返してと、泣いているんです。とても深い哀しみが、その人を包んでいて…」
「やめてぇ!!」
サエの、悲鳴のような声が響いた。
「サエ? どうした」
「やめて、やめてぇ!」
聞きたくないというように、両手で耳を塞ぐサエ。
濡れた髪を振り乱して全身で拒否を表す。
酷く怯えたような顔をしている。
「一体どうしたというのだ」
取り乱すサエの肩を掴んで、落ち着かせようとする日向。
膝に乗っていたはずのりんは、何かを探すように、辺りを見回してる。
「サエ様、落ち着きなされ」
とはいえ、牛尾自身も何処か落ち着かない様子で、鼻息が良く聞こえる。
「う、牛尾…」
呻くように言って、サエは牛尾を睨みつける。
「あ…あ、アタシは、言われたとおりにしただけよ!!」
「母様…」
「アンタ達に、言われたとおりにしただけ!」
「母様…」
サエの金切り声の向こうで、りんが母親を探し続けている。
「アンタとお母様に言われたとおりにしただけなんだから!!」
「違う! アレは全て大奥様が悪い! 私は何も悪くない!!」
沈黙が、横たわる。
二人の言い争いに、薬売りもも、日向でさえも、目を丸くしている。
その沈黙で我に返ったのか、二人は気まずそうに身を縮めている。
は、体の奥底から這い上がってくる震えを押さえ込んだ。
何か、ある。
そうとしか思えなかった。
薬売りを見れば、驚いていたかと思うと、一瞬の後には口角が上がっている。
「何の、ことだ?」
薬売りの問いに、二人は何も答えない。
「サエ、牛尾…?」
日向の声にも、二人は反応しない。
“…返して…!”
「―!!?」
は、堪らず耳を塞いだ。
意味が無いことは分かっていても、塞がずには居られなかった。
それほどまでに大きな声。強い声。深い哀しみ。
咄嗟に、懐の札に手を当てる。
「さん!?」
の異変に気付いた薬売りは、に駆け寄ろうとする。
しかし―。
「!!」
外から何かが迫る気配を感じてそちらに目を向ければ、張り巡らせた札の色が一斉に変わり、障子の隙間から水が流れ込んできていた。
「何!?」
その水は見る見るうちに進攻し、畳を濡らしていく。そして意思があるかのようにサエと牛尾の足だけを絡め取っていく。
「いやぁぁぁ!」
「こ、これは!?」
二人は足に纏わり付く水に悲鳴を上げる。
中庭側の障子に向って、ずるずると引きずられる。障子を破ってしまえば、結界の恩恵から離され、モノノ怪の元へと連れて行かれてしまう。
必死に爪を立てて畳を引っ掻く。
「やめて…やめて、美雨様!」
サエが、そう口走った。
「な…に…?」
水から守るためにりんを抱えて力んでいた日向が、呆けた様な声を出した。
「美雨、様?」
は思わず薬売りの方を見る。それに気付いたのか、薬売りもを見て僅かに頷いた。
「わ、私の…側室だった。亡くなって、もうすぐ三年になる…」
搾り出すような声で、日向が語る。その表情は、未だ驚きを隠せないで居る。
「そうだ、雨、雨だ。雨の日が好きで、雨の降るのを眺めては、楽しそうにしていた。その美雨が、どうしたというのだ」
「りんは、アタシの子では…ないのです」
必死に畳を抉るサエは、そう吐き出した。
NEXT
「美雨」は「みう」。
あまり危険度は高くありませんね。
そして、あの口上を入れるタイミングが分かりません。
2009/9/4