天気雨の夜

雨女〜四の幕〜







 ある日突然、何の前触れも無く、りんはやって来た。
 生まれたばかり。すやすやと眠る姿が可愛かった。

「今日からこの子が、貴女と泰善様のお子ですよ」

 微笑みながらそう言う母親に、何も問うことは出来なかった。

「これで、お家も安泰ですな」

 満足そうに鼻息を鳴らす牛尾に、何も言うことは出来なかった。




 自分と泰善との間にはなかなか子どもが出来なかった。焦っていたのは確か。
 正室として嫁いできて二年。
  藩の重職を担う日向家に、跡継ぎが居なくていい道理などない。
  けれど、その兆しは一向に現れなかった。
 それに、側室の存在も気掛かりだった。
 側室の美雨は、自分が嫁ぐより前から、泰善の側室としてこの家の離れに居た。
  泰善は本当に美雨を愛していて、美雨の身元がしっかりとしたものであったなら、正室となって、自分など入る隙もなかっただろう。
 その美雨よりも先に、子が欲しかった。
 だから、黙って従った。

「でも、泰善様には何と?」
 懐妊したという報告すらしていないのに、いきなり子が生まれたなんて不自然だ。
「何、今は藩の大事。お忙しいこの時期に、お手やお心を煩わせないよう黙っていたとすればいいさ。泰善様もこの一年、殆んどお帰りになっていないじゃないか」
 母親は、微笑を崩さずにそう言った。
「この牛尾も協力致しますぞ」
 ふん、と意気揚々と鼻息が漏れる。



 けれど、不信感は拭いきれなかった。
 誰の子なのかだけは、知りたかった。
  美雨が懐妊したという話は聞いたことが無かった。
  まさか、自分の知らないあいだに遊郭で遊んで、その女が産んだのだろうか。
  それとも、身寄りのない子を引き取ったのだろうか。
 様々な考えが浮かんでくる。
 どれも有りそうで、無さそうだ。

 あまり乗り気はしなかったが、美雨に相談してみよう。
  彼女なら、何か知っているかもしれない。







 夜半過ぎ、こっそりと美雨の居る離れへと向った。
 誰もが寝静まった暗闇の中、その離れだけは微かに明りが灯っていて、何処かほっとした。

 けれど…。
 戸の前に来たとき、声が聞こえた。


「返して…」


「私の子を、返して」


 力なく、すすり泣くような、けれど確かに彼女の声だった。
 数えるくらいしか言葉を交わしたことは無かったけれど、小さな鈴のように高く、澄んだ声。
 その声が、今はただ“返して”と繰り返している。
 見なくても、彼女の頬が涙に濡れているのが分かる。
 そうして気付いた。


 あの子は、彼女の子だと。



 怖くなって、来た道を戻った。
 手も足もがくがくと震えて、ただ怖かった。
 美雨は、泰善の子を産んだ。
 けれど取り上げられ、今は自分の子となっている。
「どうすれば…」
 言うべきだろうか、泰善に。
 言えば、きっと子は美雨に返され、美雨が泣くことはない。
 子は美雨と泰善の元で健やかに育って、やがて婿を取る。
「あ…」
 恐ろしいことに気付いてしまった。
 そしてそのまま、自分に子が出来なければ。
 自分はどうなってしまうのだろう。
「捨て…られる…?」

 イヤダ。


 ソンナコトハミトメナイ。







 美雨が亡くなったのは、それから一月後だった。
 しとしとと雨の降る、静かな夜だった。
 ろくに食事も取らず、やつれていく一方だったと聞いた。
 あと数日もすれば、泰善が屋敷に戻ってきたのに、それを待たずに逝ってしまった。









「そんな…」
 はサエの語る話が、信じられずに居た。
「美雨様…」
 サエは涙を目に溜めながらも、必死に抵抗する。
 真相を話す間も、水はサエと牛尾を飲み込もうと水量を増していた。
 今では薬売りもも、日向も、引きずり込まれまいと踏ん張っている。
 踏ん張りながらも、薬売りは徐に剣を眼前に掲げる。

「モノノ怪の、形を、得たり。…形は、雨女」

 カチン、と乾いた音を立てて、柄の獅子頭の歯がかち合う。
 しかしそれだけでは剣を抜くことは出来ず、薬売りは険しい顔をしている。
「雨…女…?」
 には、何となく分かった気がした。
 雨の日が好きな、雨と名の付く女。
  雨の日に、死んだ。




 やがて水は生きているかのように大きくうねり、全てを飲み込んだ―。









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昔だったら、こういうこともあるかと思って。
2009/9/6