ある日突然、何の前触れも無く、りんはやって来た。
生まれたばかり。すやすやと眠る姿が可愛かった。
「今日からこの子が、貴女と泰善様のお子ですよ」
微笑みながらそう言う母親に、何も問うことは出来なかった。
「これで、お家も安泰ですな」
満足そうに鼻息を鳴らす牛尾に、何も言うことは出来なかった。
自分と泰善との間にはなかなか子どもが出来なかった。焦っていたのは確か。
正室として嫁いできて二年。
藩の重職を担う日向家に、跡継ぎが居なくていい道理などない。
けれど、その兆しは一向に現れなかった。
それに、側室の存在も気掛かりだった。
側室の美雨は、自分が嫁ぐより前から、泰善の側室としてこの家の離れに居た。
泰善は本当に美雨を愛していて、美雨の身元がしっかりとしたものであったなら、正室となって、自分など入る隙もなかっただろう。
その美雨よりも先に、子が欲しかった。
だから、黙って従った。
「でも、泰善様には何と?」
懐妊したという報告すらしていないのに、いきなり子が生まれたなんて不自然だ。
「何、今は藩の大事。お忙しいこの時期に、お手やお心を煩わせないよう黙っていたとすればいいさ。泰善様もこの一年、殆んどお帰りになっていないじゃないか」
母親は、微笑を崩さずにそう言った。
「この牛尾も協力致しますぞ」
ふん、と意気揚々と鼻息が漏れる。
けれど、不信感は拭いきれなかった。
誰の子なのかだけは、知りたかった。
美雨が懐妊したという話は聞いたことが無かった。
まさか、自分の知らないあいだに遊郭で遊んで、その女が産んだのだろうか。
それとも、身寄りのない子を引き取ったのだろうか。
様々な考えが浮かんでくる。
どれも有りそうで、無さそうだ。
あまり乗り気はしなかったが、美雨に相談してみよう。
彼女なら、何か知っているかもしれない。
夜半過ぎ、こっそりと美雨の居る離れへと向った。
誰もが寝静まった暗闇の中、その離れだけは微かに明りが灯っていて、何処かほっとした。
けれど…。
戸の前に来たとき、声が聞こえた。
「返して…」
「私の子を、返して」
力なく、すすり泣くような、けれど確かに彼女の声だった。
数えるくらいしか言葉を交わしたことは無かったけれど、小さな鈴のように高く、澄んだ声。
その声が、今はただ“返して”と繰り返している。
見なくても、彼女の頬が涙に濡れているのが分かる。
そうして気付いた。
あの子は、彼女の子だと。
怖くなって、来た道を戻った。
手も足もがくがくと震えて、ただ怖かった。
美雨は、泰善の子を産んだ。
けれど取り上げられ、今は自分の子となっている。
「どうすれば…」
言うべきだろうか、泰善に。
言えば、きっと子は美雨に返され、美雨が泣くことはない。
子は美雨と泰善の元で健やかに育って、やがて婿を取る。
「あ…」
恐ろしいことに気付いてしまった。
そしてそのまま、自分に子が出来なければ。
自分はどうなってしまうのだろう。
「捨て…られる…?」
イヤダ。
ソンナコトハミトメナイ。
美雨が亡くなったのは、それから一月後だった。
しとしとと雨の降る、静かな夜だった。
ろくに食事も取らず、やつれていく一方だったと聞いた。
あと数日もすれば、泰善が屋敷に戻ってきたのに、それを待たずに逝ってしまった。
「そんな…」
はサエの語る話が、信じられずに居た。
「美雨様…」
サエは涙を目に溜めながらも、必死に抵抗する。
真相を話す間も、水はサエと牛尾を飲み込もうと水量を増していた。
今では薬売りもも、日向も、引きずり込まれまいと踏ん張っている。
踏ん張りながらも、薬売りは徐に剣を眼前に掲げる。
「モノノ怪の、形を、得たり。…形は、雨女」
カチン、と乾いた音を立てて、柄の獅子頭の歯がかち合う。
しかしそれだけでは剣を抜くことは出来ず、薬売りは険しい顔をしている。
「雨…女…?」
には、何となく分かった気がした。
雨の日が好きな、雨と名の付く女。
雨の日に、死んだ。
やがて水は生きているかのように大きくうねり、全てを飲み込んだ―。
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昔だったら、こういうこともあるかと思って。
2009/9/6