天気雨の夜

雨女〜大詰め〜







 ごぼごぼと、膜に覆われたような音がする。

 落ちる―。

 ただ水底に落ちていく感覚。
 ゆっくり、ゆっくり。
 は、薄っすらと目を開けた。
 まず見えたのは、深い青。
  次に見えたのは、自分の口から漏れる息が気泡となって昇っていく様。
 不思議と、息は苦しくない。
 はっきりと覚醒して、ゆっくりと視線を動かす。
 誰も、見当たらない。





「牛尾! どういうことだい!」

 やけにはっきりと、声が聞こえた。
 しかも、その声はついさっき絶命したいそのものだ。
 声がする方にゆっくりと身体を向ける。
 すると、水の中にぼんやりと、人の姿が見える。
 あれは…。



「どうして美雨に子が出来る!」
「ど、どうしてと申されましても、そうなってしまったからには…」

「では何故サエには子が出来ない!?」
「はっきり申し上げて、これはサエ様に原因があるとしか…」
「う、うるさい!!」

「あれが、もし、万が一若君でも産んでみなさい。サエの立場はどうなる? アタシの立場はどうなる!!」
「さ、サエ様はあくまで正室でらっしゃいます」
「子が居なきゃ意味ないんだよ!」
 いその声は、次第に大きくなっていく。
 そうしていその様子が変わっていく。

「あ…あの女が子を産んだら、すぐに取り上げるんだよ」
「大奥様!?」
「そしてサエが産んだことにすればいい…。それが一番いい。だって、そうだろう? あんな遊郭上がりの女なんて、何処の馬の骨かも分からないんだから」
「…それは、そうですが…」
「何処の筋かも分からない女が産んだと言うより、歴とした武家の娘であるサエの子だと思わせておいたほうが外聞もいい」
「…確かに…。泰善様も長く戻られない。美雨様は元々離れに篭りがちだし、気取られる心配はない…」
 牛尾の様子も、変わっていった。





  おぎゃあぁぁぁ。


 子の泣く声が耳を劈く。
 はそちらを振り返ると、場面が変わっていた。

「良く、頑張りましたね、美雨様」
「大奥様、ありがとうございます」
 子を抱く女は、大層淑やかな佇まいで、穏やかな顔をしている。
 幸せそうに子を眺める。

「では、その子は私が引き取ります」

「え…?」
 いその後ろに控えていた牛尾が、無理矢理美雨から子を引き剥がす。
「何をするのです!? 返してください!」
 産後数日の重い身体を必死に動かして、子を取り戻そうとする。
 しかし男である牛尾には敵うはずもなく…。
「お家の為だ、分かってくれ」
「いや、返して! 私の子よ!!」
 牛尾に縋りつく美雨。
「御免!」
 気合と共に鼻息が漏れる。
 牛尾に振り払われ、美雨は力なく床に頽れる。
「遊女だったお前の子として育つより、その子にはもっと幸せに育つ道があるのですよ」
「―!」
 その言葉に、美雨は動揺の色を隠せない。
「子など出来なければ、こんなことにはならなかったのにね」
 そう言い捨てて、いそと牛尾は去っていった。
「酷い、酷い!! 私の子…返して…! 返して…」
 美雨の心は、壊れた。







「何!? 泰善様が戻られる!? 漸くか」

 また別な方から、今度は牛尾の声がした。
 報告を終えた家臣が去るのと入れ違いに、いそが現れる。
「牛尾殿、“あれ”はどうするつもりだい」
「大奥様…」
 “あれ”とは、もちろん美雨のことだ。
「あんなに様子が変わるなんて、思ってなかったよ」
「あれを泰善様に知られでもしたら…」
 あれ以来、美雨は気鬱になり“返して”と繰り返すばかりで、酷くやつれた。
 そんな美雨を、日向には見せられない。
「病に罹ったから、近付いてはならぬとしておくのが良いのでは?」
「溺愛している女が病にかかって、見舞いに行かぬ男ではないわ」
「では…どうしろと…」

 いその瞳が暗く光る。

「病で、死んだことにすればいい…」

「は?」

「泰善様が戻る前に、殺すんだよ」

「病で死んだから、手厚く葬ってやったと」

「…お家のためには、止むを得ん…」

 そうして全てが闇に葬られた。


 なんて…事を…。
 の目に、涙が溢れる。
  けれど、水の中、その涙が頬を伝うことは無い。
 あの声に、これほどの哀しみと苦しみが込められていたなんて、思わなかった。
 自分に聞こえてくる声に、これほどの思いがあったなんて、思わなかった。
 どうにか出来るはず、なかった。
 これが、声の先にある真実。

 が自分の無力さに打ちひしがれていると、突然視界の色が変わった。
「な…に…?」
 霞んだ瞳を拭うと、世界は金色。
 水の中に居たはずなのに、金色の世界に浮いている。
「ここは…?」
 無音の中、の声が虚しく消える。
「!?」
 気配を感じて振り返れば、人が二人、遠目に見えた。

 一人は女。
 宙に座り込んで両手で顔を覆い、泣いている。流れる涙で手も、着ている白装束も濡れている。
 もう一人は男。
 褐色の肌に、金の着物を着ている。
  肌という肌に、不思議な模様が走っている。
  色素の薄い髪が宙に靡いて、信じられないくらい長い。
  そして手には、炎のような赤いものが噴出した剣のようなものを持っている。
 その、剣のようなものの柄に、目が留まる。
「あれは…」
 薬売りが持っていたのと同じ獅子頭。

「薬売り…さん…?」

 混乱する
  しかし、の存在に気付くことなく、男は剣を振り上げた。
 何かが炸裂して、金だけの世界に鮮やかな色を付けていく。
 それに目が眩んで、は目を覆った。


 その瞬間、の中に大量の何かが流れ込んできた。
 温かくて、優しくて、苦しくて、痛くて、哀しくて…。






 声が、聞こえる。

 私の子…
 私と、泰善様の子…
 大切な…

 頭の中というより、心に直接流れ込んでくる。

 売れない遊女だった私を、愛してくれた泰善様…
 落籍してくれた、恩人…
 最愛の人…
 その人との大切な、私の子…

 幸せに…






 目を開けると、見覚えのある場所。サエの部屋だった。
 涙で歪む視界の端には畳。倒れているのだと分かる。
  は、そっと涙を拭うと、起き上がった。
 胸が、痛い。
 その痛みを押さえ込んで、辺りを確かめる。
 咳き込むサエ。
  には何の害も無かったが、大量に水を飲んだのだろう。
 その背中を優しく擦る日向。
  彼にも何の害も無かったのだろう。何も知らなかったのだから。
  けれど、彼もあの光景を見たのだろう。複雑な顔をしている。

 部屋の隅の方に、牛尾が横たわっている。
  恐らくは、死んでいる。確かめなくても、だらりと力なく投げ出された腕が、それを物語る。
 閉めたはずの襖が開いていて、隣りの部屋が見える。
 同じように息絶えたいそ。
 見ないように顔を背けて、は立ち上がる。

 廊下を見ると、いつもの薬売りが座り込んで、中庭を眺めていた。
「薬売りさん…」
 自分でも驚くほど掠れた声だった。
「目が、覚めましたか」
「はい。…モノノ怪を斬ったんですね」
「…斬りました」
 は、あの最期の美雨の感情を口にしようとして、やめた。
 あれは、自分の心の中に仕舞って、大切にしておくべきものだと思った。それが、この世ならざるものの声が聞こえる自分に出来ること。
「良かった…」
 呟いた声は、薬売りにも聞こえなかっただろう。
「楽しそう、ですね」
「はい」
 二人の視線の先で、りんが飛び跳ねている。
 雨の降る中、中庭に一人飛び出して、振ってくる雨に喜んで手を広げている。

「母様、母様」

 はしゃぐ声は、小さな鈴のように澄んでいた。









 薬売りとは、いそと牛尾の突然の死で大騒ぎとなったどさくさに紛れ、屋敷を後にした。
「まだ、宿開いてますかね?」
「…さぁて…」
「折角あの大きなお屋敷に泊めてもらえると思ったのに…」
 薬売りの先を行くは、いつもより口数が多い。
「流石に、気が引けますよね」
 が足を止めるので、薬売りもの後ろで止まる。
「でも、良かった…」
「何が、ですか」
「サエさん、血の繋がらないりんちゃんを、これからも、ちゃんと愛して、可愛がっていくって言ってました」
「そう、ですか」
 薬売りは真面目に聞いているとも、聞き流しているともとれる曖昧な声で答える。
「美雨さんの、最期の願いだったから」
 鼻の奥がつんとする。
「…?」
 最期の願い。
「何か、聞こえたんで?」
 薬売りは、雨の上がった空を見上げるの背中に、投げかける。
「聞こえました。でもそれは内緒です」
 振り返ったは、涙混じりの笑顔だった。
「モノノ怪を斬ることが、薬売りさんにしか出来ないように、モノノ怪になってしまった人の最期の声を聞いてあげることは、私にしか出来ないから」
 だから、自分の中に、大切にしまっておく。
 は再び薬売りに背を向けて、今度は両手を合わせて祈った。
 美雨が、あの三人を見守ってくれますように、と。
「薬売りさん」
 勢い良く振り返ったの髪が、綺麗な孤を描く。それに一瞬、目を奪われる。
「何か」
「お疲れ様でした」
「いえ」
「早く宿、探さなきゃ。行きましょう!」
 そう言って弾むように歩き出す
 その後姿を、薬売りは暫く不思議そうな顔で見ていたが、やがて口角を上げてその後を追った。











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大詰めとか言いながら、先があったりします。
2009/9/6