良く晴れた日。
心地よい風が、並んで歩く二人を、順に撫でる。
町には緑が溢れ、江戸のような埃っぽさがない。
橋を渡って町の中心に入ると、幾本もの幟が立ち、色とりどりにはためいている。
ここは、芝居小屋通りと呼ばれているらしい。
「わぁ…」
が感嘆の声を上げる。
道行く一般人に混じって、化粧をしたままの役者や、舞台で使うのか何枚もの着物を抱えた人、芝居小屋の客引きをしている人など、とにかく人が行き交い、華やいでいる。
「凄い人ですね。それに、なんていうか…鮮やか」
は目を丸くする。
道の両脇に大きな芝居小屋が何軒も立ち並んでいる。その全てに幟が立ち、人気役者を描いた浮世絵が並び、何人もの呼び込みが声を上げている。
「はぐれないように、してください」
薬売りはそう言い置いて先を行く。
「はぐれませんよ」
こんなに目立つ人、見失うわけがない。
はすぐ後に続く。
どこかの小屋で芝居でも見られないものかと、は淡い期待を抱くわけだが、薬売りは関心が無いようだ。黙々と歩いていく。
折角こんなに開いてるのに。
先を行く薬売りの背中をただ見つめる。
暫く歩くと、ぽつりと一軒、呼び込みのいない小屋があった。
「? ここだけ、閉まってますね?」
「そのようで…」
「何か、焦げ臭くありませんか?」
沈黙。
「そこの小屋はまだやってないよ。確か十日の後だったか」
通りがかりの大荷物持ちが教えてくれる。
「そうなんですか」
「あぁ。でも、つい二日くらい前に小火騒ぎがあったから、もう少し後になるかもしれないがな」
「小火騒ぎ…ですか」
薬売りは小屋への視線を変えることなく問う。
「大した火じゃなかったらしいが、怪我人が何人か出たらしいぜ」
じゃあな、と言って大荷物持ちは去っていく。
「薬が必要、ですかね」
薬売りは小屋に向って歩き出した。
「…」
は、何処か楽しそうな薬売りの背中を、困惑した顔で見つめる。
商売になりそうだからなのか、それとも別な理由からか。
の耳に、声は聞こえない。
けれど、薬売りは行く。
公演前のせいか正面は開いておらず、裏へ回る。
薬売りは迷うことなく裏口へと向っていく。裏口と言っても、小屋の関係者達にとって見れば、そちらが出入り口である。
躊躇うことなく入っていくと、男が一人床に座り込んで煙管を燻らせている。大きなその男は、まるで床に黒い岩でも転がっているような様だ。
「なんだい、アンタら?」
煙が口からゆらりと出てくる。
「役者志望か? 悪いがここは小芝居みたいなもんだぜ。歌舞伎がやりたきゃ他あたんな」
薬売りの出で立ちを見てそう思ったのだろうか。
「いえいえ、ただの薬売り、ですよ。こちらは連…」
「助手をしています」
薬売りの言葉を遮って、が会心の笑みを見せる。
そんなを薬売りは横目でチロリと一瞥する。
してやったり。
「薬ねぇ…。おう、火傷に効く薬はあるか?」
「もちろん、ですよ」
「て、言ってもなぁ、薬は座長の持ち回りだから、俺の一存じゃ買えねぇんだわ」
カン、と傍らにある灰吹きに灰を落とすと、また煙管を咥える。
「その座長さんはいらっしゃらないんですか?」
が煙管の先を気にしながら尋ねる。
「ん、まぁそろそろ戻ってくる頃か。何ならそれまで中見て行くか? 今台詞の稽古中だろうよ」
「本当ですか?」
目を輝かせる。
嬉しそうなを見て、男は満足そうに笑むと身体を仰け反らせ、奥に向って叫んだ。
「おい、喜助! 喜助〜!」
人を呼んだ後、もう一度煙管を咥える。
「おう、薬売り。たばこなんかは、持ってねえよな?」
「生坂たばこと、水府葉など…」
薬売りは口角を僅かに上げて行李を床に下ろそうとする。
「上等なもん持ってんじゃねぇか!」
「ダメですよ、直助さん」
奥から姿を現した青年が、すぐさま眉を顰める。
細身で、珍しい茶色の総髪をしている。直助と同じ、黒い布地の着物を着ている。
「座長から火には注意しろと言われたばかりですよ」
「分かってら。小姑みてぇに騒ぎやがって」
すみませんね、と喜助は薬売りに軽く謝る。薬売りは構いませんよ、と笑う。
「おう、座長が帰ってくるまでこいつらに稽古でも見せてやってくれ」
「分かりました。こちらにどうぞ」
喜助は快く二人を受け入れて中へ案内する。
「お邪魔します」
喜々とした顔で、はそのあとを追った。
奥へ入ると、一直線に通路が走り、その右側には楽屋や物置がずらりと並んでいた。
そこを横切って舞台裏から客席へと向う。
「その隈取、綺麗ですね」
「そりゃあ、どうも」
喜助はどうやら薬売りの出で立ちが気になるようだ。
「何か意味があるんですか?」
「魔除けのようなもんで」
「へぇ、効き目ありそうですね」
人懐っこい笑みで薬売りに話しかける喜助。無表情な薬売り。さらにその後ろには不機嫌そうに二人を見ている。
喜助の後を追ったはずのだったが、なぜか喜助の直ぐ後ろは薬売りになっていた。
「俺もいくつか、聞きたい事が、あるんですがね」
「なんですか?」
「小火の原因は…」
薬売りの問いに、喜助は僅かに身体を強張らせた。
「いえ、それがよくは分かっていないんですよ」
「火の気が無いところ、ですか」
「えぇ、まあ。誰も見ていなかったんで」
戸を開けると、大きな空間。何百という人が集まる客席は、区切られて枡がいくつも並んでいるように見える。中央には堂々たる花道。天井は高いが暗くてよくは見えない。
「わぁ、広い」
は目を輝かせる。一通り客席を見渡した後で、舞台に目をやる。
舞台は客席からかなり高く作られていて、そこでは何人かの役者が台詞合わせをしていた。
喜助に案内されて、端の方の枡の中に座り込む。
「これでも、この町の小屋の中では小さいほうですよ」
「これでですか?」
通りからは正面の外観しか見えないため、奥行きが掴めなかった。ここまで広いとは思わなかったのだ。
「やけに、焦げ臭い」
薬売りが周りの様子を窺っている。
「あぁ、ここのところ小火が続いていて…。付け火じゃないかと皆神経質になっているんです」
「その原因も分かっていないんですか?」
が心配そうに眉を顰める。
「はい…」
「あやめ! お前、謀りおったな!?」
いきなり、大声が耳を劈いた。
舞台の上に視線が向く。
「誤解です、旦那様!!」
仁王立ちの男。手をついて男を見上げる女。
「何が誤解だ! 俺はこの目で見たんだ!」
酷い剣幕。
「凄い迫力でしょう? 花魁と落籍させた大店の旦那、それから花魁の幼馴染の痴情の縺れを描いた芝居です」
喜助は自慢げにする。
「それは、面白い」
面白いんだ!? と、は内心で思う。今までが見てきた薬売りは色恋などには興味のカケラも感じられなかったからだ。
もちろん、自分の知らない遊郭での色恋話に、は興味津々なのだが。
「旦那をやってるのが五郎丸さん、花魁役はこの一座の看板女優志摩さんっていいます」
男らしいはっきりした顔立ちの五郎丸。切れ長の眼が艶っぽく見える志摩。
「ここでは、女形はいらっしゃらないんですか?」
「芝居によってです。女形は、あの、舞台の端で台本読んでる瑪瑙丸さんが。この芝居では花魁の幼馴染をやってるんです」
優男といった風の線の細い男。
「ホント、綺麗な方ですね…」
言っては見たものの、正直、薬売りほどではないと思ってしまう。
眼に悪い…。
いつも薬売りと一緒に居るせいか、基準がおかしくなっているのかもしれない。密かにため息をつく。
一体旅を始めて何度目の溜め息か。
「座長が戻りました。初日のことで話があるので集まってください」
袖から、これまでの役者よりも幾分年下の娘が顔を出した。
それで稽古は中断された。
舞台上の面々は仮面を取ったように表情を変えた。
「これからがいいところだってのに…」
五郎丸は肩を竦めてため息をつく。
「鬼怒屋は初日の延期、折れたんでしょうね?」
「俺に聞かないで下さいよ、志摩さん」
急に機嫌が悪くなる志摩と、とばっちりを受けている風の瑪瑙丸。
「じゃあ、俺達も戻りましょうか」
喜助が立ち上がって枡を出ようとする。
“あつい…”
突然の声に、は弾かれたように顔を上げる。
薬売りも何かを感じたのか、目を細める。
「薬売りさん…!」
「分かって、いますよ」
二人は立ち上がる。
「ど、どうかしたんですか?」
二人の雰囲気が急に変わって、喜助は困惑する。
が舞台の方に視線を移す。
先ほどまで居た役者達は捌け、誰も居ない。
が声の主を探そうと舞台に近付こうとすると、腕を薬売りに掴まれて制止された。
そしてはハッとする。
「喜助さん、すぐに水を。さんはここに」
薬売りはそう言って、自分は舞台へ向う。その途中、手近にあった誰のものか分からない鮮やかな朱の着物を手に取る。
「え…あ…っ」
薬売りの向った先を見て、喜助の顔はみるみる青ざめていった。
一向に動かない喜助。は見兼ねて声を上げた。
「火事よ! 火事!!」
そのままは客席を飛び出し、喜助に案内されてきた道を戻った。
火は舞台下手の幕の内側、早替え用なのか一所に何枚も置いてある衣装からだった。
周りに火鉢や火薬等、火を使うものは見当たらなかった。
薬売りは手にした着物を火に打ち付けた。
埃と煙が舞う。
けれど、何度叩いても火は治まらない。
「…ほぅ…まさか」
薬売りはいつものように口角を上げる。
「薬売りさん!」
「また火事だとぉ!?」
が桶を手にして戻ってきた。
その後ろには見知らぬ髭の男。こちらも桶を担いでいる。
それを見て、薬売りは火元から離れる。
走り寄った二人が、勢い良く桶をひっくり返す。
ジュウ、という音と、煙が辺りに充満する。
「消えた…?」
が肩で息をしながら様子を窺う。
の後ろで、さっき出て行った役者たちも心配そうな顔をしながら、手桶や鍋などを持って立っている。
「まだだ」
薬売りが焦げた衣装を睨みつける。
「何言ってやが…」
髭の男が薬売りの言葉に反対しようとした瞬間、衣装が再び燻り始めた。
瞬く間に燃え上がるそれに、役者たちも手に持っていた水や砂を掛けていく。しかし、火は一向に治まる気配を見せない。
「これは、やはり」
薬売りは一人納得して手に何かを握りこんだ。
には、その手にしているものがあの札だと分かった。
モノノ怪だろうか。
不安が過ぎる。
薬売りは、その手のものを火に向かって投げた。
折りたたまれたそれは、空中で独りでに広がって火元へと突っ込んでいく。
「何をしている!? 紙なんぞ投げたらもっと酷いことに…!」
髭の男が怒気を孕んだ声を出す。後ろに控える役者達も青ざめて顔で目を丸くしている。
しかし、彼らの心配をよそに、札が投げ込まれると、次第に火は小さくなっていく。
音も立てず、煙も上げず。だた小さくなって、そのままなくなった。
火が無くなる瞬間、はもう一度声を聞いた。
“あつい”と。
は、頭上を見上げる。声が、降ってきたような気がした。
「どういうことだ!?」
髭の男は薬売りに詰め寄る。
「それよりも、一度舞台から、離れた方がいい」
そう言って薬売りは舞台から降り、一度振り返って、舞台の両端の柱に札を投げる。
それから立ち尽くしたままの喜助を一瞥して、客席の中央、花道のすぐ下へと居場所を決めた。
は、薬売りを追って舞台を降りる。他の面々もそれに倣う。
「おい、お前が薬売りだろう? 俺は座長の耶蘇丸だ。薬はいいから、その札を売ってくれ」
天秤を放ち始めた薬売りに、髭の男が少々興奮したように言い寄る。
「何故…」
「なっ…。今お前がやった通りだ! あの札でしか火は消えんのだろう!?」
「札で火が消えた訳を、分かっているんで?」
「ど、どういうことだ…」
薬売りは一度手を止めて、一座の面々を見据える。
「あれが、モノノ怪の仕業、ということですよ」
NEXT
と、言うわけで再び退治話です。
2009/9/27