天気雨の夜

青鷺火〜二の幕〜













  水をかけても火が消えないのは、あの火が、この世のものが為したものではないということ。


  モノノ怪の仕業という証。






「物の怪だと?」
「ちょっと、これ一体どうしてくれるのよ」
 耶蘇丸の問いを完全に無視して、志摩が真っ黒になったあの朱色の着物を掴んでいた。
 はその剣幕に驚く。
 他の者も“始まった”と言わんばかりにそれまでとは打って変わって脱力している。
「いくらしたと思ってるのよ!?」
「火を、消そうとしたんですがね」
 ちらりと視線だけを志摩に向ける薬売り。
  その一瞥だけで志摩を黙らせるには充分だった。
 薬売りの視線を貰った志摩は、顔を赤らめながら苦い顔をする。志摩の後ろで様子を窺っていた娘までも顔を赤くする。
 そんな志摩を、一座の面々は呆気に取られた顔で見ている。
  その中で一人、瑪瑙丸だけは薬売りは睨みつけていた。
 便利な顔ですね。
 は思ったが、決して口には出さない。
「ヒナ、これ後で一応古着に出しておきな」
「は、はい」
 志摩は手に持っていた着物を後ろの娘に押し付けると、両腕を組んで不貞腐れたように皆に背を向けた。
「は、話を戻すぞ。物の怪だ、物の怪。そんなもの居る訳が無ぇ」
「ここは現の世ですよ、薬売りとやら」
 耶蘇丸に続いて、瑪瑙丸が薬売りを睨んだまま言い放つ。



“あつい…”



 また、聞こえた。
 は舞台の方へ振り返る。



“あつい”



 舞台の天井の方へ移る。



“あつい!”



 そのまま、何度も何度も途切れることなく聞こえてくる。
 その声の念のせいか胸苦しさを感じる。
 声の向こうで、何か別の音も聞こえる。



“あつい!”



「―!!」
 何故だか、自分も熱いような錯覚に陥って思わずしゃがみこむ。
さん?」
「大丈夫ですか!?」
 薬売りの声と喜助の声がほぼ同時だった。
  喜助の方が近くに居たため、は喜助に支えられる。
 に近寄ろうとするが、薬売りは行李の上の箱の中で、剣がカタカタ騒いでいるのに気付く。
「おい、何が騒いでやがる?」
 薬売りの後ろに居た五郎丸が、その音に気付く。
「モノノ怪が、近くに来て、いますよ」
 薬売りは行李を下ろして箱に手を掛ける。五郎丸は中から出てきた剣に視線を注ぐ。
「変わった刀だなぁ、おい」
 剣に顔が付きそうなほどに見入る五郎丸から、逃れるようにの元に行く。
さん、大丈夫、ですか」
「はい。少し、苦しいだけです」
 顔色の悪いに、札を差し出す。
「新しいものを、と言って、忘れていましたから、ね」
  は力なく笑って、それを両手で包み込む。
「“熱い”と言っています」
「熱い、ですか。…なるほど」
 薬売りは、小火の原因はこれだと検討を付けた。
「おいおい、お連れさんには札をやって、俺らには売ってもくれないのか」
 耶蘇丸が肩眉を上げる。
「俺の助手、ですからね。それに恐らく…あんた方に関わりがあるモノノ怪じゃあ、ないかと思うんですよ」

 その言葉と共に、周囲に並べられた天秤が一斉に天井を仰いだ。

「来る!」
 薬売りは見上げた。
 それに釣られて、他の者たちも上を見る。

 しかし、何も起こらない。

「何なのよ、ちょっと。いい加減にしてよ! これじゃあ稽古ができないじゃない!!」
 志摩が、癇癪玉が割れたように声を荒げた。
「そうですよ、物の怪なんて居る訳がない!」
「私達を脅して、何を企んでいるんですか?」
 瑪瑙丸に続いて、それまで黙って成り行きを見ていたヒナも声を上げた。
「企んでいるとは、心外、ですね」
 薬売りは構えを解かずに、上を見上げたまま。
「何がお望みなんですか?」
 更に続けるヒナ。



“あつい!!”



 ヒナの声に呼応するかのように、声が強まった。
「薬売りさん…っ」
「きゃああああぁぁぁぁ」
 が薬売りを呼んだ瞬間、ヒナの左の袖に、青い炎が上がった。
「ヒナ!!」
「いやあぁぁぁ、消して、消してぇ!!」
 気の触れたようによろめくヒナに、誰も近付こうとはしない。ただ愕然とその光景を見ている。
 即座に薬売りが札を投げる。札はヒナの体中に張り付いて炎を鎮めた。
 ヒナは床に膝を付いて、肩で息をしている。放心したように、視線は動かない。
 袖は黒く焦げている。
 は、自身も気分が悪いのに、誰も寄り付こうとはしないヒナの元へ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
 声をかけてから袖口を捲くる。肘の辺りが赤くなっている。
「少し、火傷をしてますね。後で、薬売りさんにお薬をいただきましょうね?」
 優しく話しかけるも、ヒナから答えは無い。
 薬売りは、役者達に鋭い視線を投げかける。

「どなたか、火に、心当たりはありませんかね」

 答えはない。
  皆が皆、それぞれの出方を窺う様に視線を泳がせている。
 けれど、だけは、その問いにヒナが微かに肩を震わせたことに気付いた。
「知らんよ。小火が起きて困ってるのはこっちなんだ」
 座長は吐き捨てるように言う。
「志摩、お前よく火鉢を舞台袖に持ってきちゃいなかったか?」
 五郎丸が、軽い口調で言う。
「冷え性なんだ。悪いかい? それにもう随分前に片付けたわ」
 ふん、とそっぽを向く志摩。
「煙管を吸うのは直助さんだけだしな」
 瑪瑙丸は、ここにはいないし、と続ける。
「これでは、埒が明きませんね」
 薬売りは、剣を右肩にあてて軽く息を吐き出した。
「“熱い”と言っているんです。ずっと、“あつい”、“あつい”って。何かあの小火と…火と関係があるんじゃないんですか?」
 堪らずが声を上げる。
 その声に、皆険しい顔をする。
「どうしてあの声は、あんなに悔しそうなんですか!?」
「それは…」
 喜助が何か言いかけた。
 すぐに皆が睨みつけて、その視線で黙らせる。
「喜助さん…?」
 薬売りは喜助に先を促す。
 しかし、他の者たちの視線に気圧され、俯いてしまう。




“ギャァァ!”




 声の後ろで聞こえていたものが、はっきりと耳に届いた。
 鳴き声のようなもの。
 その声がした瞬間、周囲を取り囲むように炎が燃え上がった。
  青く激しい炎。
「な、何だ!?」
「ちょっと、何これ」
 炎に取り囲まれ、皆一所に集まって縮こまる。
 炎はじりじりと迫ってくる。
「仕方、ない」
 薬売りは眉間だけでなく、鼻筋にまで皺を集めて幾枚もの札を放った。
 その札は綺麗に整列すると、全員を丸く取り囲んで、金に輝いた。札を貼らずに作る結界らしい。
「おう、金じゃねぇか。いいねぇ」
 五郎丸は炎になど気にも留めないで、その札に興味を注いでいる。
「これで、大丈夫なのか?」
 耶蘇丸は縮こまったまま。他も然り。
「でも、この熱気は通すようね」
「もっと隙間無くしろって」
 縮こまっても難癖をつけるのは忘れない。
 は初めて見るその結界に、驚嘆して口を開けたまま暫く札を見つめていた。
 しかし、もう一度聞こえた鳴き声に、我に返る。
 その声のした方、頭上を見上げる。
「薬売りさん、あれ…」
 迫り続ける青い炎を結界で防ぐ薬売りだったが、の声に、ゆっくりと顔を上げる。

 何かが、居る。

 天井のすぐ下は暗くてよく見えない。
 けれど、目を凝らす。
 何かが、動いている。
 ゆるゆると、天井擦れ擦れに旋回しているものがある。青い炎を纏って。
「鳥…か?」
 つられて見上げた耶蘇丸は、上を向いたまま首を傾げ、こきりと音を立てた。
「鳥? こんなところに居る訳がないだろう」
 志摩にはまだ見えないのか、視線があちこちに移動する。
「あそこですよ、志摩さん。ぼんやり青い…」
 瑪瑙丸が志摩の目線の高さに合わせて指を指す。
「でも、どうして…」
 に縋りつくように、ヒナが言う。
 その間にも炎は迫り、結界の外で火柱を高くしていく。
 薬売りは、安定した結界は札に任せ、自身は剣を構えた。


「モノノ怪の、形は…青鷺火」


 カチン。
 獅子頭の歯がかち合って、小気味いい音がする。
 その音に、皆視線を向ける。
「なんだい、その刀。どんな仕掛けだい」
 またも五郎丸は楽しげに言う。
 何なんだろう、あの人。
 には、五郎丸がこの状況を楽しんでいるとしか思えなかった。否、モノノ怪にはひとつも関心がないのかもしれない。
「モノノ怪の形を、得たんですよ」
「形?」
 耶蘇丸は再び首を傾げる。
「モノノ怪を斬るには、この剣を抜く必要がある。しかし、この剣を抜くには、モノノ怪の“形”、“真”、“理”が、必要なんですよ」
「だから、物の怪なんて…!」
 志摩が腹立たしげに叫ぶ。
「この剣が鳴ったということは、モノノ怪だと、いうことですよ」
「そうやって、私達を脅してるだけでしょ!!」
 の耳を、ヒナの声が劈いた。
 酷いと感じた。そこに居るのに、頑なにその存在を否定するこの一座の者たち。
「…どうして…?」
 ふいに、が口を開いた。
「こんなに、苦しんで、悔しくて、恨んでるのに、どうしてそれを無い物にしようとするの!? こんなに大きな声なのに、こんなに大きな想いなのに!」
 は、一息にそれだけ言うと、俯いてしまった。
 炎が燃え上がる音だけが辺りを包んだ。


「信じようが信じまいが、どちらでも構わない」
 燃え上がる青い炎の中の、更に金の札の結界の中、薬売りは言う。語尾が、気が立っていることを示していた。
「しかし、モノノ怪は、斬らねばならぬ」
 だから、真と理を示せ。薬売りはそう言って一同をゆっくりと見渡す。
 皆、黙り込む。





 その沈黙を破ったのは、喜助だった。
「熱いと言っているなら、それはきっと…ミカちゃんだ」
 皆が、喜助を睨みつける。けれど、何も言えない。
 は、漸く顔を上げる。
「ミカ?」
「ここで役者をしてたんです。仔細は知らないけど、ミカちゃんは顔に酷い火傷を負って、それを苦に自害したんです」
 喜助は、震えていた。
「俺、ミカちゃんと同年で、仲も良かったのに、なのに、何もしてあげられなかった…!」
 そういって膝から崩れ落ちた。
「何故、自害した」
 薬売りは、役者たちを睨んだ。
 それと同時に、炎が強まる。
 それまで以上に熱気が入り込んで、噎せ返るような暑さになる。
「早く“真”と“理”を示さなければ、何れ、この結界も…」
 最後まで言わないことが、更に恐怖心を煽る。


「ミカが火傷をしたのは、アタシのせいじゃないわ…」


 志摩が顎をがくがく言わせながら呟く。


「アタシはいつも通り、寒いから火鉢を用意しておけって言っただけよ。なのに火鉢から急に火が出て、それでミカは火傷をしたのよ。アタシのせいじゃないわ…!」






“ギャァァ!”





 その言葉の直後、急に青鷺が鳴いた。
 そして一瞬にして結界を取り囲んでいた炎が消え、辺りが闇に変わった。













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青鷺だから青い炎とかいう安直な…
2009/9/27