「何…?」
は、一人ぽつんとその闇の中にいた。
何処を見ても暗闇で誰も見えない。
さっきまですぐ傍に居たヒナでさえ、姿を確認することは出来ない。
辛うじて、の周囲に薬売りの作った結界が残っていることだけが分かる。
「ヒナさん? …薬売りさん!」
無意識に、札を持つ手に力が入る。
以前、水の中に飲み込まれたが、あれは周りの状況が分かったし、息苦しいこともなかった。だから恐怖心はそれほどではなかった。
けれど、この闇はどうだろう。
自分が何処に居るのか分からない。
周りの状況が分からない。
何も見えないということが、これほど恐いことだとは知らなかった。
「く、薬売りさん…何処ですか?」
心許なげな、小さく蚊の鳴くような声にしかならない。
それでも、闇の中、その声は何処までも響いているように感じる。
「薬売りさん…!」
さっきよりも、多く息を吐く。
「ここですよ」
すぐ後ろで声がした。
慌てて振り返ると、目の前に青い着物が迫っていた。
見上げれば、赤い隈取のある端正な顔。
「薬売りさん!」
「どうやら、俺達だけのようで」
一座の人達の行方が分からない。
“ギャァ!”
鳥の鳴く声に、二人は顔を上げる。
ぼんやりと青く燃える鳥が、ゆっくりと線を描いて飛んで行く。
そして明るければ舞台があったと思われる所まで行って、ふっと姿を消した。
それと入れ替わるように、突然白い大きな幕が現れた。ちょうど舞台を覆う引き幕のような。
幕の向こう側に光源があるのか、光がゆらゆらと不安定だ。
その幕の中央に、一つの影が映し出された。
揺らめく光源からは想像できないほどに、はっきりとした真っ黒な影。頭に、女髷を結っているのが分かる。小柄な娘のようだ。
彼女の口が、白く動く。本来、影絵ならば有り得ないことだ。
すると、白い幕と、たちとの間に、一座の面々が姿を現した。幕に向って一列に、まるで芝居でも見るかのように座っている。
薬売りとには背を向けているため、どういう状態かは分からない。
上手から喜助、耶蘇丸、五郎丸、瑪瑙丸、ヒナ、志摩。
は不安げに薬売りを見る。
薬売りはただじっと、その白い幕を見つめている。
幕の中の娘が、再び白く口を開けた。何を言っているのか、声は聞こえない。
しかし…。
「お前は、いい役者になるよ」
聞こえてきた声は、座長耶蘇丸のものだった。
その声と同時に、幕の中が変化する。胡坐で座る男と、向き合う娘。影の形と先ほどの声からするとまず間違いなく男は耶蘇丸。
“本当ですか?”
口の動きに合わせて、にはそう聞こえた。
「あぁ、場数を踏んで経験を積めば、いい味が出てくるだろうよ」
影を見ているだけなのに、娘が喜んでいるのがありありと分かる。
「まぁ、今は志摩が我侭放題で、お前も大変だろうが、何れは二枚看板で売って行くから、それまでは辛抱しててくれな」
“はい、頑張ります!”
深々と頭を下げる娘。その心の純粋さを、は感じていた。
しかし、二人の影の後ろで、隠れるようにしてその会話を聞いている小さな影があった。
それから幕は一度真っ白になる。
次に現れた影は、女髷姿が二つ。
手前の女は化粧でもしているのか、手が顔の辺りを彷徨っている。
その後ろ、遠く小さく映る影は、大きな荷物を抱えている。その足元にも、大きな塊が置かれている。
「ちょっと、高々衣装持ってくるくらいで、何でこんなに時間がかかるのよ。遅すぎるから化粧直さなきゃいけないじゃない!」
詰っている声は、志摩のものだ。
“申し訳ありません!”
娘は怯むでも、恐がるでもなく、はっきりと謝罪する。
それから手に持っているものを足元の塊の上に下ろし、そこから一つ手に取って広げる。そうしてそれを衣紋掛けにかけていくという作業を始める。
何枚掛けても足元の衣装の山は一向に小さくはならない。相当な数の衣装があるということだ。
その作業の途中、志摩はちらりと娘を一瞥した。
「その中に、今日着たいものが無いわ。別なものを衣裳部屋から持ってきてちょうだい」
一瞬、娘の動きが止まる。
“…はい!”
それから場面が変わる。
じっと座り込む娘に、仁王立ちの志摩が声を荒げている。
「さっきの間はなんだい! アタシの台詞が台無しじゃないか!!」
“すみません”
「やる気がないんだったら、辞めてちょうだい!」
“続けさせてください”
「素人丸出しで、いい恥さらしよ」
“もっと精進します”
「アンタには芝居の才なんて、これっぽっちもないんだよ」
“それでも…お芝居がやりたいんです”
延々と言い放っている声が、段々とフェードアウトして、最後には完全に消え、それと同時に影も消えていった。
そしてまた真っ白になる。
影が消える途中で、娘が僅かに俯いたのが分かった。そうしてその場面にも、遠くからじっと見つめている小さな影が微かに見えた。
こんなの、いじめだ。
は、眉間に皺を寄せる。
娘が“はい”と言ったときの、悔しい声色が悲しくて堪らない。
次の影は、三つ。
「じゃあ、座長、アタシ達は衣装選びに行ってくるから!」
声高に叫ぶ志摩。
さっきまでとは違う、喜々とした声だ。
そうして三つの影は歩き始めた。
先頭は二人。志摩と頭一つ高い細身の男。少し間を置いてあの娘。
何を話しているのかは分からないが、先頭の二人は何やら楽しそうに、口角の上がった口が白抜きにされている。
不意に先頭の二人が立ち止まる。それに合わせて娘の足も止まる。
「アンタ、ここで見張ってるんだよ」
「よろしくね、ミカちゃん」
細身の男は瑪瑙丸だった。
「一座の連中が来でもしたらすぐに声をおかけ」
“はい”
「三人で出かけるってことにしてあるんだから、頼むよ」
“はい”
そういって二人は幕の外へと消えていった。
それから聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声と、囁きあう声と…。
娘はその場でしゃがみこんで、耳を塞いでいた。
「なに…これ…」
は酷い嫌悪感に襲われた。
視線は幕から、手前に一列に座っている役者たちへと移っていた。そして志摩と瑪瑙丸を行き来する。
自分たちの逢引にミカを連れて行き、最中の見張りをさせる。
何て酷い仕打ち…。
どうしてこんな事をするのか、には信じられなかった。
「大丈夫、ですか?」
ハッとする。
隣りでは、薬売りも同じものを見ているのだ。
薬売りが何を思いながら、何を感じながら見ているのか、には到底分からない。
けれど、が酷く心を乱しているということには気付いてくれたようだ。
「大丈夫…です」
強張った声で、薬売りの方も向けず、強がっていることは明らかだったけれど、にはそれしか言えなかった。
ちゃんと見て、ちゃんと受け止めなければいけない。
「そう、ですか」
薬売りはをちらりと見て、すぐに視線を幕へ戻した。
次に現れた影は二つ。
もちろん片方はあの娘、もう片方は男。
縁側にでも座っているのか、二人とも足を投げ出している。
「なぁ、お前、別な小屋に移ったらどうだ?」
男は、五郎丸だった。
後ろ手に手をついて、空を見上げるようにしている。
「お前の才は認めるがよ、ここにいたんじゃあ、大した役は回ってこねぇぞ」
「でも、座長からは、何れ、と言われました」
「あの志摩が認めると思うか? それに、お前より先に入ったヒナはどうなる」
“志摩さんには、認めてもらえないかもしれないですね”
本当に、嫌われているから、と嗤う。
“ヒナさんとは、一緒に頑張ろうって励ましあってます”
嬉しそうな明るい声に変わる。
そんなミカに、五郎丸は小首を傾げる仕草をする。
「でもな、ミカ。ここは、お前が来てから一座の、特に役者連中の纏まりが悪くなった」
“…え?”
「志摩がお前を良く思っていないのは確かだが、我侭が酷くなったし、それが周りを振り回してる。瑪瑙丸もヒナも、他の役者達も、お前に抜かれないように足の引っ張り合いを始めやがった。もっと稽古をしろってのに」
“…そんな…”
「芝居にも影響が出始めてる。この一座を思ってくれるなら、出ていきな」
その言葉に、ミカは俯いた。
“どうすれば、いいの?”
座長は、私を拾ってくれた。
お芝居がやりたい一心で田舎から出てきた私を、一座に迎えてくれた。
どこぞの田舎娘が、と言われて何軒もの小屋から断られても、この小屋の座長だけは受け入れてくれた。
下働きから始めて、稽古をつけてもらえるようになって、ほんの小さな役でも、貰える様になって。
この恩を、出て行くという仇で返したくは無い。
何より…。
お芝居が、したい。
ミカの気持ちが、に流れ込んできた。
白い幕の中の、黒い影でしかない娘の、渦巻く迷いと信念。
居た堪れない気持ちになる。自然と、身体に力が入ってしまう。
けれど、死の理由にはならない気もする。
そうしてまた、場面が変わる。
「ちょっと、寒いから袖に火鉢を用意しておいてよ」
苛立った志摩の声が聞こえる。
“はい”
ミカは火鉢を持って舞台の袖へ向った。
火鉢を下ろして石で火を起こそうとしているところに、一つの影が近付いてきた。
「ねぇ、ミカ」
“ヒナさん? 何ですか?”
手を止めて振り返るミカ。
「どうして、貴女ばっかりなの?」
“何が、ですか?”
「どうして貴女ばっかり、志摩さんのお世話をしてるのよ」
低い声が、怒気を孕んでいると分かる。
“私は、言われているだけで”
しかも、お世話というより、嫌がらせではないのか。
「いつも近くに居て、一緒に衣装選びにも行ってるんでしょう?」
“それは…”
好きでしているのではない。稽古や修行の一環と思えばこそ、酷い仕打ちにも耐えられるのであって、本音を言えば代わってもらいたいくらいだ。
けれど、志摩はミカを扱く事が楽しみで、ミカが嫌いなのだ。他の誰でも、そんな扱いはしないだろう。
「座長にだって、気に入られてる」
“それは、私が田舎者で、何も知らないから…”
「違うわ。もうすぐ、志摩さんとの二枚看板で売り出してもらえるんでしょ?」
“それはもっと私が成長してからで、ずっと先の話です”
「そんなこと言ってもらえるなんて、気に入られてる証拠よ」
自分には、そんな言葉掛けてくれたことはない、と悔しそうな声がする。
“違います”
ミカの否定の声など、聞こえてはいないだろう。
「思い知ればいいわ」
恨み言を言うように、低い声が響いた。
そうしてヒナの影は消える。
一人残されたミカは、項垂れるように火鉢に体を向け直す。
カチカチと音を立て始める手元。
石が打ち合うたび、その火花だけが赤い色を見せる。
そうしていくつかの火花が、火鉢の中に舞い落ちた。
その時。
“きゃあぁぁぁ!!”
火花が落ちたと同時に、火鉢の中から瞬間的に炎が燃え上がった。
そしてその炎は、火鉢に近づけていたミカの体を掠めた。
肩や顔を押さえてうずくまるミカ。
「ミカちゃん!?」
悲鳴を聞いたのか、喜助が駆け込んできた。
「熱い! 痛い!!」
うずくまるミカを抱き起こして、頬を覆うその手を掴んで引き離す。
「…!!」
真っ赤にただれた皮膚に、喜助の表情が歪む。
「早く、冷やさなきゃ!」
喜助はミカを立たせると、すぐに井戸へと向った。
白い幕の中から声がした。
「あの火鉢は、お前しか触らないんだろう?」
問う耶蘇丸。
“でも、誰でも触れる場所に置いてあります”
「一座の連中を疑うのか」
“でも、私は油を入れてはいません!”
「そりゃあ、自分で使うんだから当たり前だな」
さして深刻ではないという声の五郎丸。
「アタシは火鉢を用意しろって言っただけよ。火傷しろなんて言ってない」
少々狼狽えた、けれど怒った声で志摩が言う。
火鉢には、いくらかの油が入っていたらしい。
何故火鉢に油が入っていたのか、誰も知らなかった。
原因は分からず仕舞いだったが、ミカは火傷を負って以後も、変わらず稽古や下働きに励んだ。
しかし…。
「その顔では、芝居には出せん」
耶蘇丸のその声だけが、真っ暗な闇の中に響いた。
幕は無くなり、薬売りとの前には、一列に並ぶ一座の面々。
“そう、ですか”
あんなにも芝居が好きで、役者になりたいと望んで、努力していた娘。
嫌がらせを受けても、火傷を負っても、変わらず役者を目指した娘。
その娘に、突きつけられた言葉。
お芝居が、したかった。
だけど、もう…。
闇の中に、ぼんやりと、ミカの姿があった。
ミカの目の前には、青く燃える炎。
ミカは一歩一歩、炎に近付いていく。
「ダメだよ…」
は無意識に声を上げていた。
身を乗り出そうとしたところを、薬売りに肩を掴まれる。
「行っては、いけませんよ」
その言葉が辛い。
もう死んでしまっている人を、今更助けることなど出来ない。
は唇を噛む。
やがて、ミカの身体は青い炎に呑まれた。
見ていられず、は目を背ける。
そして燃え上がった炎が揺らめいて、鳥に形を変えて飛び上がった。
闇の中をゆるゆると旋回してから、一気に急降下を始めた。
「それが、お前の、“真”と“理”…」
静かに、薬売りが剣を構えた。
カチン、と獅子頭が鳴る。
は不思議な顔をして、薬売りを見上げる。
薬売りは、両手を天に向けている。
その手の間には、剣が横になって浮いている。
「“真”と、“理”によって…剣を、解き、放つ…!!」
トキハナツ!!
薬売りとともに剣が鳴って、辺りが真っ白になった。
NEXT
そんなこんなで解き放ってみました。
何か動機が薄い気がするのは、気のせいです。
ごめんなさい。
2009/10/4