天気雨の夜

青鷺火〜三の幕〜







「何…?」


 は、一人ぽつんとその闇の中にいた。
 何処を見ても暗闇で誰も見えない。
  さっきまですぐ傍に居たヒナでさえ、姿を確認することは出来ない。
 辛うじて、の周囲に薬売りの作った結界が残っていることだけが分かる。
「ヒナさん? …薬売りさん!」
 無意識に、札を持つ手に力が入る。
 以前、水の中に飲み込まれたが、あれは周りの状況が分かったし、息苦しいこともなかった。だから恐怖心はそれほどではなかった。

 けれど、この闇はどうだろう。

 自分が何処に居るのか分からない。
  周りの状況が分からない。
  何も見えないということが、これほど恐いことだとは知らなかった。


「く、薬売りさん…何処ですか?」


 心許なげな、小さく蚊の鳴くような声にしかならない。
 それでも、闇の中、その声は何処までも響いているように感じる。


「薬売りさん…!」


 さっきよりも、多く息を吐く。



「ここですよ」



 すぐ後ろで声がした。
 慌てて振り返ると、目の前に青い着物が迫っていた。
 見上げれば、赤い隈取のある端正な顔。
「薬売りさん!」
「どうやら、俺達だけのようで」
 一座の人達の行方が分からない。





“ギャァ!”





 鳥の鳴く声に、二人は顔を上げる。
 ぼんやりと青く燃える鳥が、ゆっくりと線を描いて飛んで行く。
 そして明るければ舞台があったと思われる所まで行って、ふっと姿を消した。

 それと入れ替わるように、突然白い大きな幕が現れた。ちょうど舞台を覆う引き幕のような。
 幕の向こう側に光源があるのか、光がゆらゆらと不安定だ。
 その幕の中央に、一つの影が映し出された。
 揺らめく光源からは想像できないほどに、はっきりとした真っ黒な影。頭に、女髷を結っているのが分かる。小柄な娘のようだ。
 彼女の口が、白く動く。本来、影絵ならば有り得ないことだ。
 すると、白い幕と、たちとの間に、一座の面々が姿を現した。幕に向って一列に、まるで芝居でも見るかのように座っている。
  薬売りとには背を向けているため、どういう状態かは分からない。
  上手から喜助、耶蘇丸、五郎丸、瑪瑙丸、ヒナ、志摩。
 は不安げに薬売りを見る。
 薬売りはただじっと、その白い幕を見つめている。

 幕の中の娘が、再び白く口を開けた。何を言っているのか、声は聞こえない。
 しかし…。

「お前は、いい役者になるよ」

 聞こえてきた声は、座長耶蘇丸のものだった。
 その声と同時に、幕の中が変化する。胡坐で座る男と、向き合う娘。影の形と先ほどの声からするとまず間違いなく男は耶蘇丸。

“本当ですか?”

 口の動きに合わせて、にはそう聞こえた。

「あぁ、場数を踏んで経験を積めば、いい味が出てくるだろうよ」
 影を見ているだけなのに、娘が喜んでいるのがありありと分かる。
「まぁ、今は志摩が我侭放題で、お前も大変だろうが、何れは二枚看板で売って行くから、それまでは辛抱しててくれな」
“はい、頑張ります!”
 深々と頭を下げる娘。その心の純粋さを、は感じていた。

 しかし、二人の影の後ろで、隠れるようにしてその会話を聞いている小さな影があった。





 それから幕は一度真っ白になる。
 次に現れた影は、女髷姿が二つ。
  手前の女は化粧でもしているのか、手が顔の辺りを彷徨っている。
  その後ろ、遠く小さく映る影は、大きな荷物を抱えている。その足元にも、大きな塊が置かれている。

「ちょっと、高々衣装持ってくるくらいで、何でこんなに時間がかかるのよ。遅すぎるから化粧直さなきゃいけないじゃない!」

 詰っている声は、志摩のものだ。

“申し訳ありません!”

 娘は怯むでも、恐がるでもなく、はっきりと謝罪する。

  それから手に持っているものを足元の塊の上に下ろし、そこから一つ手に取って広げる。そうしてそれを衣紋掛けにかけていくという作業を始める。
 何枚掛けても足元の衣装の山は一向に小さくはならない。相当な数の衣装があるということだ。
 その作業の途中、志摩はちらりと娘を一瞥した。

「その中に、今日着たいものが無いわ。別なものを衣裳部屋から持ってきてちょうだい」

 一瞬、娘の動きが止まる。

“…はい!”









 それから場面が変わる。
 じっと座り込む娘に、仁王立ちの志摩が声を荒げている。

「さっきの間はなんだい! アタシの台詞が台無しじゃないか!!」

“すみません”

「やる気がないんだったら、辞めてちょうだい!」

“続けさせてください”

「素人丸出しで、いい恥さらしよ」

“もっと精進します”

「アンタには芝居の才なんて、これっぽっちもないんだよ」

“それでも…お芝居がやりたいんです”

 延々と言い放っている声が、段々とフェードアウトして、最後には完全に消え、それと同時に影も消えていった。

 そしてまた真っ白になる。
  影が消える途中で、娘が僅かに俯いたのが分かった。そうしてその場面にも、遠くからじっと見つめている小さな影が微かに見えた。

 こんなの、いじめだ。
 は、眉間に皺を寄せる。
 娘が“はい”と言ったときの、悔しい声色が悲しくて堪らない。










 次の影は、三つ。

「じゃあ、座長、アタシ達は衣装選びに行ってくるから!」

 声高に叫ぶ志摩。
 さっきまでとは違う、喜々とした声だ。
 そうして三つの影は歩き始めた。
 先頭は二人。志摩と頭一つ高い細身の男。少し間を置いてあの娘。
 何を話しているのかは分からないが、先頭の二人は何やら楽しそうに、口角の上がった口が白抜きにされている。
 不意に先頭の二人が立ち止まる。それに合わせて娘の足も止まる。

「アンタ、ここで見張ってるんだよ」

「よろしくね、ミカちゃん」

 細身の男は瑪瑙丸だった。

「一座の連中が来でもしたらすぐに声をおかけ」

“はい”

「三人で出かけるってことにしてあるんだから、頼むよ」

“はい”

 そういって二人は幕の外へと消えていった。

 それから聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声と、囁きあう声と…。
 娘はその場でしゃがみこんで、耳を塞いでいた。




「なに…これ…」



 は酷い嫌悪感に襲われた。
 視線は幕から、手前に一列に座っている役者たちへと移っていた。そして志摩と瑪瑙丸を行き来する。
 自分たちの逢引にミカを連れて行き、最中の見張りをさせる。

 何て酷い仕打ち…。

 どうしてこんな事をするのか、には信じられなかった。



「大丈夫、ですか?」



 ハッとする。
 隣りでは、薬売りも同じものを見ているのだ。
 薬売りが何を思いながら、何を感じながら見ているのか、には到底分からない。
 けれど、が酷く心を乱しているということには気付いてくれたようだ。
「大丈夫…です」
 強張った声で、薬売りの方も向けず、強がっていることは明らかだったけれど、にはそれしか言えなかった。
 ちゃんと見て、ちゃんと受け止めなければいけない。
「そう、ですか」
 薬売りはをちらりと見て、すぐに視線を幕へ戻した。









 次に現れた影は二つ。
  もちろん片方はあの娘、もう片方は男。
  縁側にでも座っているのか、二人とも足を投げ出している。

「なぁ、お前、別な小屋に移ったらどうだ?」

 男は、五郎丸だった。
 後ろ手に手をついて、空を見上げるようにしている。

「お前の才は認めるがよ、ここにいたんじゃあ、大した役は回ってこねぇぞ」

「でも、座長からは、何れ、と言われました」

「あの志摩が認めると思うか? それに、お前より先に入ったヒナはどうなる」

“志摩さんには、認めてもらえないかもしれないですね”

 本当に、嫌われているから、と嗤う。

“ヒナさんとは、一緒に頑張ろうって励ましあってます”

 嬉しそうな明るい声に変わる。
 そんなミカに、五郎丸は小首を傾げる仕草をする。

「でもな、ミカ。ここは、お前が来てから一座の、特に役者連中の纏まりが悪くなった」

“…え?”

「志摩がお前を良く思っていないのは確かだが、我侭が酷くなったし、それが周りを振り回してる。瑪瑙丸もヒナも、他の役者達も、お前に抜かれないように足の引っ張り合いを始めやがった。もっと稽古をしろってのに」

“…そんな…”

「芝居にも影響が出始めてる。この一座を思ってくれるなら、出ていきな」


 その言葉に、ミカは俯いた。




“どうすれば、いいの?”




 座長は、私を拾ってくれた。
 お芝居がやりたい一心で田舎から出てきた私を、一座に迎えてくれた。
 どこぞの田舎娘が、と言われて何軒もの小屋から断られても、この小屋の座長だけは受け入れてくれた。
 下働きから始めて、稽古をつけてもらえるようになって、ほんの小さな役でも、貰える様になって。
 この恩を、出て行くという仇で返したくは無い。


 何より…。
 お芝居が、したい。


 ミカの気持ちが、に流れ込んできた。
 白い幕の中の、黒い影でしかない娘の、渦巻く迷いと信念。
 居た堪れない気持ちになる。自然と、身体に力が入ってしまう。
  けれど、死の理由にはならない気もする。



 そうしてまた、場面が変わる。

「ちょっと、寒いから袖に火鉢を用意しておいてよ」

 苛立った志摩の声が聞こえる。

“はい”

 ミカは火鉢を持って舞台の袖へ向った。

 火鉢を下ろして石で火を起こそうとしているところに、一つの影が近付いてきた。

「ねぇ、ミカ」

“ヒナさん? 何ですか?”

 手を止めて振り返るミカ。

「どうして、貴女ばっかりなの?」

“何が、ですか?”

「どうして貴女ばっかり、志摩さんのお世話をしてるのよ」

 低い声が、怒気を孕んでいると分かる。

“私は、言われているだけで”

 しかも、お世話というより、嫌がらせではないのか。

「いつも近くに居て、一緒に衣装選びにも行ってるんでしょう?」

“それは…”

 好きでしているのではない。稽古や修行の一環と思えばこそ、酷い仕打ちにも耐えられるのであって、本音を言えば代わってもらいたいくらいだ。

 けれど、志摩はミカを扱く事が楽しみで、ミカが嫌いなのだ。他の誰でも、そんな扱いはしないだろう。

「座長にだって、気に入られてる」

“それは、私が田舎者で、何も知らないから…”

「違うわ。もうすぐ、志摩さんとの二枚看板で売り出してもらえるんでしょ?」

“それはもっと私が成長してからで、ずっと先の話です”

「そんなこと言ってもらえるなんて、気に入られてる証拠よ」

 自分には、そんな言葉掛けてくれたことはない、と悔しそうな声がする。

“違います”

 ミカの否定の声など、聞こえてはいないだろう。




「思い知ればいいわ」




 恨み言を言うように、低い声が響いた。




 そうしてヒナの影は消える。
 一人残されたミカは、項垂れるように火鉢に体を向け直す。
 カチカチと音を立て始める手元。
 石が打ち合うたび、その火花だけが赤い色を見せる。
 そうしていくつかの火花が、火鉢の中に舞い落ちた。
 その時。





“きゃあぁぁぁ!!”





 火花が落ちたと同時に、火鉢の中から瞬間的に炎が燃え上がった。
 そしてその炎は、火鉢に近づけていたミカの体を掠めた。
 肩や顔を押さえてうずくまるミカ。

「ミカちゃん!?」

 悲鳴を聞いたのか、喜助が駆け込んできた。

「熱い! 痛い!!」

 うずくまるミカを抱き起こして、頬を覆うその手を掴んで引き離す。

「…!!」

 真っ赤にただれた皮膚に、喜助の表情が歪む。

「早く、冷やさなきゃ!」

 喜助はミカを立たせると、すぐに井戸へと向った。








 白い幕の中から声がした。

「あの火鉢は、お前しか触らないんだろう?」

 問う耶蘇丸。

“でも、誰でも触れる場所に置いてあります”

「一座の連中を疑うのか」

“でも、私は油を入れてはいません!”

「そりゃあ、自分で使うんだから当たり前だな」

 さして深刻ではないという声の五郎丸。

「アタシは火鉢を用意しろって言っただけよ。火傷しろなんて言ってない」

 少々狼狽えた、けれど怒った声で志摩が言う。



 火鉢には、いくらかの油が入っていたらしい。
 何故火鉢に油が入っていたのか、誰も知らなかった。
 原因は分からず仕舞いだったが、ミカは火傷を負って以後も、変わらず稽古や下働きに励んだ。

  しかし…。





「その顔では、芝居には出せん」




 耶蘇丸のその声だけが、真っ暗な闇の中に響いた。
 幕は無くなり、薬売りとの前には、一列に並ぶ一座の面々。


“そう、ですか”


 あんなにも芝居が好きで、役者になりたいと望んで、努力していた娘。
 嫌がらせを受けても、火傷を負っても、変わらず役者を目指した娘。
 その娘に、突きつけられた言葉。



 お芝居が、したかった。
 だけど、もう…。



 闇の中に、ぼんやりと、ミカの姿があった。
 ミカの目の前には、青く燃える炎。
 ミカは一歩一歩、炎に近付いていく。



「ダメだよ…」



 は無意識に声を上げていた。
 身を乗り出そうとしたところを、薬売りに肩を掴まれる。
「行っては、いけませんよ」
 その言葉が辛い。
 もう死んでしまっている人を、今更助けることなど出来ない。
 は唇を噛む。
 やがて、ミカの身体は青い炎に呑まれた。
 見ていられず、は目を背ける。
 そして燃え上がった炎が揺らめいて、鳥に形を変えて飛び上がった。
 闇の中をゆるゆると旋回してから、一気に急降下を始めた。



「それが、お前の、“真”と“理”…」



 静かに、薬売りが剣を構えた。
 カチン、と獅子頭が鳴る。
 は不思議な顔をして、薬売りを見上げる。

 薬売りは、両手を天に向けている。
 その手の間には、剣が横になって浮いている。



「“真”と、“理”によって…剣を、解き、放つ…!!」



 トキハナツ!!



 薬売りとともに剣が鳴って、辺りが真っ白になった。












NEXT



そんなこんなで解き放ってみました。

何か動機が薄い気がするのは、気のせいです。
ごめんなさい。
2009/10/4