朝靄のかかる山の中、草木の茂る小道を、薬売りは歩いていた。
その先に、薬草が群生していると聞いたからだ。
薬売りが商う薬の原料は、大抵問屋から仕入れるものだが、中には流通していないものもあり、自ら採りに出ることもある。
その、道中での出来事だった。
小道を歩いていた薬売りは、道の先に人影を見た。
人里から離れているわけでもないので、特に気にすることはなかった。
徐々に近付いていくと、その人影は女で、しゃがみ込んでいると分かった。
ケホッ、ケホッ。
背中を小刻みに震わせ、女は咳き込んでいた。
はぁ、はぁ…。
ゴホッ。
その咳は治まる様子がなく、次々と出てくる。
「…」
けれど、薬売りは、その女の後ろを素通りした。
「ちょいと…」
薬売りの背中に、か細い声が掛けられた。
薬売りは立ち止まったが、振り返りはしなかった。
「こんなに苦しんでるってのに、捨て置くのかい? ゴホッ」
恨めしそうな声で、女は言った。
薬売りは、軽く溜め息をついて、仕方なく、というように振り返った。
「手を、貸してくれないかい…」
女は、大層顔色が悪かった。
しおらしい様子で、心許なげな表情を見せる。
よくよく見れば、小奇麗な顔をしている。
並の男ならば、手を差し伸べてやるだろう。
けれどそれは、“並の男”の場合である。
「ヒトでも、モノノ怪でもないものに、興味は、ありませんから、ね」
「な…っ」
女は、驚いた顔をして薬売りを訝しんだ。
「アタシが何か、分かるの?」
「この世ならざるもの。所謂、霊、というやつ、でしょう」
「…ちっ」
女は舌打ちをして立ち上がった。
「命の危機に瀕したヒトでも、害を及ぼすモノノ怪でもない、ただのこの世ならざるもの。さして興味は、ありませんね」
「でも、何人もの男をたぶらかしたわ」
「それも、恨み辛みというよりは、遊んでいるだけでしょう」
「どうしてそこまでっ」
女は、薬売りを睨んだ。
「俺ではなく、連れが、貴女の声を、聞いたそうですよ」
「連れ?」
「楽しそうな声が聞こえる。けれど、害を及ぼすような雰囲気ではない。てぇ事を、言っていましたね」
「何だい、そりゃ」
半ば呆れた顔をする。
「通りかかった男に介抱してもらって、それが楽しみ、なんでしょう」
「悪かったわね」
「いえ、別に」
「アタシ、こんっなに綺麗なのに、胸の病のせいで一つもいい事なんてなくってね」
聞いてもいないのに、女は自分の身の上を話し始めた。
幼い頃から咳が出て、酷い時には寝込むほどだった。
一度発作が起きると、暫くは動く事もできない。
家は貧しく医者に掛かる事もできず、原因も分からず、あまり他人とは関わらないよう暮らしていた。
やがて両親は死に、女ばかりの姉妹たちも外へ嫁いだ。
たまに様子は見に来てくれるものの、大抵は一人だった。
それでも、その見目が噂となって、たまに家を訪ねて食べ物や薬を置いていく者が居た。
けれど、病が悪化して、それも少なくなっていった。
退屈だった日々が、更につまらない日々になった。
女はある時、久しぶりに訪れた姉から、山の奥にある薬草が咳にいいと聞いた。
踏み入るのは難しいから、何れ山に慣れた者に頼むから待っていろと、姉は言った。
女は、待てなかった。
姉が帰った翌朝、一人、山に入ったのだ。
姉の言うとおり、足元も悪く、傾斜もきつい。
靄が濃くて、何処をどう歩いたのかも分からなくなった。
こみ上げてくる咳。
それに耐えて、覚束ない足取りで進む。
何度となく立ち止まり、耐えて、それでも女は山を登った。
けれど、とうとう足を止めた。
くず折れて、咳を繰り返した。
喉を切ったのか、吐血した。
そういえば、何処に生えているどんな草なのか、聞いていなかった。
もう疲れた。
そう思ったら、睡魔にでも襲われたかのように、体から力が抜けた。
「死んだら、何処も痛くないのよ」
やけに嬉しそうに、女は言った。
「咳もでないし、快適で仕方なくって。暫く遊んでから逝こうと思って」
「そう、ですか」
「そうなの。だから放っておいて」
「最初から、そうしたじゃあ、ないですか」
薬売りは呆れたと言わんばかりの視線を向けた。
「それもそうね。じゃ、さっさと行って」
しっ、しっ、と追い払われ、薬売りは歩き出した。
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2012/8/19