短編
〜朝靄・壱〜






 朝靄のかかる山の中、草木の茂る小道を、薬売りは歩いていた。

 その先に、薬草が群生していると聞いたからだ。
 薬売りが商う薬の原料は、大抵問屋から仕入れるものだが、中には流通していないものもあり、自ら採りに出ることもある。

 その、道中での出来事だった。

 小道を歩いていた薬売りは、道の先に人影を見た。
 人里から離れているわけでもないので、特に気にすることはなかった。

 徐々に近付いていくと、その人影は女で、しゃがみ込んでいると分かった。

 ケホッ、ケホッ。

 背中を小刻みに震わせ、女は咳き込んでいた。


 はぁ、はぁ…。

 ゴホッ。


 その咳は治まる様子がなく、次々と出てくる。


「…」


 けれど、薬売りは、その女の後ろを素通りした。



「ちょいと…」



 薬売りの背中に、か細い声が掛けられた。

 薬売りは立ち止まったが、振り返りはしなかった。


「こんなに苦しんでるってのに、捨て置くのかい? ゴホッ」


 恨めしそうな声で、女は言った。
 薬売りは、軽く溜め息をついて、仕方なく、というように振り返った。

「手を、貸してくれないかい…」

 女は、大層顔色が悪かった。
 しおらしい様子で、心許なげな表情を見せる。
 よくよく見れば、小奇麗な顔をしている。
 並の男ならば、手を差し伸べてやるだろう。

 けれどそれは、“並の男”の場合である。

「ヒトでも、モノノ怪でもないものに、興味は、ありませんから、ね」

「な…っ」

 女は、驚いた顔をして薬売りを訝しんだ。

「アタシが何か、分かるの?」
「この世ならざるもの。所謂、霊、というやつ、でしょう」
「…ちっ」

 女は舌打ちをして立ち上がった。

「命の危機に瀕したヒトでも、害を及ぼすモノノ怪でもない、ただのこの世ならざるもの。さして興味は、ありませんね」
「でも、何人もの男をたぶらかしたわ」
「それも、恨み辛みというよりは、遊んでいるだけでしょう」
「どうしてそこまでっ」


 女は、薬売りを睨んだ。


「俺ではなく、連れが、貴女の声を、聞いたそうですよ」
「連れ?」

「楽しそうな声が聞こえる。けれど、害を及ぼすような雰囲気ではない。てぇ事を、言っていましたね」
「何だい、そりゃ」


 半ば呆れた顔をする。


「通りかかった男に介抱してもらって、それが楽しみ、なんでしょう」
「悪かったわね」
「いえ、別に」
「アタシ、こんっなに綺麗なのに、胸の病のせいで一つもいい事なんてなくってね」

 聞いてもいないのに、女は自分の身の上を話し始めた。

 幼い頃から咳が出て、酷い時には寝込むほどだった。
 一度発作が起きると、暫くは動く事もできない。

 家は貧しく医者に掛かる事もできず、原因も分からず、あまり他人とは関わらないよう暮らしていた。
 やがて両親は死に、女ばかりの姉妹たちも外へ嫁いだ。
 たまに様子は見に来てくれるものの、大抵は一人だった。

 それでも、その見目が噂となって、たまに家を訪ねて食べ物や薬を置いていく者が居た。
 けれど、病が悪化して、それも少なくなっていった。
 退屈だった日々が、更につまらない日々になった。


 女はある時、久しぶりに訪れた姉から、山の奥にある薬草が咳にいいと聞いた。
 踏み入るのは難しいから、何れ山に慣れた者に頼むから待っていろと、姉は言った。

 女は、待てなかった。

 姉が帰った翌朝、一人、山に入ったのだ。

 姉の言うとおり、足元も悪く、傾斜もきつい。
 靄が濃くて、何処をどう歩いたのかも分からなくなった。


 こみ上げてくる咳。

 それに耐えて、覚束ない足取りで進む。

 何度となく立ち止まり、耐えて、それでも女は山を登った。


 けれど、とうとう足を止めた。
 くず折れて、咳を繰り返した。

 喉を切ったのか、吐血した。


 そういえば、何処に生えているどんな草なのか、聞いていなかった。


 もう疲れた。



 そう思ったら、睡魔にでも襲われたかのように、体から力が抜けた。





「死んだら、何処も痛くないのよ」

 やけに嬉しそうに、女は言った。

「咳もでないし、快適で仕方なくって。暫く遊んでから逝こうと思って」
「そう、ですか」
「そうなの。だから放っておいて」
「最初から、そうしたじゃあ、ないですか」

 薬売りは呆れたと言わんばかりの視線を向けた。

「それもそうね。じゃ、さっさと行って」

 しっ、しっ、と追い払われ、薬売りは歩き出した。



















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2012/8/19