短編







 その日は、朝目覚めると一面が雪景色だった―。








〜初雪・壱〜








 日の暮れ始めた街並みを見下ろして、薬売りは軽く息をついた。
 朝早くに目覚めた時は、まだ誰にも荒らされず、真っ白だった道。
 それが、今は見る影もない。
 屋根の上や建物の陰などに辛うじて残っているくらいだった。

 日が落ちだすと、急に寒くなってきた。
 眼下の道行く人たちも、心なしか急ぎ足だ。

 日が落ち切る前に戻るだろうか。

 薬売りは、朝早く雪の中を出掛けて行ったを案じていた。
 昨日の夜から、少々様子がおかしかった。
 そして、今朝、銀世界を見ると、急いで奉公先に向かったのだ。

 特段、雪に左右される店ではなかったはず。

 疑問に思いながらも、薬売りには待つことしかできなかった。




「ただ今戻りました」


 日が落ち切るより前に、障子の向こうから声がした。
 いつものような声色ではなかった。

 部屋に入ってきたは、障子を閉めた姿のまま止まってしまった。

「おかえりなさい」

 そのすぐ後ろに立って、薬売りは穏やかに声をかけた。
 薬売りの声に、はゆっくりとそちらに向き直った。

 翳りが見てとれる。
 目が赤く、瞼も腫れぼったい。

 力なく微笑むを見て、薬売りはどうしたものかと思う。

 髪に触れてみる。
 冷気を纏って、とても冷たい。
 頬に触れてみる。
 同様に冷たく、けれど滑らか。

「寒かったでしょう」

「…はい」

 二人の視線が交わる。
 その瞬間、が眉を顰めた。
 そうして、自ら薬売りの胸に身を寄せた。

「珍しいことも、あるもんだ」

 薬売りは甘んじてそれを受け入れ、尚且つの身体を包んでやった。

「どうか、したんで」






 薬売りの問いに、十分すぎるほどの間を置いて、は答えた。





「奉公先のご隠居様が、亡くなったんです」




 言葉にして更に辛くなったのか、は泣き始めた。



 薬売りは、その背中を優しく撫でてやった。






 暫くそうした後、はぽつりと話し始めた。



「とてもお優しい、奥様想いのご隠居様だったんです」


 が奉公に出ていた店は、それなりの紙屋だった。
 安定した天気の続く冬場は、紙を量産するいい時期。
 職人も多く、他の奉公人も忙しそうにしていた。

 そんな中で、が与えられた仕事のひとつが、「ご隠居の様子見」だった。

「ご隠居様は、病を患っていて、もう、いつ何があってもおかしくないのだと言われました」

 そのかつての店主は利兵衛と言った。
 店の離れに一人で住まい、寝たり起きたりを繰り返して暮らしていた。
 日に何度か家の者が様子を見に行っていたが、忙しくなり難しくなった。
 そのため、奉公人の何人かにも離れを訪れるように言いつけたのだ。

「その中で、何故か私を気に入っていただいたみたいで」

 目に涙を溜めながら、は笑っていた。
 薬売りはの横に並んで座り、その肩を抱き寄せた。

「そのご隠居様は、人を見る目がおありの様で」
「…薬売りさん」

 は僅かに微笑んだようだった。



 ご隠居はが離れを訪れると、大層喜んだ。
 まるで孫娘でも見る様ににこやかにを迎えてくれた。

 調子のいい時は縁側まで出て、二人茶を啜った。
 そうでないときも、床から起き上がって短い間談笑した。


「ご隠居様の若い頃のお話を聞きました。私の旅の話も聞いてくれて…」
「若い頃、ですか」
「紙漉きの職人さんと大喧嘩した話とか。技術を盗んだ他のお店に怒鳴り込んだとか」
「揉め事ばかりじゃあ、ないですか」
「本当に」

 小さく笑うを見て、薬売りも目を細めた。

「とても楽しい話ばかりでした」
「筋の通った、良い御仁のようで」
「はい」




「昨日の、夕暮れ刻のことでした」


 暇の挨拶に離れを訪れたを、ご隠居は引きとめた。

 今夜はとても冷え込む。
 雪が降るかもしれない。

 日が陰り肌寒くなってきた縁側で、ご隠居は座り込んで空を見上げていた。
 低く、重たい雲が立ち込めた空だ。

 身体に障ります。

 は、部屋から綿入れを持ち出し、ご隠居の肩にかけた。



 いつも、この季節に思い出すのだ。



 空を見上げたまま、ご隠居が言った。



 お雪。
 その名の通り、雪の日に生まれ、雪の日に死んだ…儂の妻だ。
 もう、十年になる。















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2013/12/8