町に入る前から声が聞こえることは、そうそう多くはない。
もちろん、“何となくこっちのほう”と感じて足を向けることはあるが、“こっちだ”と思って行く事は少ない。
その声は、峠から町を見下ろしたときに聞こえてきた。
まだ遠く、一つ一つの建物が米粒ほどの大きさにしか見えないのにも関わらず。
“…いや…”
ぽつりと一言、やけにはっきりとした声だった。
は不安げにその町を見下すと、その町に良くないものがある様な気がして、それ以上近付きたくないと思った。
「どうしても行くんですか?」
「モノノ怪が、いるなら」
薬売りなら、そう言うだろう。
何せ薬売りは、モノノ怪を斬ることこそ生業。
けれど、あの声は今まで聞いた中でも強い力を持っていると思わざるを得ない。
「でも、何か良くないものが…」
「モノノ怪ならば、斬らねばいけません」
「…ですよね」
は肩を落として、俯く。
誰か、地面にこの足を縫い付けてはくれないか。
そんなことを思っても、この峠にはそんな大層なことを出来るものの気配は微塵も無い。
あの町は、嫌だ。
あの声には、そう感じさせるものが充分すぎるほどに満ちていた。
恨み、憎しみ、嫌悪、そして苦痛。
たった一言の中に、あらゆる気持ちが綯い交ぜになっていた。
「さん」
先を行く薬売りが振り返った。
は顔を歪めて動こうとしない。
「仕方、ありませんね」
薬売りは引き返してくると、懐から札を取り出した。
折りたたんである札を、に差し出す。
は首を傾げる。既に一枚貰っていて、懐にしまってあるのだ。
「モノノ怪に縋られぬよう、両袖の袂に。…それから」
今度は後ろ手で帯の辺りをごそごそと探って、何かを取り出した。
手を広げると、小さな陶器の器。
蓋を開けると中は玉虫色をしている。
「紅、ですか?」
首を傾げるを他所に、薬売りは竹筒から指にほんの僅かの水を移す。
見入っていると、薬売りの白い指が、玉虫色に当てられた。
水分を含んだ紅は、それで初めて色を出す。
薬指の先に薄く色を移す。
不思議と、長い爪が紅を抉ることは無い。
「こんな色、初めて見ました!」
赤い紅が主流の時代。綺麗な桜色に、一瞬にして目を奪われる。
薬売りは器を持った手の指先だけで、の顎を掴んで顔を上げさせる。
「薬売りさん?」
の問いに答える様子はない。
薬売りの指が、の下唇をなぞる。
「!?」
突然のことに、硬直する。
の下唇を一往復して、薬売りの指は離れた。
「魔除けですよ。気休め程度ですが、ないよりは、マシだと」
そう言って、薬売りはふたたび歩き出した。
は呆然と立ち尽くしていたが、我に返ると慌てて薬売りを追った。
「べ、紅くらい自分で挿せますから!」
唇の違和感に戸惑いながらも、何処か嬉しそうだ。
けれど、自分で挿せるというのは嘘だ。
紅など、の稼ぎでは到底手に入れることの出来ないものだ。
だから今まで挿した事などないに等しい。
遠い昔、まだ幼い頃に母親のものをねだって付けてもらった事しかない。
「鏡を見なければ、自分では、挿せませんよ」
追いついてきたに、意地悪そうに言ってやる。
「それは」
「鏡を見るためには、早く町へ行かなければ、いけませんね」
その言葉で、の顔が引き攣る。
どうやら、嵌められたらしい。
宿屋の軒先に姿を現した薬売りに、は駆け寄った。
町に入って、声は一層強くなった。
苦しいとか、痛いとか、様々な言葉を発している。
こんな町で一人にはされたくない。
けれど手分けして宿を探すことになって、今、薬売りが出てきた宿の前で落ち合うことになっていた。
「どうでしたか?」
「ここも、満室だそうで」
何処の宿も客が多く、泊めて貰えそうになかったのだ。
「こちらもダメでした」
不安げに薬売りを見上げる。
町に入ったのに、宿が満室ではどうしようもない。
空き家を探すか、野宿をするか。
野宿をしたことがない訳ではないが、出来れば避けたいのが女心だろう。
「どうすれば…」
「町の外れに、もう一軒宿があると、聞きました」
「本当ですか!」
の表情が晴れる。
薬売りは頷いてから道に出た。
「あまり、流行ってはいないらしいが」
「それでも屋根があるだけマシです」
足取り軽くついてくるに、薬売りは微かに笑う。
大通りから細い道に入って、それから更に小路を進む。
「あの…薬売りさん…」
徐々に重くなっていったの足取りが、小路に入った途端とうとう止まってしまった。
「いや、ですか」
「イヤです。この辺、酷いです」
両手で荷物を力いっぱい抱きしめて、その顔は青ざめている。
道が細くなるたびに、それに比例するかのように声が強まってきている。
「何と、言っていますか」
「色々です。痛いとか憎いとか、とにかく色んなことを言ってます」
やけに早口で答える。
薬売りはに鋭い視線を投げかける。
「薬売りさん!!」
「モノノ怪は、斬らねばならない」
「でも」
「貴女に、出来ることは、何ですか。貴女が、したいことは」
「もちろん、聞いてあげたい!」
荷物を抱える手に、更に力が入る。
「私には声が聞こえる。この世ならざるものの声を聞いて受け止めてあげたい!! だけど…!」
恐いものは恐い。
こんな入り組んだ感情を持つ声は、初めて聞いた。
声だけで、ここまで恐いと感じたことはなかった。
この声の先にある“真”と“理”を知ることが、恐い。
ここまで強い声となるのに、何があったのか知ることが、恐い。
「…恐い…」
呟いた声は、掠れていた。
その言葉に、薬売りは僅かに目を見開く。
そして何か考え込むかのように、明後日の方向を見る。一度軽く息を吐いて、のもとに歩み寄った。
薬売りが近付いたことで、に影がかかる。
「俺が、守りますよ」
逆光が眩しい。
「“一応は”なんでしょう」
いつかの台詞を思い出す。
「いいえ。これから先、俺が、貴女を、守ります」
「…っ」
何てことを言うんだろう。
そんな事まで言われて、それでもイヤだとは言えない。
例えモノノ怪を斬りにいくためについた嘘でも、モノノ怪の真実を知るために自分の力を利用するための口実でも、何でもいい。
守ってくれると言ったのだから。
「分かりました。行きます」
の瞳に、力が宿った。
NEXT
さて、始まりましたモノノ怪退治。
ちょっとだけ前に進むかもしれないような
進まないかもしれないような。
書いてて思ったんですが
薬売りさんって竹筒とか持ってるんだろうか…
2009/11/7