天気雨の夜

女郎蜘蛛〜二の幕〜











 細い小路の奥に、小さな宿を見つけた。
 小さくはあるが、外観はどっしりとしていて、趣が感じられる。
  流行り宿のような派手な色使いも装飾も無い、落ち着いた宿だ。
 けれど、その宿を見た途端、声の元がそこであると分かってしまった。

 渦巻いている。

 は前を行く薬売りの袖を掴んでいた。
 薬売りは、腕に重さを感じてちらりとを一瞥する。
「ごめんなさい。鬱陶しいですよね」
 慌てて手を離す。
 薬売りは構わず宿の戸を引いた。
 まだ昼だというのに、暗い。いや、日は差し込んでいるから、空気が重いというべきか。
 モノノ怪の住処に、足を踏み入れてしまったことは確かなようだ。
「あら、いらっしゃいまし」
 戸口の正面の帳場に、中年の女が座っていた。上品な顔立ちではあるが、少しやつれているように見える。
「一晩、お願いしたく」
「もちろん、大丈夫ですよ。一部屋でよろしいですか?」
 女は立ち上がると、二人に上がるよう勧める。何処か値踏みするような視線を込めて。
「はい。衝立を、お願いします」
「…えっ」
 薬売りの後ろで縮こまっていたが声を上げる。
「薬売りさん?」
 これまで、同じ宿に泊まっても部屋は別々だった。それなのに何故一部屋しか取らないのか。
「一人で、大丈夫なんですか」
「それは…」
「どっちなんですかい?」
 女が痺れを切らしたように言ってくる。
「一部屋で」
 薬売りははっきりと答える。
「かしこまりました。今、案内させます。結!」
 女がそう言うと、奥からすぐに若い娘が姿を現した。
  目が大きく、よりも若干幼く見える。
「申し遅れました。私は女将の芳と申します。これは奉公人の結。お見知りおきください」
 深々と頭を下げる女将。その傍らで結も同じように頭を下げた。
「では、ご案内します。どうぞ」
 結はにこりと笑って先を歩いていく。
 二人は後に続いて、廊下へ出た。



「今、奉公人が私しかいないので、何かとご不便があるかもしれませんが、ご了承ください」
 道すがら、申し訳なさそうに頭を下げる結。
 そうですか、と何とはなしに答える薬売り。
  その後ろでは、震える身体を押さえ込んで、聞こえてくる声に耐えていた。
  もはや結の言葉など聞こえてはいない。
  二部屋ほど過ぎてから、突き当りの階段を上る。
  ちらり、と薬売りの視線が天井に向く。
  天井の隅にいくつか蜘蛛の巣が張っている。
  それから足元に視線を戻す。
  綺麗に磨かれて、埃一つ無い。
「…」
 無言で結の背中を見遣る。
 階段を上りきって、二階の廊下に出る。
 すると再び、小さな格子窓の角に、蜘蛛の巣を見つけた。けれど、格子窓の枠には埃も汚れもない。


「こちらです」
 階段から二部屋目の障子を開けて、結が二人を中へ促す。
「衝立は窓のところに。それから、うちではお客様に揃ってお食事をしていただいているので、用意が整いましたらお呼びいたしますので、帳場の奥の部屋までお越しください」
 二人が部屋に入ってから、廊下で手をついて頭を下げて言った。
「わかりました」
 薬売りは短く答えて、袖の中に隠した手に札を用意する。
「あの、お連れの方、大丈夫ですか?」
 顔を上げた結は、の方を見て心配そうにする。
「え、私ですか?」
 やはり声は掠れる。あまり喋りたくない。
「酷く、顔色がお悪いので」
「大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけなので」
「お薬をお持ちしますか?」
「それには、及びませんよ。俺は、薬を商っているもんで」
 畳に下ろした行李を軽く叩いて示す。
「あ、そうでしたか。失礼しました。では、私はこれで」
 結は、もう一度頭を下げて障子を閉めようとした。
 そのとき、結の髪に挿してある櫛に目が行った。
  ちらりと見えたのは、桜のような花があしらわれた塗り櫛。
「あの、結さん」
「はい?」
 に呼び止められて、結は障子に掛けた手を止める。奉公人には不相応ではないかと思ってしまったが、とても結に似合っていた。
「その櫛、とても綺麗ですね」
「え…。あ、ありがとうございます」
「ご自分で?」
「いえ、よく覚えてはいないんですが、郷を出るときに母が持たせてくれたものだと思います」
「そうですか。とてもお似合いですよ」
 力なくが笑うと、結も恥ずかしそうに微笑んだ。



 障子が閉められ結の気配がなくなるとすぐに、薬売りは僅かに障子を開け、廊下にいくつかの天秤を投げた。
  それから、障子を閉めると部屋の面という面に札を貼っていった。
  障子、襖、天井、布を被せてある鏡台、立てかけてある衝立、物入れ等々、とにかく  見えるところは札で埋め尽くされた。
 札は通常よりも赤く、モノノ怪の存在が近くにあることを示している。
「大丈夫、ですか」
「…結界のお陰で、声が少し遠ざかったみたいです」
 力なく座り込んだの顔は、やはり青い。
「何と言っているのか、詳しく聞かせては、もらえませんか」
「…はい」
 は放り出したままの荷物を端に除けて、裾を治して座りなおす。
「酷い、痛い、苦しい、許さない。それに、嫌だ、嫌だ、と何度も」
「これはまた、抽象的、ですね」
 けれど、に聞こえるこの世ならざるものの声は、大抵がそればかりだ。
「とにかく止みません。それに凄く強いです。叫んでるわけでもないのに」
「確かに、酷い、違和感だ」
 モノノ怪を斬っているだけあって、その気配は分かるのだ。
「少し、横になっては、どうですか」
「いえ、大丈夫ですから」
 とはいえ、酷い顔だ。
「無理は、せぬほうが」
「いいんです。もし私が寝てしまったら…」
 薬売りはじっと言葉の続きを待つ。
「その…薬売りさん、調べに出るんですよね」
 一人残されるのが嫌だ。例え結界が張ってあっても。
 無言のままの薬売り。
「本当は、凄く恐いんです。今までだって恐かった。でも、今日は…」
 弱音を吐いてしまうくらいの恐怖。
 今までも、聞こえることで様々な思いをしてきた。もちろん、恐ろしさも感じてきた。けれど、今回のこの声は、今までのどの声より強い。


「貴女を置いては、行きませんよ」


 薬売りはゆっくりとした動作で押入れの前に立つ。
  引き手に手を掛ける前に、を振り返る。


「言ったでしょう。守る、と」


 は驚いたように、目を丸くする。
「だって、それは…」
 連れて来るための口実のはず。
 引き手に手を掛けて襖を開ける薬売り。
「嘘だと、思っていたんで?」
 図星をつかれる。
「守りますよ」
 横目でを一瞥する。
「夕餉まで、眠るといい」
 押入れから布団を一組取り出すと、窓際に延べて形を整える。
  それから立て掛けてあった衝立を手に取る。
「あの! 今は、衝立はいいです」
 薬売りの姿が見えないのはイヤだ、ということは口にはしない。
「そうですか」
「はい。あの…すいません」
「いいんですよ」
 薬売りが元居た場所に戻るのと同時に、が布団へ向う。
  よろよろと、足元が覚束ない。
 布団に入ると縮こまって、ぼんやりとした視界で薬売りがいることを確認する。


「珍しいことも、あるもんだ」


 ぼそっと呟いた薬売り。
 が意識を浮上させると、勝手に行李を開けて飛び出してきたのか、天秤が一つ宙を飛んでいる。
  そしてそのままの枕元に着地する。
 天秤はお辞儀をすると、周りで一通り跳ねてもう一度の前に戻ってくる。
「そっか、今日は君なのね」
 は力なく微笑んで、布団から手を出すと天秤を一撫でして自分の腕の中に引き込んだ。
  すると安堵したのか僅かに表情が和らいだ。そしてそのまま瞳を閉じる。
「そういうこと、ですか」
 その一部始終を見ていた薬売りは、最近の天秤の変化の理由に気が付いた。









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さて、中々モノノ怪さんが出てこない…


2009/11/14