細い小路の奥に、小さな宿を見つけた。
小さくはあるが、外観はどっしりとしていて、趣が感じられる。
流行り宿のような派手な色使いも装飾も無い、落ち着いた宿だ。
けれど、その宿を見た途端、声の元がそこであると分かってしまった。
渦巻いている。
は前を行く薬売りの袖を掴んでいた。
薬売りは、腕に重さを感じてちらりとを一瞥する。
「ごめんなさい。鬱陶しいですよね」
慌てて手を離す。
薬売りは構わず宿の戸を引いた。
まだ昼だというのに、暗い。いや、日は差し込んでいるから、空気が重いというべきか。
モノノ怪の住処に、足を踏み入れてしまったことは確かなようだ。
「あら、いらっしゃいまし」
戸口の正面の帳場に、中年の女が座っていた。上品な顔立ちではあるが、少しやつれているように見える。
「一晩、お願いしたく」
「もちろん、大丈夫ですよ。一部屋でよろしいですか?」
女は立ち上がると、二人に上がるよう勧める。何処か値踏みするような視線を込めて。
「はい。衝立を、お願いします」
「…えっ」
薬売りの後ろで縮こまっていたが声を上げる。
「薬売りさん?」
これまで、同じ宿に泊まっても部屋は別々だった。それなのに何故一部屋しか取らないのか。
「一人で、大丈夫なんですか」
「それは…」
「どっちなんですかい?」
女が痺れを切らしたように言ってくる。
「一部屋で」
薬売りははっきりと答える。
「かしこまりました。今、案内させます。結!」
女がそう言うと、奥からすぐに若い娘が姿を現した。
目が大きく、よりも若干幼く見える。
「申し遅れました。私は女将の芳と申します。これは奉公人の結。お見知りおきください」
深々と頭を下げる女将。その傍らで結も同じように頭を下げた。
「では、ご案内します。どうぞ」
結はにこりと笑って先を歩いていく。
二人は後に続いて、廊下へ出た。
「今、奉公人が私しかいないので、何かとご不便があるかもしれませんが、ご了承ください」
道すがら、申し訳なさそうに頭を下げる結。
そうですか、と何とはなしに答える薬売り。
その後ろでは、震える身体を押さえ込んで、聞こえてくる声に耐えていた。
もはや結の言葉など聞こえてはいない。
二部屋ほど過ぎてから、突き当りの階段を上る。
ちらり、と薬売りの視線が天井に向く。
天井の隅にいくつか蜘蛛の巣が張っている。
それから足元に視線を戻す。
綺麗に磨かれて、埃一つ無い。
「…」
無言で結の背中を見遣る。
階段を上りきって、二階の廊下に出る。
すると再び、小さな格子窓の角に、蜘蛛の巣を見つけた。けれど、格子窓の枠には埃も汚れもない。
「こちらです」
階段から二部屋目の障子を開けて、結が二人を中へ促す。
「衝立は窓のところに。それから、うちではお客様に揃ってお食事をしていただいているので、用意が整いましたらお呼びいたしますので、帳場の奥の部屋までお越しください」
二人が部屋に入ってから、廊下で手をついて頭を下げて言った。
「わかりました」
薬売りは短く答えて、袖の中に隠した手に札を用意する。
「あの、お連れの方、大丈夫ですか?」
顔を上げた結は、の方を見て心配そうにする。
「え、私ですか?」
やはり声は掠れる。あまり喋りたくない。
「酷く、顔色がお悪いので」
「大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけなので」
「お薬をお持ちしますか?」
「それには、及びませんよ。俺は、薬を商っているもんで」
畳に下ろした行李を軽く叩いて示す。
「あ、そうでしたか。失礼しました。では、私はこれで」
結は、もう一度頭を下げて障子を閉めようとした。
そのとき、結の髪に挿してある櫛に目が行った。
ちらりと見えたのは、桜のような花があしらわれた塗り櫛。
「あの、結さん」
「はい?」
に呼び止められて、結は障子に掛けた手を止める。奉公人には不相応ではないかと思ってしまったが、とても結に似合っていた。
「その櫛、とても綺麗ですね」
「え…。あ、ありがとうございます」
「ご自分で?」
「いえ、よく覚えてはいないんですが、郷を出るときに母が持たせてくれたものだと思います」
「そうですか。とてもお似合いですよ」
力なくが笑うと、結も恥ずかしそうに微笑んだ。
障子が閉められ結の気配がなくなるとすぐに、薬売りは僅かに障子を開け、廊下にいくつかの天秤を投げた。
それから、障子を閉めると部屋の面という面に札を貼っていった。
障子、襖、天井、布を被せてある鏡台、立てかけてある衝立、物入れ等々、とにかく 見えるところは札で埋め尽くされた。
札は通常よりも赤く、モノノ怪の存在が近くにあることを示している。
「大丈夫、ですか」
「…結界のお陰で、声が少し遠ざかったみたいです」
力なく座り込んだの顔は、やはり青い。
「何と言っているのか、詳しく聞かせては、もらえませんか」
「…はい」
は放り出したままの荷物を端に除けて、裾を治して座りなおす。
「酷い、痛い、苦しい、許さない。それに、嫌だ、嫌だ、と何度も」
「これはまた、抽象的、ですね」
けれど、に聞こえるこの世ならざるものの声は、大抵がそればかりだ。
「とにかく止みません。それに凄く強いです。叫んでるわけでもないのに」
「確かに、酷い、違和感だ」
モノノ怪を斬っているだけあって、その気配は分かるのだ。
「少し、横になっては、どうですか」
「いえ、大丈夫ですから」
とはいえ、酷い顔だ。
「無理は、せぬほうが」
「いいんです。もし私が寝てしまったら…」
薬売りはじっと言葉の続きを待つ。
「その…薬売りさん、調べに出るんですよね」
一人残されるのが嫌だ。例え結界が張ってあっても。
無言のままの薬売り。
「本当は、凄く恐いんです。今までだって恐かった。でも、今日は…」
弱音を吐いてしまうくらいの恐怖。
今までも、聞こえることで様々な思いをしてきた。もちろん、恐ろしさも感じてきた。けれど、今回のこの声は、今までのどの声より強い。
「貴女を置いては、行きませんよ」
薬売りはゆっくりとした動作で押入れの前に立つ。
引き手に手を掛ける前に、を振り返る。
「言ったでしょう。守る、と」
は驚いたように、目を丸くする。
「だって、それは…」
連れて来るための口実のはず。
引き手に手を掛けて襖を開ける薬売り。
「嘘だと、思っていたんで?」
図星をつかれる。
「守りますよ」
横目でを一瞥する。
「夕餉まで、眠るといい」
押入れから布団を一組取り出すと、窓際に延べて形を整える。
それから立て掛けてあった衝立を手に取る。
「あの! 今は、衝立はいいです」
薬売りの姿が見えないのはイヤだ、ということは口にはしない。
「そうですか」
「はい。あの…すいません」
「いいんですよ」
薬売りが元居た場所に戻るのと同時に、が布団へ向う。
よろよろと、足元が覚束ない。
布団に入ると縮こまって、ぼんやりとした視界で薬売りがいることを確認する。
「珍しいことも、あるもんだ」
ぼそっと呟いた薬売り。
が意識を浮上させると、勝手に行李を開けて飛び出してきたのか、天秤が一つ宙を飛んでいる。
そしてそのままの枕元に着地する。
天秤はお辞儀をすると、周りで一通り跳ねてもう一度の前に戻ってくる。
「そっか、今日は君なのね」
は力なく微笑んで、布団から手を出すと天秤を一撫でして自分の腕の中に引き込んだ。
すると安堵したのか僅かに表情が和らいだ。そしてそのまま瞳を閉じる。
「そういうこと、ですか」
その一部始終を見ていた薬売りは、最近の天秤の変化の理由に気が付いた。
NEXT
さて、中々モノノ怪さんが出てこない…
2009/11/14