さっきまで聞こえていた声が、止んでいる。
曖昧な意識の中、聞こえてくるのはざりざりという擂り鉢の音。
ゆっくりと目を開けると、綺麗な姿勢で薬を擂っている薬売りが見えた。
休んだせいなのか、声が聞こえないせいなのか、幾分身体が軽くなった。
緩慢な動作で身体を起こすと、薬売りがに気付く。
「目が、覚めましたか」
「はい。私、どれくらい眠っていましたか?」
「半刻、といった所ですよ」
「その間に、モノノ怪を斬ったなんてこと、ないですよね?」
「未だ、何もしていませんよ」
は身なりを整えて布団から抜け出す。
「大丈夫、ですか」
「はい、お陰さまで。何だか、声が聞こえなくなりましたから」
「…ほぅ…?」
薬売りは手を止めて、辺りの気配を窺うようにする。確かにモノノ怪の気配はある。札が赤いのが証拠。
「大分静かになりました」
は布団を隅の方に畳んで薬売りの傍に行き座ろうとした。
「きゃあぁぁぁぁぁっ!!」
突然、女の悲鳴が響いた。
「何!?」
が廊下側の障子に目を向ける。
薬売りは立ち上がると、行李を背負って部屋を出た。廊下に並ぶ天秤に変化はない。
「下か…?」
声の響きから考えて、二階ではなかった。
「今のは」
が不安そうに部屋から顔を出す。
「行きますよ」
「…はい」
薬売りは、が頷くのを確認してから足を踏み出した。
階段を下りると、すぐ傍の部屋の前に、何人か人が集まっていた。
「どうか、なさったんで?」
薬売りは手近に居た男に聞く。
「どうもこうも…」
総髪姿の男が、顔をしかめながら場所を開ける。
部屋の中を見ると、まず目に入ったのは、腰を抜かして障子に寄りかかっている結。その肩は激しく上下している。
そして部屋の奥にはだらりとくず折れた男が横たわっていた。
「一体どういうわけだ」
頭を掻き毟りながら苛立っている中年の男。前掛けをしているから宿の者だろう。
「番屋へは?」
身なりは整っているが、町人体の若い男が言う。
「そ、そんなことしたら…」
困り果てたように柱にもたれ掛かる女将。
そんな一同の会話を完全に無視して、薬売りは倒れている男に近付く。
それでようやくは部屋の中を見ることが出来た。
倒れている男の口には泡を吹いたのか白いものが付いている。
目は白目をむき出しにして、その白目は酷く充血している。
死んでいるのだろう。
は目を背けて遺体は薬売りに任せ、自分は激しい呼吸を繰り返す結の元へ向かった。
「大丈夫?」
結の背中をさすって、ゆっくりとした呼吸を促す。
は、結の目が遺体から離れないことに気付いた。
顔は青ざめて、うっすらと涙まで出ているのに、そこから視線が外れない。
は両手で、そっと結の両頬を包み込むと、顔をゆっくり自分に向けさせる。
「結さん」
しっかりと瞳を覗き込んで名を呼ぶ。
びくりと肩を震わせて我に返った結は、の顔を見るとぼろぼろと涙を流し始めた。
「お、お食事の…用意ができたから、よ…呼びに、き」
「喋らなくていいから」
は静かに結を抱きしめてやる。
死体など見るのは初めてだったのだろう。
背中をゆっくり擦ってやると、徐々に落ち着きを取り戻してきた。
結の背中から手を離す瞬間、それは聞こえた。
“結ちゃん…”
寝る以前まで聞こえていた声と同じ声。
けれど何処か優しさを感じる声だった。
は辺りを窺ったが、それが何処から聞こえたものかは分からなかった。
「首を、絞められています」
薬売りが遺体の様子を調べている。
その言葉に、皆の視線が遺体の首元に集中する。
「一体誰がこんなこと…」
町人体の男が漏らす。
「荒らされていないし、物取りじゃあないようだな」
部屋の中を見渡して総髪の男が言う。
「とにかく番屋へ…」
「ちょっと待ってくださいまし。こんなことが公になっては、こちらが困ります」
町人体の男の行く手を阻んで、女将がそう言った。
「しかし…」
「お願いします!」
必死の形相の女将。
人一人死んでいるのに、宿の体裁を守りたいのだろうかと、は思う。
「…下手人はこの中に居るってことも考えられるな」
「なっ!?」
前掛け姿の男の言葉に、皆動揺する。
「そうとなっちゃあ、誰もここから出すわけにはいかねぇ」
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2009/11/20