天気雨の夜

女郎蜘蛛〜三の幕〜












 さっきまで聞こえていた声が、止んでいる。







 曖昧な意識の中、聞こえてくるのはざりざりという擂り鉢の音。
 ゆっくりと目を開けると、綺麗な姿勢で薬を擂っている薬売りが見えた。
 休んだせいなのか、声が聞こえないせいなのか、幾分身体が軽くなった。


 緩慢な動作で身体を起こすと、薬売りがに気付く。
「目が、覚めましたか」
「はい。私、どれくらい眠っていましたか?」
「半刻、といった所ですよ」
「その間に、モノノ怪を斬ったなんてこと、ないですよね?」
「未だ、何もしていませんよ」
 は身なりを整えて布団から抜け出す。
「大丈夫、ですか」
「はい、お陰さまで。何だか、声が聞こえなくなりましたから」
「…ほぅ…?」
 薬売りは手を止めて、辺りの気配を窺うようにする。確かにモノノ怪の気配はある。札が赤いのが証拠。
「大分静かになりました」
 は布団を隅の方に畳んで薬売りの傍に行き座ろうとした。







「きゃあぁぁぁぁぁっ!!」







  突然、女の悲鳴が響いた。
「何!?」
 が廊下側の障子に目を向ける。
 薬売りは立ち上がると、行李を背負って部屋を出た。廊下に並ぶ天秤に変化はない。
「下か…?」
 声の響きから考えて、二階ではなかった。
「今のは」
 が不安そうに部屋から顔を出す。
「行きますよ」
「…はい」
 薬売りは、が頷くのを確認してから足を踏み出した。













 階段を下りると、すぐ傍の部屋の前に、何人か人が集まっていた。
「どうか、なさったんで?」
 薬売りは手近に居た男に聞く。
「どうもこうも…」
 総髪姿の男が、顔をしかめながら場所を開ける。
 部屋の中を見ると、まず目に入ったのは、腰を抜かして障子に寄りかかっている結。その肩は激しく上下している。


  そして部屋の奥にはだらりとくず折れた男が横たわっていた。


「一体どういうわけだ」
 頭を掻き毟りながら苛立っている中年の男。前掛けをしているから宿の者だろう。
「番屋へは?」
 身なりは整っているが、町人体の若い男が言う。
「そ、そんなことしたら…」
 困り果てたように柱にもたれ掛かる女将。
 そんな一同の会話を完全に無視して、薬売りは倒れている男に近付く。
  それでようやくは部屋の中を見ることが出来た。

 倒れている男の口には泡を吹いたのか白いものが付いている。
  目は白目をむき出しにして、その白目は酷く充血している。

 死んでいるのだろう。

 は目を背けて遺体は薬売りに任せ、自分は激しい呼吸を繰り返す結の元へ向かった。
「大丈夫?」
 結の背中をさすって、ゆっくりとした呼吸を促す。
  は、結の目が遺体から離れないことに気付いた。
  顔は青ざめて、うっすらと涙まで出ているのに、そこから視線が外れない。
 は両手で、そっと結の両頬を包み込むと、顔をゆっくり自分に向けさせる。
「結さん」
 しっかりと瞳を覗き込んで名を呼ぶ。
 びくりと肩を震わせて我に返った結は、の顔を見るとぼろぼろと涙を流し始めた。
「お、お食事の…用意ができたから、よ…呼びに、き」
「喋らなくていいから」
  は静かに結を抱きしめてやる。
 死体など見るのは初めてだったのだろう。
 背中をゆっくり擦ってやると、徐々に落ち着きを取り戻してきた。


 結の背中から手を離す瞬間、それは聞こえた。



“結ちゃん…”



 寝る以前まで聞こえていた声と同じ声。
  けれど何処か優しさを感じる声だった。
 は辺りを窺ったが、それが何処から聞こえたものかは分からなかった。


「首を、絞められています」
 薬売りが遺体の様子を調べている。
 その言葉に、皆の視線が遺体の首元に集中する。
「一体誰がこんなこと…」
 町人体の男が漏らす。
「荒らされていないし、物取りじゃあないようだな」
 部屋の中を見渡して総髪の男が言う。
「とにかく番屋へ…」
「ちょっと待ってくださいまし。こんなことが公になっては、こちらが困ります」
 町人体の男の行く手を阻んで、女将がそう言った。
「しかし…」
「お願いします!」
 必死の形相の女将。
 人一人死んでいるのに、宿の体裁を守りたいのだろうかと、は思う。




「…下手人はこの中に居るってことも考えられるな」




「なっ!?」
 前掛け姿の男の言葉に、皆動揺する。







「そうとなっちゃあ、誰もここから出すわけにはいかねぇ」











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2009/11/20