目の前には、夕餉の支度が整えられた。
あれを見た後だというのに、ものを食べられるものか。
は箸にすら手をつけられないでした。
“誰もが怪しい”という男の一声で、番屋へ行くこともせず、遺体の扱いは薄い布で覆うだけとなった。
そして客や宿のものも交えての夕餉。
本来宿の者は別に食事をするものだが、下手人がいるとなっては、と一緒に膳を並べることになったのだ。
「食べなければ、障りますよ」
隣で平然と箸を進める薬売り。
むむむ、と眉間に皺を寄せる。正直、そんな気分ではない。
「なぁ、せっかくだし、自己紹介といかないか? 俺は藤次郎。山向こうの町の問屋の倅だ」
年のころ三十ほどの総髪の男は、やけに明るい声で話した。
「そうですね、互いの名も知らないでは、話が進みません。私は松吾といいます。会津近くで店を開いております」
町人体の若い男は、折り目正しく挨拶をする。
藤次郎のほうが年かさに見えるというのに、落ち着き方が違う。
「随分と遠いところから来なすった。俺は徳治、一応はここの主だ。ほとんど板場からは出ないけどな」
ごりごりと頭を掻きながら、分かりやすい愛想笑いをする。
「で、あんた達は?」
藤次郎が薬売りとを見遣る。
「俺は、ただの、薬売り、ですよ」
ふっと口角を上げるようにする。
皆が名乗っている中、一人だけ名乗らない薬売りは顰蹙を買ったようだ。余り好意的な視線が感じられない。
「すみません、こういう人なんです。私は助手のと申します」
薬売りが非礼な分、が丁寧に挨拶をする。
「で、あの死んだお客は?」
藤次郎が薬売りをいけ好かないというような目で見遣ってから、女将に向き直る。
「弥平さんといいます。うちをご贔屓にしてくれていて…。いいお客さんを亡くしました」
神妙な面持ちで女将が答える。
その言葉に、薬売りは鋭い目つきで女将を一瞥する。
その傍らで、の視線は結に向いていた。
さっきの声は、結を呼んでいた。
あれほど恨みや憎しみが絡まった声だったのに、あの時は違っていた。
それが気になっていた。
「常連さんか…そりゃ商売をするもんにとっちゃあ痛手だな」
藤次郎は他人事のように話す。
「しかし、いくら何でも私達の中に下手人がいるという疑いを持たれては…」
「そりゃあそうだ。俺は今日初めてここに泊まるわけだし」
松吾の言葉に藤次郎は頷く。
「問題なのは初めて泊まるかじゃあない。人を殺せるかどうかじゃあないのかい?」
先ほどの愛想笑いを引き剥がして、徳治が客を睨む。
「何を!?」
「ちょっと、落ち着きは、しませんか」
薬売りは、立ち上がろうとした藤次郎と松吾、徳治を一声で押さえ込んだ。
「娘さん方が、怯えていますよ」
ちらりと、と結のほうを見遣る。
特に怯えていたわけではないのだが、急に視線が集まって咄嗟に怯えた顔を作る。
結は遺体を見たときから変わらぬ青ざめた顔をしていたが、それでも三人には怯えたように見えたのだろう。大人しく座り込んだ。
「下手人は、この中には、いませんよ」
「何故そんなことが分かる」
徳治は、今度は薬売りを睨みつける。
「何れ、分かります」
薬売りは箸を置く。
見ればちらほらと食事を終えたものが居る。は結局手をつけてはいないが。
「ちょっと、水を汲んできます」
そう言って女将が腰を上げて土間へ降りていく。そして桶を片手に戸を開けようとする。
「ん…?」
空振りでもしたように、女将の手は木戸の取手から勢い良く剥がれた。
もう一度手を掛けて、今度は力を込めて引く。
ガタリ。
「ど、どうしたのかしら」
桶を離して今度は両手で戸を揺する。しかし煩く音を立てるだけで、一向に動く気配がしない。
「おい、お芳、どうした」
部屋に居た徳治が障子から顔を覗かせる。
「あ、開かないんですよ、戸が」
困り果てた女将を見て、首を傾げながら徳治が土間に下りてくる。
そして自分も戸に手を掛ける。が…。
「んんんっ…」
男の力でも開かないらしい。
「ダメだ、開かない」
余程力を入れていたのか、徳治は取っ手に掛けた指先を擦っていた。
「よく、見てください」
薬売りは開け放してある障子から、土間に居る二人に視線を送る。薬売りの言葉を受けて、部屋に居るものも皆土間を覗き込む。
「え?」
目を凝らすと、戸板に細い糸のようなものが無数に張り付いている。
更に良く見れば、それは戸だけでなく壁一面に張り巡らしてある。
「これは…蜘蛛の糸か?」
「気持ち悪い!」
徳治と女将は、思わず後ずさりしてそこから離れる。
「この宿は、やけに、蜘蛛の巣が、目に付きますね」
「薬売りさん、これはそんな程度の問題ではないんでは?」
何処かずれている、と言わんばかりに松吾が口を挟む。
「そうだぜ? 蜘蛛の糸なんて切っちまえばいい話だ」
藤次郎は土間に下りると、壁に張り付いている糸を一本掴み取ろうとした。
「お?」
しかし触っても切れることもなければ、弛むこともない。びくともしないのだ。
「本当に蜘蛛の糸か?」
「あちこちで、蜘蛛が、巣を張っていた。可笑しなことでは、ありませんよ」
何処か楽しむような笑みで、薬売りは嗤った。
もちろん誰も納得はしない。
土間にいた三人は不満げな顔をしながら部屋に戻ってきた。
「結! アンタがちゃんと掃除しないからこんなことに…! 蜘蛛は殺しておしまいと言っているでしょう?」
女将の怒鳴り声に、結は身体を震わせた。
「女将さん、今結さんを責めなくても…」
が割って入る。
すると結はに笑いかけて、大丈夫と目配せをしてきた。
「蜘蛛の巣はちゃんと取っています。でも、蜘蛛自体はいつも朝しか見ないので、殺せないんです」
「いつだって殺しておしまい」
「いえ、縁起が悪いから、朝に蜘蛛は殺してはいけないと教えられて」
「…ほぅ…。一体誰に?」
「まさか、あの女…!」
女将と徳治の顔色が変わる。
「いえ。私が小さい頃、まだ家族と暮らしていたときに母から教えてもらいました。あ…でも、お香さんにも、蜘蛛は殺さないほうがいいといわれたので、そうなるかもしれません」
いきり立つ二人に怯える結。
「お香さんってのは?」
藤次郎が小首を傾げながら問う。
「以前、ここで働いていた娘だ」
「死んじまいましたけどね。燕が低く飛んだら雨だとか、ネコが顔を洗うと雨だとか、馬鹿な迷信ばかり言って」
「ですが、私も蜘蛛の巣については、そう教えられましたよ? 私の郷では良くそう言います」
結を庇っているつもりなのか、迷信を庇っているつもりなのか、松吾が言う。
「それに、死んでしまった人のことを悪く言うのは、どうかと思いますよ」
ご尤も。
は心の中で松吾に拍手した。
けれど、蜘蛛の巣の迷信については知らなかったため、何処かの地方の話なのかもしれないと思う。
「その、お香さんとやらは、何故死んだんで?」
薬売りは鋭い視線を投げかける。
「…自害したんですよ。立て続けに人が死んだなんて世間に知られたら、漸く宿が軌道に乗ってきたっていうのに、評判も何もなくなってしまいますよ」
女将は腹立たしげに声を尖らせる。
不意に、藤次郎が低い声を出した。
「評判、ねぇ…」
「な、何ですか」
探るような藤次郎の視線に、女将と徳治は狼狽える。
「まさか、そのお香さんって人が、そうなのかい?」
「何がですか」
「俺は、ある噂を聞いて、それを確かめるためにここに来たんだ」
藤次郎は、女将、徳治、結の順に視線を巡らせてニヤリと笑う。
「それが目当てですか」
女将と徳治は小馬鹿にするような笑みを浮かべて、藤次郎に対抗する。
「いや、ただ確かめに来ただけだ。そのつもりはねぇ」
三人の会話に、残された薬売り、、松吾は付いていけないでいた。
「何の話ですか?」
松吾がちょっと待てと言わんばかりに声を上げる。
は、松吾の問いかけと同時に結の身体が僅かに縮み込んだのが分かった。居た堪れない顔をしている。
何だろう。
「買う、買わないって話だ」
藤次郎がふっと笑った。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
「買う?」
薬売りが問う。
その問いかけに覆いかぶさって、声が聞こえた。
“許さない…! 許さない!!”
突然叫びだした声は、の耳を劈いた。
それだけでは足りないとばかりに、大きな津波のように押し寄せてきて、の顔色は瞬く間に青ざめていった。
は思わず隣に座っている薬売りにしがみつく。
「さん…?」
薬売りはを支えると、気配を感じて土間に目を遣った。
「―来たか!!」
見れば、土間に大きな蜘蛛。
足の関節一つの長さが、人間の背丈ほどもありそうなくらい巨大な蜘蛛。
シュウシュウと音をたてて、身体を上下して呼吸をしているようだ。
「何だ、あれは!!」
「きゃあぁぁぁ!」
一同に悲鳴を上げて、壁にひっつくように退く。
薬売りが数歩前に立ち、札を構える。
「ぎゃあぁ!!」
更なる悲鳴に薬売りは女将と徳治を振り返る。
何処からともなく伸びてきた幾本もの白く細い糸の束が二人の喉に巻きついて、徐々に絞り上げているのが分かった。
糸を切るためなのか、単に苦しんでいるのか、血相を変えて首元を爪で引っかく二人。
薬売りは二人に伸びる糸に札を放つとともに、蜘蛛本体にも投げつけた。
糸は容易に千切れ、蜘蛛は札に驚いたのか、後ずさるような動きを見せて消えた。
安堵と溜め息が漏れる中、薬売りは両手を土間の方に翳して、何かを掴むように指に力を入れた。それから勢い良く両手を重ねるようにする。
すると部屋の障子がスパン、と音を立てて勝手に閉じた。
閉じた障子には札が飛んでいく。
は、声が遠ざかっていくのを感じて、それと同時に気分の悪さも軽くなっていった。
女将と徳治が激しく咳き込んで、それが収まると暫く無音になった。
「い、今のは…」
たっぷりと沈黙を味わってから、松吾が声を上げた。
「モノノ怪、ですよ」
「まさか…弥平って奴を殺したのは」
藤次郎が音を立てて生唾を飲み込む。
「モノノ怪、ですよ」
皆、へなへなと床に座りこんで再び沈黙する。
「さて、何から、お聞きしましょうか」
「聞くって、何をだい?」
女将が怪訝そうな顔をして薬売りを睨みつける。
「先ほどのモノノ怪の、“真”と“理”、ですよ」
女将の視線など気にも留めず、薬売りは藤次郎と松吾を見遣った。
「あなた方は、何故、この宿に?」
この町に、宿はいくらでもある。
何もこんな町の外れの流行りもしない宿を選んでとまる必要があるのだろうか。
もちろん、それは薬売りとについてもそうなのだが、二人が宿を探し始めたのは夕刻近くのこと、何処も部屋は空いておらず、この宿に行き当たったのである。
「私は、実は人を探しておりまして、宿を転々としながら町中を探し歩いて、ここに行き着きました」
松吾は、思いつめたような顔をする。
「俺はさっき言った通りだ」
藤次郎の言葉に、再び店側の三人が表情を変える。
「この店で、女が買えるって噂を確かめに来た」
何を…。
は酷い嫌悪感を覚えた。
ちらりと結の方をみると、泣き出しそうな顔をして自分の身体を抱きこんでいる。
「…ほぅ…」
薬売りの視線は女将と徳治に移る。
「…店を繁盛させるためだったんだ…」
ぽつりと徳治が言った。
「お香は良く働く娘だったが、器量良しでな。あるときお客が宿代よりも多く金を置いていった…それで…」
いつまでも仕事に出てこない香の代わりに、その客が泊まった部屋の掃除に行って、布団の中で丸くなって泣きじゃくる香を見つけた。
「可哀相だとは思ったけどね、あれじゃあの娘も嫁になんて行けないだろうから…」
女将が拗ねたような口をきく。
「そんな、馬鹿な…」
松吾が信じられないとばかりに顔を歪める。
「だから、“もう、いや”…?」
は、汚いものでも見るかのような歪んだ顔で女将達を見る。
「痛い、苦しい、酷い…。許さない」
いくつもの感情が綯い交ぜになったあの声の意味が、分かった気がした。
「酷い…。ここは遊郭じゃないでしょう? どうしてただの、堅気の町娘にそんなこと…!」
必死に涙を堪える。
の隣で、結は俯いて肩を震わせている。
「…お香さんは、それが辛くて自害したの…!!」
NEXT
こんなん書いていいのかな…
ちなみに松吾は「しょうご」と読みます。
2009/11/20