やけに長い沈黙が続いて、誰もが声を上げること、身じろぎすることすら躊躇った。
その沈黙を破ったのは、奇怪な音だった。
シュル、と何かが擦れる音。
何の音かと、皆が部屋のあちこちを見回す。
「!!」
薬売りが気配に気付いて土間側の障子に向って身構える。
障子に貼った札が、赤く色を変えていく。
それどころか、モノノ怪の力に負けて、端の方から灰のように舞っていく。
と―。
バキバキと派手な音を立てて、障子が四枚見事に吹き飛んだ。
姿を現したのは、先ほどの巨大な蜘蛛。細く白い糸がゆるゆると無数に宙に漂っている。
「きゃああ!」
すぐ傍にいた結が頭を抱えて蹲る。
薬売りたちから結を隔離するように、蜘蛛の足が一本、結の目の前に突き立てられた。
「結さん!」
「ダメだ」
飛び出していきそうになるの腕を、薬売りが掴む。
巨大な蜘蛛は前傾するように前側の足を折って、その八つの目で女将達を睨むように見ている。
「な、何だっていうんだよぉ」
「俺達が…何をしたってんだ」
女将と徳治が震え上がる。
「じょ、冗談じゃないぜ」
藤次郎は後ろ手に隣の部屋への襖を開けようとしているが、モノノ怪の力なのか微塵も動かない。
おたおたする皆をあざ笑うかのように、蜘蛛の目がギラリと光る。
そして宙を漂っていた糸が更に増殖して、目にも留まらない速さで伸び、女将と徳治を捕らえた。
「っ!!」
悲鳴も出ないうちに、糸が巨大な繭玉を作り上げる。
「どうにかならないのですか!?」
あれでは息が出来ない。もしかしたら、あの繭の中で首を絞められているかもしれない。
松吾は、薬売りに問いかける。
「ならないことは、ないですがね」
剣を抜くための条件は、揃っている。しかし、何処か腑に落ちない。
けれど、何れ蜘蛛の糸は薬売りたちにも伸びてくるだろう。
薬売りは剣を構えた。
「モノノ怪の“形”は、女郎蜘蛛」
カチン。
「身体を売ることを強要され、心と身体を踏みにじられた」
カチン。
「その恨み辛み、痛みがモノノ怪を為した」
―。
獅子頭は、ならない。
「なんで…」
は呆然と薬売りと剣を見つめる。
「やはり、足りない」
険しい顔をして、薬売りが剣を下ろす。
それと同時に、糸の大群が部屋に充満した。
「うわぁっ」
藤次郎なのか松吾なのか分からない、くぐもった悲鳴がする。
「きゃぁ!」
糸の束が身体に巻きついて来て、も短く叫ぶ。
「破ッ!」
それよりも短い声とともに、の視界に黄金の札が流れ込んできた。
そして視界が金から青に変わる。
見上げれば。
「薬売りさん…?」
すぐそこに、薬売りの顎があった。
薬売りの左耳の前から垂れた毛束が、顔に当たってくすぐったい。
「守ると、言いましたから」
「え…あの…っ」
何か言おうとしたが、あることに気付いて言えなくなった。
薬売りの左腕が、の背中を強く引き寄せている。
守るためだとしても、この上なく恥ずかしい状態。
「何かが、足りない」
薬売りの低い声で、は我に返る。
そんなことを、気にしている場合ではない。
剣を抜くには、何かが足りない。それを見つけなければいけない。
それが出来るのは、自分しかいない。
は、目を閉じて集中する。
こちらからこの世ならざるものの声を聞きに行くために。
何もない。
ただ、真っ白な空間。
それだけ。
その真っ白な中、何かが聞こえた。
“…ちゃん”
“結ちゃん”
木の下に、こちらに背を向けて、女が立っている。
“ごめんね”
ぽつりと呟く。
“貴女には、私のような思いはさせたくない…”
俯いて、女はか細い声を出す。
“…だけど…”
女は、いつの間に木の枝に掛かった紐を掴んで。
いつの間に踏み台に上って。
いつの間に白装束になって。
いつの間に髪を下ろして。
そして…。
「―!!!」
「さん!」
その光景を見た瞬間、思わず薬売りにしがみついていた。
「あ…」
驚いたように目を開けると、薬売りがじっとを見ていた。
周りは相も変わらず金の札と白い糸の繭。
「今、一瞬…」
見えた。
聞こえただけではない。
見えた。
「何が、聞こえましたか」
その声で我に返って、はやっと薬売りの目を見返した。
「香さんは…守りたかったんです」
「守る?」
「結さんを、自分のような目に遭わせたくなかったんです!」
カチン。
薬売りは自分の声ではないのに退魔の剣が反応したことに驚いた。
しかし、それは瞬間的なこと。
すぐに剣を頭上に掲げた。
視界が金に染まって、は眩しくて目を閉じた。
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2009/11/23