天気雨の夜

女郎蜘蛛〜五の幕〜








 やけに長い沈黙が続いて、誰もが声を上げること、身じろぎすることすら躊躇った。


 その沈黙を破ったのは、奇怪な音だった。
 シュル、と何かが擦れる音。
 何の音かと、皆が部屋のあちこちを見回す。


「!!」


 薬売りが気配に気付いて土間側の障子に向って身構える。
 障子に貼った札が、赤く色を変えていく。
  それどころか、モノノ怪の力に負けて、端の方から灰のように舞っていく。


 と―。


 バキバキと派手な音を立てて、障子が四枚見事に吹き飛んだ。


 姿を現したのは、先ほどの巨大な蜘蛛。細く白い糸がゆるゆると無数に宙に漂っている。
「きゃああ!」
 すぐ傍にいた結が頭を抱えて蹲る。
 薬売りたちから結を隔離するように、蜘蛛の足が一本、結の目の前に突き立てられた。
「結さん!」
「ダメだ」
 飛び出していきそうになるの腕を、薬売りが掴む。
 巨大な蜘蛛は前傾するように前側の足を折って、その八つの目で女将達を睨むように見ている。
「な、何だっていうんだよぉ」
「俺達が…何をしたってんだ」
 女将と徳治が震え上がる。
「じょ、冗談じゃないぜ」
 藤次郎は後ろ手に隣の部屋への襖を開けようとしているが、モノノ怪の力なのか微塵も動かない。
 おたおたする皆をあざ笑うかのように、蜘蛛の目がギラリと光る。
 そして宙を漂っていた糸が更に増殖して、目にも留まらない速さで伸び、女将と徳治を捕らえた。
「っ!!」
 悲鳴も出ないうちに、糸が巨大な繭玉を作り上げる。
「どうにかならないのですか!?」
 あれでは息が出来ない。もしかしたら、あの繭の中で首を絞められているかもしれない。
 松吾は、薬売りに問いかける。
「ならないことは、ないですがね」
 剣を抜くための条件は、揃っている。しかし、何処か腑に落ちない。
 けれど、何れ蜘蛛の糸は薬売りたちにも伸びてくるだろう。
 薬売りは剣を構えた。


「モノノ怪の“形”は、女郎蜘蛛」


 カチン。


「身体を売ることを強要され、心と身体を踏みにじられた」


 カチン。


「その恨み辛み、痛みがモノノ怪を為した」


 ―。


 獅子頭は、ならない。
「なんで…」
 は呆然と薬売りと剣を見つめる。
「やはり、足りない」
 険しい顔をして、薬売りが剣を下ろす。
 それと同時に、糸の大群が部屋に充満した。
「うわぁっ」
 藤次郎なのか松吾なのか分からない、くぐもった悲鳴がする。
「きゃぁ!」
 糸の束が身体に巻きついて来て、も短く叫ぶ。
「破ッ!」
 それよりも短い声とともに、の視界に黄金の札が流れ込んできた。
 そして視界が金から青に変わる。


 見上げれば。


「薬売りさん…?」


 すぐそこに、薬売りの顎があった。
 薬売りの左耳の前から垂れた毛束が、顔に当たってくすぐったい。
「守ると、言いましたから」
「え…あの…っ」
 何か言おうとしたが、あることに気付いて言えなくなった。
 薬売りの左腕が、の背中を強く引き寄せている。
 守るためだとしても、この上なく恥ずかしい状態。
「何かが、足りない」
 薬売りの低い声で、は我に返る。
 そんなことを、気にしている場合ではない。
 剣を抜くには、何かが足りない。それを見つけなければいけない。
 それが出来るのは、自分しかいない。
 は、目を閉じて集中する。
 こちらからこの世ならざるものの声を聞きに行くために。


















  何もない。











  ただ、真っ白な空間。











  それだけ。













 その真っ白な中、何かが聞こえた。












“…ちゃん”











“結ちゃん”










 木の下に、こちらに背を向けて、女が立っている。




“ごめんね”




 ぽつりと呟く。




“貴女には、私のような思いはさせたくない…”




 俯いて、女はか細い声を出す。




“…だけど…”




 女は、いつの間に木の枝に掛かった紐を掴んで。
 いつの間に踏み台に上って。
 いつの間に白装束になって。
 いつの間に髪を下ろして。







 そして…。







「―!!!」
さん!」
 その光景を見た瞬間、思わず薬売りにしがみついていた。
「あ…」
 驚いたように目を開けると、薬売りがじっとを見ていた。
 周りは相も変わらず金の札と白い糸の繭。
「今、一瞬…」
 見えた。
 聞こえただけではない。
 見えた。
「何が、聞こえましたか」
 その声で我に返って、はやっと薬売りの目を見返した。
「香さんは…守りたかったんです」
「守る?」
「結さんを、自分のような目に遭わせたくなかったんです!」


 カチン。


 薬売りは自分の声ではないのに退魔の剣が反応したことに驚いた。
 しかし、それは瞬間的なこと。
 すぐに剣を頭上に掲げた。
  視界が金に染まって、は眩しくて目を閉じた。















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2009/11/23