天気雨の夜

〜大詰め〜











 真っ白な中、何かが聞こえた。








“ほら、もっと良く絞らないと、びしょびしょになっちゃうわよ?”
“はぁい。でも…ぎゅっ、て出来ないの…”
“こうやるのよ”






“蜘蛛はね、殺してはいけないの”
“知ってる! おっかさんも言ってた!”
“じゃあ、忘れちゃダメよ”
“うん!!”






“ねえさま、大丈夫? どこか痛いの?”
“大丈夫よ。心配しないで”










 貴女には、こんな想い、させたくない。
 こんなことで、穢れてはいけない。
 だけど、もう限界なの。
 もう…、イヤなの…。






 ごめんね、結ちゃん…。













 薄っすらと目を開けると、視界は青に戻っていた。
 あんなに不快だった声は、最後は哀しみの色だけになって、消えていった。


さん」


 頭のすぐ上から声がした。
 ゆっくり見上げれば、薬売り。
「え…あ…ごめんなさい!」
 自分が薬売りの胸にもたれ掛かっていることに気付いて、反射的に身を捩って離れる。
  けれど、薬売りとの間に距離が出来ても、薬売りはの背中から手を離さない。
「薬売りさん?」
「…貴女の、お陰です」
 薬売りはそう言って、軽くの髪を撫でてから立ち上がった。
 その行動に、ドキリとした。
 けれど、すぐに我に返る。
 ゴホゴホと酷く咳き込む音が聞こえて、は漸く周りを見た。


「何だったんだ、全く!」
 藤次郎は、首に手を当てながら吐き捨て、そのまま何処かへ逃げていった。
 薬売りもも、冷ややかな目で藤次郎を見送った。


 松吾は左腕を力なくだらりと垂らしながらも、床の上に横たわる女将と徳治の首に順に手を当てる。
 二人の首には、赤い痣が出来ていて、首を絞められたのだと分かる。
「…ダメです…」
 首を横に振って、二人が死んでいることを告げる。


「う…っ」
 部屋の端の方から、呻く声が聞こえてきた。
「結さん!!」
 が駆け寄って抱き起こすと、結の髪から櫛が落ちた。


「…お香さん。お香さんが、守ってくれた…」


 泣き崩れる結を、抱きしめてやる。
「私、今夜にも…」
「言わなくていいから…」
 そうして結が落ち着くまで、は背中をさすってやった。



「あの、この櫛…」



 言い難そうに、小声で問いかける声があった。
 松吾が結の櫛を手に、傍まで来ていた。
「私の櫛です」
 泣きはらした顔で、結がそれを受け取る。
「これを何処で?」
「何処でというか、郷を出るときに母が持たせてくれたものらしいとしか…」
「あの、実は…」
 そう言って松吾が懐から取り出したのは綺麗に畳まれた手拭。
 それを丁寧に開くと、女物の櫛が出てきた。
「これって…!」
 は思わず声をあげた。
 薬売りが遠くからちらりと三人を見る。
「どうして、お客さんがこれを?」
 結は腫れぼったい目を見開いて、震えた声を出す。
「私の母のものです。妹を探すなら、これと同じものを持っているからと、旅に出る私に預けてくれました」
「…え…」
 優しく微笑む松吾とは対照的に、結は更に驚いた顔をする。
 二人が手に持っているのは、同じ模様の櫛。
「これは、妹が生まれたときに、母と娘、同じ櫛を挿したいと思ってわざわざ注文して誂えたものなんです」
 同じものは、この二つだけということ。
「どうして…」
「私の家は粉屋をしていましたが、私が十の頃、取引先に騙されて借金を作ってしまい一家離散しました」
 松吾は隣町に住み込みで奉公、両親も別々な店で働いた。まだ幼かった娘は僅かな金と引き換えに無理矢理何処かへ連れて行かれた。
 そうして十年掛けて借金を返し、店の再建を果たしたのだ。
 そして家族の気がかりは売られていった娘のこと。必死になって探していたという。
「探したよ、“ゆう”」
「ゆう…?」
「“結”と書いて、“ゆう”と読むんだ」
「兄様…?」
 目に涙を溜める松吾。ぽろぽろと再び泣きだす結。
 も、信じられないという顔で二人を見ている。
「お香さんに、感謝しなければならないね」
「はい、兄様」


















 とっぷり暮れ果てて、二人が訪ねたのは遅くまで開いている居酒屋だった。
 泊まるところがないと言うと、店を閉めたときに片づけをすれば座敷で寝てもいいと言われ、二人は仕方なく引き受けてどうにかその夜の宿とした。


 行灯の火が、ゆらゆらと陰を躍らせている。
「良かったですね、結さん。まさか松吾さんがお兄さんだったなんて」
「そう、ですね」
 座卓に両肘をついて頬杖をつくは、満面の笑顔。
 薬売りは少し離れたところで、座卓を壁に立て掛けている。横になる場所を作らなければいけないのだ。
「あの、薬売りさん」
 急に神妙な面持ちになったが、横目で薬売りを見る。
「なんですか」
「ありがとうございました」
「何が、ですか」
「守っていただいて」
 恥ずかしそうに、身体を前後に揺らす。
「守ると、言ったはずですよ」
「じゃあ、それを疑ってすいませんでした」
「いいですよ」
「でも…」
「分かって、くれたのでしょう?」
 口角を上げて、目を細める。この場合、確実に笑っている。
 は、はにかみながら、はい、と答えてから、少しだけ俯いた。
「私は、恵まれてますね」
「?」
「母が亡くなって一人になった私を、近所の人たちは励ましてくれて…。それまで奉公してた蕎麦屋の旦那さんもそのまま働かせてくれたし」
 薬売りは、がどんな人生を辿ってきたのか、知らない。少しだけ、興味をそそられる話だった。
「もし、悪い人が一人でもいたら、きっと私は今こうしてここに居られないと思うんです。身売り話が出てきても可笑しくなかったし、早々に嫁に行けと言われても可笑しくなかった」
 でも、町の人たちは皆、自分を応援してくれた。
「旅に出る時だって、いつでも戻って来いって」
 少しだけ、声が震える。
「皆、優しかった」
「そう、ですか」
「薬売りさんも、ですよ」
 へらりと笑うに、薬売りは小首を傾げる。はて、と聞こえてきそうな顔だ。
「薬売りさんも、優しいです」
 旅に誘ってくれて、話を聞いてくれて、守ってくれて。
 薬売りは、不意打ちを食らったように僅かに驚いてから、いつもの笑い方をする。
「…ほぅ…」
「な、何ですか」
「いえ」
 ただ静かに笑う薬売りに、の方が恥ずかしくなる。
「さて、俺はもう、寝ますよ」
「え、そんな急に」
 薬売りは、早々と一列に並べた座布団の上に寝転がる。
「わ、私も寝ます!」
  は慌てて行灯の火を消した。
















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女郎蜘蛛、もうちょっとお付き合いください。
お暇でしたらあとがきっぽい独り言もどうぞ。

2009/11/29