天気雨の夜




火車
〜序の幕〜






 青々とした畳の上に、沢山の薬や香、用途不明のものがいくつも並んでいる。
 上品な橙の着物を纏った娘は、見た事のないそれらを、好奇の目で眺めていた。

「これは、どんな香りがするのです?」
「甘い香りで、身体が楽に」
「これは?」
「少々青臭いですが、痛みを、緩和すると」

 薬売りの答えを、目を輝かせて聞いている娘。
 この屋敷の一人娘、楓だ。
 は、そのやりとりを嬉しそうな顔で眺めながら、けれど、密に楓の様子を窺っていた。

「お安く、しておきますよ」
「まぁ、本当?」

 嬉しそうな顔をしてから、傍に控える老婆へ視線を向ける。

「テル、どうかしら?」
「それなりの物のようですが…」

 白髪混じりの老婆は、屈んで薬売りが並べた商品を値踏みしていた。

「嫁入り前には、何かと、物入りでしょう」

 薬売りが口角を上げると、楓はふわりとはにかんだ。
 は少々焦って楓の視線の先を窺う。
 けれど、どうやら楓は、薬売りにではなく、嫁ぐ相手のことを思ってはにかんだらしい。

「本当に、お幸せそうですね」

 にこりとが微笑みかける。

「はい、とても」

 それに頬を染めて頷く楓からは、モノノ怪の気配など、微塵も感じ取れなかった―。






 昨晩遅くのこと。
 薬売りとは二人、の働く湯屋から宿へと帰るところだった。
「もうすっかり冷え込むようになりましたね」
 低い空を見上げたは、試しにハッと息を吐き出してみた。
 けれど、白く染まることはなかった。
「まだまだ、これからってぇ所ですよ」
 答えて、薬売りはに向けていた視線を道の先に戻した。

「…」

 突き当たって左右に分かれている道。
 その右へと折れたほうが、ぼんやりと明るいことに気付いた。

「こんな時分に何でしょう?」

 もそれに気付いたようだ。
 顔を見合わせてから、ゆっくりと其方へ歩き出す。

「夜警か何かでしょうか」
「それにしちゃあ…」

 やけに明るい。
 手元の提灯と見比べる。
 提灯の灯がどれくらい集まればあの明るさになるだろう。

 灯りの正体が何なのか。
 二人は極力気配を殺して進んだ。


“…こ”


「…っ」


 何か聞こえたような気がして、は足を止めた。
 薬売りがそれに気付いて、の様子を窺う。


“…”


 はその何かに集中する。
 それから二人はゆっくりと歩を進めていった。

 薬売りは塀を背にして、自分の肩越しに曲がった先を覗く。
 その袖に張り付くように、も恐る恐る覗き込んだ。

「成程…」

 小さく薬売りが言った。

 二人の視線の先、長く続く塀に小さく設けられた裏門。
 その辺りに鬼火が揺らめいている。
 その数は一つ二つではない。
 夥しい数の鬼火が門を取り巻いている。
 明るくなっていたのも頷ける。

 鬼火ひとつひとつが、一尺から二尺ほどの長さ。
 外側は赤く、中心ほど白くなっている。
 頭上に煙を燻らせて、ゆらゆらと彷徨っているよう。

 二人は暫く、そのまま様子を窺っていた。


“…いない…”

 はっきりと聞こえた声に、は鬼火から視線を外した。
 その声は、今見えている鬼火からではなかった。

“何処にいるの?”

 細い女の声。
 はその声の出所を探った。

“何処?”

 何かを探している声。
 絶えず聞こえてくる声を意識で追う。


「…この塀の向こう…?」


 道沿いに続く塀の奥、つまりは裏門の中から発せられていと検討をつけた。
 薬売りは塀の向こうの気配を探り、は声に集中した。

“何処にいるの?”

 その声に、はハッとする。
 さっきよりも近い。

 は鬼火の方へと視線を戻す。
 薬売りは何事かとそれに倣う。
 見れば、裏門から鬼火が次々と出て来ている。
 音もなく流れるように大量の鬼火が姿を現す。

 鬼火だらけだ。

 鬼火は何かを待っているかのようにそこに留まった。
 やがて姿を現したのは、一人の女だった。
 無数の鬼火に照らし出された女。
 この距離では顔は分からないが、まだ若いと見える。
 ゆっくりとした歩調で門から出てくる。
 背筋はピンとしているのに、何処か頼りない雰囲気を纏っている。

「あの人の声です」

 本人の声を聞かずとも分かる。

「何と、言っているんで」
「何処にいるの、と」

 ほぅ、と感心したような声を出して、薬売りは女を見遣った。

「あれは…」

 薬売りは、女の両手が汚れている事に気付いた。
 白い手が土に塗れ、着物の袖や裾も茶色くなっていた。
 けれど、女はそれを気に留める風はまったくない。

“何処にいるの…?”

 その声を最後に、女は二人が居る方とは逆へと歩いていった。
 鬼火たちは、女を守るように、その周囲を漂い続けた。




 二人はある程度の距離を置いて、その後を追った。
 そうして、女が入っていった屋敷を、翌日になって訪ねたのだった。
















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苦し紛れに長編再開です…


2012/9/16