火車
〜十の幕〜







「!?」





 突然、腕に重みを感じて、は現実に引き戻された。
 見れば、意識を取り戻したらしい楓がを見上げていて、泣き出しそうな顔での腕を掴んでいた。
「楓さん…」
「ねぇ、陽一郎様は何処なの?」
「…っ」
 は堪らず楓を抱きしめていた。
さん…?」
 すると、徐々に鬼火が無くなっていった。


さん!」


 足音が近付いてきたと思うと、部屋に薬売りが駆け込んできた。
 は楓を起こしてから立ち上がり、薬売りの元へ向かう。
「突然、鬼火がなくなりましたよ。何か、あったんで」
「多分、楓さんが正気に戻ったから…」
 ちらりと楓を見遣る
 楓は、どうした事かと二人を見つめている。

「楓! 無事か!?」

 そこへ正信とテルが到着する。
 正信はすぐさま楓に駆け寄って、安否を確かめる。
「何があったのだ、楓。何故あんな姿に…」
「…何のこと?」
「何…とは…」
 意識を失っている間の事は、何一つ覚えていないらしい。
 は、狼狽える正信に声を掛けた。

「梓、とは、誰ですか?」

 その声に、正信はピタリと動きを止めた。
 そうして険しい顔でを振り返った。
 薬売りも、突然のことにを注視する。

「何故、知っている」

「そんなこと、今は問題じゃありません。楓さんを、何故“梓”と呼ぶんですか?」

 は正信の疑問をピシャリと跳ね除ける。

「お前…っ」

 正信は見開いた目でを睨みつけた。
 楓は、何処か居心地が悪そうにしている。

「…私も、ずっと不思議に思っていました。ある時から、お父様は時折私のことを“梓”と呼ぶようになって…。どうして私をそう呼ぶのか。だって、“梓”は…私の本当の母さま…」


 縋るような目で正信を見上げる楓。
 正信はその視線を、不気味な微笑で受け止めた。


「梓、だからだよ、お前は」


「え…?」


「まるで生き写しだ、梓の…」


「…どういうこと? どうして、お父様が、母さまを…」


 楓は愕然とする。
 薬売りとも、その言葉の異様さに息を呑む。



「梓は、私が十代の若い時分から慕っていた女子だ」



 まだ正信が十四になったばかりの頃、父親に連れられて行った父親の友人の屋敷。
 そこで出迎えてくれた娘に目を奪われた。
 色白で、大きな瞳が印象的だった。口角が上がって、とても綺麗な笑顔を湛えていた。
 それが、梓だった。

 その後も何度かその屋敷へ行って、その度に出迎えられた。
 やがて正信は梓に想いを寄せるようになった。
 少しずつ話も出来るようになって、正信は何れは嫁に、と勝手に考えるほどだった。
 自分より三つばかり年上だったけれど、だからと言ってまだ年増というほどの年齢でもなく、問題はなかった。

 けれど、暫くして梓は嫁いでしまった。

 相手は、樫山家など遠く及ばないほど上位の武家だった。

 正信の落胆振りは相当だったが、石高が物を言う武家社会。諦めざるを得なかった。

 梓は嫁いだ翌年子を産んだと聞いた。

 そして数年後、正信自身も、嫁を取った。



「けれど、梓の夫と言うのが、酷い男だったのだ…」


 遊郭へ足しげく通うほどの遊び人で、妾も何人か囲っていた。
 挙句、子が生まれてからは梓から離れていった。

 その男にとって、梓と言うのは親が決めた結婚相手だった。
 家を守るにために、梓の“家”を選んだ。
 その為、その男にとって思い入れはなかったし、思い入れを持つ事は出来なかったのである。
 そして親が亡くなるとすぐ、梓を軽んじ始め、蔑ろにした。

 梓は耐え切れず、暫く実家へ戻りたいと申し出た。
 男は、ここぞとばかりに離縁を提案したのだった。


 結局、梓は離縁したが実家には戻れず、子を連れて慎ましく生きる事を選んだ。
 けれど無理が祟って、梓は娘一人遺して、亡くなった。

「事情は噂話程度にしか知らなかったが、私は、密にその娘を探したのだ」

 長年子宝に恵まれなかった自分たちが養子を探すのは当然のこと。
 自分たちの望むような子であれば、男女は問わない。
 そう、話し合った。




 そうして見つけた。


“この子にしよう”


 いや、この子でなければならない。




 引き取った娘は、違うことなく梓の娘だった。
 成長するにつれその面影は重なり、声色も似てきた。
 可愛くて可愛くて、仕方が無かった。


「きっかけは、弥生が亡くなった事だった」

「お母様…?」

 正信の告白に、楓は正信から距離を置くように壁にすがり付いている。
 そして、その楓を労わるようにテルが傍に控える。


「弥生が居なくなった事で、私の中で歯止めが利かなくなった」





「私は、やっと梓を手に入れたのだ」





 正信が、醜い笑みをしてみせた。




















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2012/11/18