「!?」
突然、腕に重みを感じて、は現実に引き戻された。
見れば、意識を取り戻したらしい楓がを見上げていて、泣き出しそうな顔での腕を掴んでいた。
「楓さん…」
「ねぇ、陽一郎様は何処なの?」
「…っ」
は堪らず楓を抱きしめていた。
「さん…?」
すると、徐々に鬼火が無くなっていった。
「さん!」
足音が近付いてきたと思うと、部屋に薬売りが駆け込んできた。
は楓を起こしてから立ち上がり、薬売りの元へ向かう。
「突然、鬼火がなくなりましたよ。何か、あったんで」
「多分、楓さんが正気に戻ったから…」
ちらりと楓を見遣る。
楓は、どうした事かと二人を見つめている。
「楓! 無事か!?」
そこへ正信とテルが到着する。
正信はすぐさま楓に駆け寄って、安否を確かめる。
「何があったのだ、楓。何故あんな姿に…」
「…何のこと?」
「何…とは…」
意識を失っている間の事は、何一つ覚えていないらしい。
は、狼狽える正信に声を掛けた。
「梓、とは、誰ですか?」
その声に、正信はピタリと動きを止めた。
そうして険しい顔でを振り返った。
薬売りも、突然のことにを注視する。
「何故、知っている」
「そんなこと、今は問題じゃありません。楓さんを、何故“梓”と呼ぶんですか?」
は正信の疑問をピシャリと跳ね除ける。
「お前…っ」
正信は見開いた目でを睨みつけた。
楓は、何処か居心地が悪そうにしている。
「…私も、ずっと不思議に思っていました。ある時から、お父様は時折私のことを“梓”と呼ぶようになって…。どうして私をそう呼ぶのか。だって、“梓”は…私の本当の母さま…」
縋るような目で正信を見上げる楓。
正信はその視線を、不気味な微笑で受け止めた。
「梓、だからだよ、お前は」
「え…?」
「まるで生き写しだ、梓の…」
「…どういうこと? どうして、お父様が、母さまを…」
楓は愕然とする。
薬売りとも、その言葉の異様さに息を呑む。
「梓は、私が十代の若い時分から慕っていた女子だ」
まだ正信が十四になったばかりの頃、父親に連れられて行った父親の友人の屋敷。
そこで出迎えてくれた娘に目を奪われた。
色白で、大きな瞳が印象的だった。口角が上がって、とても綺麗な笑顔を湛えていた。
それが、梓だった。
その後も何度かその屋敷へ行って、その度に出迎えられた。
やがて正信は梓に想いを寄せるようになった。
少しずつ話も出来るようになって、正信は何れは嫁に、と勝手に考えるほどだった。
自分より三つばかり年上だったけれど、だからと言ってまだ年増というほどの年齢でもなく、問題はなかった。
けれど、暫くして梓は嫁いでしまった。
相手は、樫山家など遠く及ばないほど上位の武家だった。
正信の落胆振りは相当だったが、石高が物を言う武家社会。諦めざるを得なかった。
梓は嫁いだ翌年子を産んだと聞いた。
そして数年後、正信自身も、嫁を取った。
「けれど、梓の夫と言うのが、酷い男だったのだ…」
遊郭へ足しげく通うほどの遊び人で、妾も何人か囲っていた。
挙句、子が生まれてからは梓から離れていった。
その男にとって、梓と言うのは親が決めた結婚相手だった。
家を守るにために、梓の“家”を選んだ。
その為、その男にとって思い入れはなかったし、思い入れを持つ事は出来なかったのである。
そして親が亡くなるとすぐ、梓を軽んじ始め、蔑ろにした。
梓は耐え切れず、暫く実家へ戻りたいと申し出た。
男は、ここぞとばかりに離縁を提案したのだった。
結局、梓は離縁したが実家には戻れず、子を連れて慎ましく生きる事を選んだ。
けれど無理が祟って、梓は娘一人遺して、亡くなった。
「事情は噂話程度にしか知らなかったが、私は、密にその娘を探したのだ」
長年子宝に恵まれなかった自分たちが養子を探すのは当然のこと。
自分たちの望むような子であれば、男女は問わない。
そう、話し合った。
そうして見つけた。
“この子にしよう”
いや、この子でなければならない。
引き取った娘は、違うことなく梓の娘だった。
成長するにつれその面影は重なり、声色も似てきた。
可愛くて可愛くて、仕方が無かった。
「きっかけは、弥生が亡くなった事だった」
「お母様…?」
正信の告白に、楓は正信から距離を置くように壁にすがり付いている。
そして、その楓を労わるようにテルが傍に控える。
「弥生が居なくなった事で、私の中で歯止めが利かなくなった」
「私は、やっと梓を手に入れたのだ」
正信が、醜い笑みをしてみせた。
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2012/11/18