屋敷を訪ねてから、どれほど時間が過ぎたのか、大分日が傾いた。
斜陽が差し込み、障子越しでも外が赤く染まっていると分かる。
その光を受けて淡く染まる部屋。その内周には整然と天秤が並んでいる。
薬売り、、それにテルの三人は、天秤で作られた輪の中に坐している。
「本当に、鬼火を退治できるんでしょうね」
テルは薬売りを睨んだ。
「力は、尽くしますよ」
「そんな曖昧な…」
「これ以上、鬼火に苦しみたくは、ないでしょう」
「…わかりました」
「私が鬼火を初めて見たのは、二月ほど前のことです」
ある、夜のことだった。
一通りの仕事を全て終えて、その日の暇を申し出るために正信の部屋を訪ねた。
廊下を歩いていて気付いた。
正信の部屋がいつもより明るく、その光源はゆらゆらととても不安定のようだった。
そして、部屋からは何やら慌しく動き回るような音が聞こえてくる。
「旦那様? テルにございます」
声をかけると、その光源の揺らめきが止まった。
「は、入るな! 今日はもう下がっていいぞ」
正信の声は、いつもの落ち着いたものではなかった。
よくよく様子を窺うと、バタバタと何かを叩くような音。
そして障子が、風を受けたように震えている。
火を消そうとしているのか。
「旦那様!!」
命に背いて、テルは障子を開けた。
「…なっ!?」
部屋の中では、いくつもの鬼火が正信を取り巻くように漂っていた。
そして、テルが現れた為なのか、鬼火はふっと消えてしまった。
「旦那様…、今のは」
「分からん、分からんのだ…」
正信は頭を抱えて項垂れていた。
「その様子からすると、旦那様の部屋では既に何度か…」
そして、それを案じたテルが、正信に魔除けの護符を与えたのだという。
「二月も…」
「鬼火は、決まって旦那様の前に現れるのです。旦那様の部屋に限らず、旦那様がお一人でいらっしゃるときに」
「その頃、正信様に何か変わったことは」
「…特に、思い当たる事は…」
テルは軽く頭を振ってから俯く。
「では、楓さんには」
「お嬢様ですか?」
正信の事なのに、何故楓の事を聞くのかとテルは首を傾げる。
「実は先日、楓さんを、お見かけしましてね」
「お嬢様を? 何処で?」
「通り向こうの、寺の辺りで」
昨日の夜、確かに楓はそこに居た。
「そんなはずは…。お嬢様がお出かけになるときはいつも私が付いております」
「でも…」
も、確かにあれは楓だったと、今日楓を見て確信している。
「何かを、お探しだったようですけど」
は、彼女の声を聞いている。
「探す…。…あぁ…」
テルは、難しい顔をして溜め息を付いた。
「こっそりと抜け出して、陽一郎様を探しておられるのかもしれません」
「陽一郎様、とは」
「お嬢様の許婚です」
楠本陽一郎。楓の嫁ぐ先。
「何故」
「急な藩命で江戸に。いつ戻るかも分からないそうで…祝言も先送りになってしまったんです」
肩を落とすテル。
は、先ほどまで一緒だった楓を思うと、胸が痛くなった。
薬売りが並べた品を、子供のように目を輝かせて眺めていた。
恩返しができると、嫁に行く事を喜んでいた楓だ。祝言が延びた事を、気に病んでいたかもしれない。
「うわ言のように、“陽一郎様”と言っているのを聞いたことがあります。ここには居ないと分かっていながら、会いたいと思っておいでなのかも…」
薬売りは何かを考えているのか、顎に手を当てている。
「でも、それと鬼火は、関係ないでしょう?」
テルは縋るように二人を見る。
「さぁて。結論を出すには、時期尚早…」
言うと薬売りは立ち上がり、部屋を出ようとした。
「お二人の所ですか?」
同じく立ち上がろうとしたを、薬売りは制した。
「貴女はここに。テルさんからも、もう少し話を、聞いてくれませんか」
「でも…」
少々心細そうにするに、薬売りは僅かに笑んだ。
そうして、右手を翳し部屋の中へ札を張り巡らせていった。
「ひぃっ!」
テルは突然の事に縮こまった。
テルの頭の上を通り越して、札が壁や襖を埋め尽くす。
「貴女でしか、聞きだせない事も、あるはずです」
「…はい」
薬売りは、最後にに札を数枚渡した。
「俺が部屋を出たら、障子にそれを貼ってください」
「分かりました」
力強く頷くに薬売りは目を細め、ちょっとした悪戯心から、正信を真似ての頭を撫ぜた。
「では」
「…反則です…」
ぶつぶつと言いながら、は言われたとおりに障子に内側から札を貼った。
こんな時だというのに、薬売りに触れられた所が気になってしまう。
恋人に撫でられるのと、父親に撫でられるのとでは、同じようには感じないのだろうか。
「お幸せそうですね、あなた方は」
「へ!?」
こんな時だというのに、変な声をあげてしまった。
「えぇっと…。でも、正信様も楓さんも仲が良くてお幸せそうじゃないですか」
狼狽えてしまって、自分でも何を言っているのかと思ってしまう。
許婚が長く戻らないというのに、幸せな事があるか。
「…ごめんなさい」
「いえ。確かにお嬢様は、お幸せだと思います。あれほどまでに、愛されていらっしゃるのですから」
「…陽一郎さまに、ですか?」
「いいえ、それもありますが」
は、はっきりとしないテルの答えに違和感を覚えた。
それが何なのか分からないまま、チリンと鈴の音を聞いた。
見ると、天秤が部屋の端の方から順に傾き始めた。
鈴の音を追いかけるように、障子の外が明るくなっていく。
まだ僅かながら日があるというのに、日の光も霞むほど眩しい光だ。
「何?」
「ひぃぃ」
は腰を浮かせて、いつでも立ち上がれる体勢を取る。
テルは、後ずさるようにしての後ろに逃げた。
ゆらゆらと不安定な光。その特徴のある揺れ方で鬼火なのだと分かった。
は、障子越しの鬼火に神経を集めた。
何が起こっても動けるように、全神経を鬼火へと注いだ。
“何処にいるの…?”
声と同時に、障子の端に影が映った。
輪郭ははっきりしないが、恐らく人の影だ。
やがて鬼火が障子から離れたのか、陰が薄くなった。
影は濡れ縁を、家の奥の方から、玄関へと向かってゆっくりと移動する。
その動きと一緒に鬼火も動いているのか、明るさも移動していく。
「この声、やっぱり」
は、移動を続ける影と鬼火に注意を注いだまま様子を窺う。
やがて影は部屋の前を通り過ぎていき、天秤は水平に戻った。
「声? 何のことですか」
の後ろで、震えながらテルが問う。
「楓さんの、心の声です」
楓は、陽一郎を捜し求めている。
「お嬢様の?」
は立ち上がる。
「本人も気付かない、心の奥底の声です。私に聞こえている以上、楓さんは、モノノ怪です…!」
険しい表情でテルを見下ろし、は言った。
「モノノ怪? …!?」
何かに思い至ったのか、テルはの袂を掴んだ。
「それでは、お嬢様を斬るということですか!?」
「…そうです」
「そんな事をしたら!!」
「モノノ怪は斬らなければいけないんです」
「どうして!」
「人に害を及ぼします! 周りの、正信様やテルさんだけじゃなく、楓さん自身にも!!」
「でもっ」
「放っておけば、皆モノノ怪に呑まれてしまいます。テルさんだって、楓さんや正信様を大切に思ってらっしゃるんでしょう!?」
「…っ」
の鬼気迫る顔に、テルは何も言えなかった。
やがて腕に掛かっていた重みが無くなった。
は息を整えて、冷静になるよう努めた。
そして、障子の札を剥がしに掛かった。
「私が部屋を出たら、同じように札を貼っておいてください」
「何処へ?」
「あの影を追います。あれはきっと…楓さんの念です」
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2012/10/8