桂男
〜序の幕〜







 遠くで、泣き声が聞こえる。

 けれど、どんなに耳を澄ましても、どんなに心を澄ましても分からない。
 何処で泣いているのか。
 誰が泣いているのか。







 薄く目を開けたの視界には、何も映らなかった。


 否。
 何故か辺りは深い青だった。

 青の中に居るのだと、は思った。
 その中に、自分は倒れている。

 周りを確かめようと、身体を動かそうとした。
「…っ!?」
 頭に鈍い痛みが響いて、顔を歪める。
 額に手を宛がい痛みに耐え、ゆっくりと起き上がった。

 目が慣れてから辺りを見回すと、の後方に光が照っていた。
 高い位置に明り取りの小さな窓があり、そこからは鋭利な月が光を放っていた。
 四角く切り取られたその光は、刺すようにの居る空間へと降り注いでいる。
 光の当たった床はこげ茶で、板張り。
 光の当たらないところが青く見えるのだとは思った。

 どうしたものかと、ぼんやりと月を見上げて、ははたと思い出す。

「私…」

 記憶を手繰ると、鋭利な月が思い出された。

 宿へ帰る途中、月を見ていた。
 爪の先程に孤を描く細い月。
 なのにその月は強い光を放って、暗い夜空で異彩を放っていた。
 それに、つい見惚れてしまったのだ。




「ちょっと、大丈夫?」

 突然声を掛けられて、はビクリと肩を震わせた。
 目を凝らすと、同じ空間の隅の方に人の気配があった。

 何度か衣擦れの音がして、光の中にその姿が現れた。
 落ち着いた朱華(はねず)色の着物を纏った、よりもいくらか年上の女。
 やや面長で、気の強そうな目をしている。
 顔が蒼白に見えるのは、月の光のせいか。

「新入りね。…まったく、一体どうなってるのよ」

 溜め息混じりに呟いて、女はの傍までやって来た。
 その女の後ろに、もう三人ほど人影が見えた。
 光の当たらないその人たちは、やはり青に染まっている。

「…怪我はなさそうね。気分は悪くない?」
「…少し、頭が…」
「直に良くなるわ」

 の髪を手櫛で整えた女は、小さく微笑んだ。

「私は利津よ。貴女、此処に来る前のことを覚えてる?」
「私はといいます。…えっと、月を見ていたら、突然後ろから誰かに…」
「そう」

 利津と名乗った女は、険しい表情になる。

「こんなに人攫いに遭った女がいるっていうのに…」
「…人攫い…?」
「そうよ。私たち皆、誰かにここに連れてこられたの」

 そう。後ろから“誰かに”羽交い絞めにされ、口を塞がれた。
 抵抗はしてみたけれど、敵うはずもなかった。
 やがて意識が遠退いて、今に至る。

「ここは、一体何処なんですか?」
「私達も気絶したまま連れてこられたから、分かりようがないの」

 でも、と利津は続け、これまでに知り得た周囲の様子を説明してくれた。

 ここは小さな離れのような場所らしい。
 日常の生活に支障のないよう、最低限のものは揃っている。
 板張りのこの部屋以外に畳敷きの部屋が一つ。
 土間もあるが、殆んど道具がないため、役には立たない。
 辛うじて湯が沸かせるくらいだ。
 外はうず高い柵が囲んでいて、一箇所ある出入り口は鍵が掛けられている。

「日に二度、老婆が食事を運んでくるの」
「おばあさんが、ですか?」
「入口には格子がはまっていて、その間から」
「…じゃあ外には…」
「出られないわ」

 首を横に振りながら、利津は答えた。

 どうしたらいいだろうか。

 は心許なげに辺りを見回した。
 青い闇が横たわっている。


 薬売りさん…。


 見上げた窓からは、月がこちらを見下ろしているだけだった―。







 一人きりの部屋は、酷く寒々しい。
 火鉢が音を立てるものの、求めている温かさはそれではない。

 薬売りは、気だるげに煙草を燻らせる。
 ほぅ、と吐く煙は、先の方で渦を巻いていく。
 その煙が消えた窓の先に、薬売りは目を遣った。

 冴えた月が、輝いている。
 その光はまるで、照らしたもの全てを射抜くようだ。

 小さく嘆息して、薬売りは月から目を逸らした。
 そうして部屋の隅に置いてある荷物を横目に見る。
 その持ち主は未だ帰らない。

 今日は帰らないのだろうか。

 奉公先によっては、成り行きで泊り込むこともある。

 今夜もそうだろう。

 けれど、薬売りは何処か得心出来ないでいた。

「一体何処で、何をしているのやら」

 低く呟いた声は、夜に溶けていくだけだった。


















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本当はほっそい三日月の背景が良かったんですけど、
青い背景が気に入ったので、これで…


2014/4/13