桂男
〜三の幕〜





「え? 何? ちゃん帰らなかったの!?」

 薬売りは、が三日ほど前から雇い入れてもらっている蕎麦屋を訪ねていた。
 そうして、昨日が戻らなかったという話をした。

「昨夜は客の引きが早かったから、刻限より早く帰したんだが」

 店主は目を丸くして薬売りに答えた。
 仕込みを進めるその手には、大きな鍋を持っている。
 これから出汁でもとるのだろう。

「…何処かへ行くようなことを、言ってはいませんでしたか」
「いやぁ、聞かなかったな」
「そう、ですか。…邪魔を、しましたね」

 薬売りが店を出ようとした時、奥から声がかかった。

「ちょっとお待ちよ」

 足を止めてそちらを見遣ると、勝手口から女が覗いていた。
 店主の妻なのだろう。

「何か」
「アンタだろ、あの子の好い人ってのは」
「…まぁ」
「帰らないはずがないよ」
「何故」
「だってあの子、早く帰れるって嬉しそうだったんだ。寒い中帰ってくる人の為に部屋を暖めておかなきゃって」

 薬売りの脳裏に、笑顔のが思い出された。
 じんわりと、胸が温かくなる。

「だから、帰らないはずがない」

 急に、女の顔が険しくなった。

「…そりゃあ、お前、まさか」

 その話を聞いていた店主も、眉間に皺を寄せていた。

「そう、帰れなかったんだよ」

「どういう、ことで」

「…アンタ、この辺りで最近、若い娘が何人も行方知れずになってるって、知ってるかい?」



 薬売りは、口角を上げた。



「ほぅ…。詳しくお聞かせ願えますか」


 薬売りの表情の変化に、店主も女も顔を見合わせる。

「いや、大したことは分からねぇ。ただ、この前は器量よしで名の知れた娘がいなくなったって聞いたな」

「その前は長屋暮らしの浪人の旦那を見事立ち直らせたって評判だった、まだ若い奥方が突然いなくなったって…」

「そう、ですか」

「ただ若い娘ってだけじゃないみたいなんだよ。…ちゃんも、人目を引くからねぇ」

 女が心配そうに呟く。
 薬売りはまた口角を上げて、嬉しそうな視線を女に向けた。
 その視線に気付いた女は、大きく頷いた。

「とてもいい子だよ、あの子は」

「そりゃあ、どうも」

 薬売りはそう言うと踵を返す。

「アンタ、探しに行くのかい?」

「…えぇ」

「アタシ達は店があるから手伝えないけど、見つかったら“心配してた”と伝えてくれるかい?」

「そりゃあ、もちろん」


 薬売りは小さく笑って店を出た。













 鋭い月が、薬売りを見下ろしている。
 すっかり日が短くなり、それほど遅い時分ではないというのに、既に辺りは暗くなっている。
 人影もまばらで、薬売りは緩慢に歩みを止めた。

 昨日より、細くなっただろうか。

 白い光を放つ月を、薬売りは一人見上げていた。


 行商の傍らで、行方知れずの娘たちの情報を集めようとした。
 けれど、娘が行方知れずになっていることも、あまり知られていないようだった。
 薬を買い求めた客や、立ち寄った食事処。
 様々聞いてみたが、殆どの人が首を傾げるだけだった。
 一つ、何処ぞの娘が家出をしたという話くらいで、手掛かりは皆無。


 同じ光を、浴びているだろうか―。


 そんなことを考えていると、不意に気配を感じた。
 カタリ。
 背中の退魔の剣が微かに震えた。
 正面を見据えると、物陰から男が姿を現した。

 すらりと長身で、顔色は悪いが整った顔をしている。
 緑青の着物が、月明かりに冴える。

 ふらふらと力なく歩いてくると、薬売りと三歩ほどの距離を開けて立ち止まった。

「アンタ、薬屋か?」
「えぇ、まぁ」

 目の下の隈が目立ち、頬もこけている。

「何か、気の休まる薬湯はないか?」

 見るからに眠れていなさそうだな、と薬売りは心中でぼやく。

「…手持ちの薬じゃあ、アンタには気休めにもなりませんぜ」
「どういうことだ?」
「“ちゃんと医者にかかれ”と言っているんですよ」
「悪いが、そんな暇がねぇんだ。何でもいい、薬をくれ」

 窪んだ眼窩の中にある生気の薄い目が、薬売りを睨んでくる。
 やれやれ、と薬売りはため息をついて行李を下した。

「効かなかった、なんてぇ苦情は受け付けませんぜ」
「分かってるよ」

 引き出しを引いて中を漁ると、薬売りは包みを一つ取り出した。

「煮出して飲むよう、お願いしますよ。少々、匂いますがね」
「ありがてぇ」

 パッと、それを掴み取ると、男は反対の手を薬売りに差し出した。

「悪いが、今はこれしか持ち合わせがないんだ」

 その手には、鼈甲の櫛が握られている。
 月明かりにも、見事な品だと見て取れる。

「いいんですかい、こんなに上等なもの」
「あぁ、俺には必要ない」

 肩を竦めて、男は笑った。

「それじゃあ、遠慮なく」

 薬売りは受け取ると、月明かりに櫛を翳して眺めた。

「アンタ、男にしておくには惜しいくらい、綺麗な顔してるな」

 そんな薬売りを見て、男は感心したような声で言った。

「褒めてるんだか、貶してるんだか…」

 薬売りは口角を上げて答える。

「勿論、褒めてるんじゃねぇか」
「そりゃあ、どうも」

「アンタくらい男前だと、周りの女たちは放っちゃおかないだろ?」
「さぁて」
「より取り見取りってやつかい?」
「俺には、一人いれば十分、ですよ」
「へ、すっとぼけやがって」

 クツクツと笑うが、息が続かないのかすぐに笑うのを止めた。

「アンタの方が、大変でしょう」

 薬売りが問い返す。

「そうだといいんだがな。世の女どもは、なぁんにも分かっちゃいない」

 男は肩を竦めて自嘲するような笑みを見せた。

「なぁんにも、な」

 そう言って薬売りの横を通り過ぎると、物陰に入り、闇に紛れて行ってしまった。

「なぁんにも、ですか…」

 薬売りは踵を返すと、男の消えて行った方に足を向けた。
















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2014/5/11