「な…」
利津の叫びに、男は一瞬怯んだ。
薬売りはそれを逃さず、男に札を投げつけた。
「!? お前…っ」
札は男の身体に貼りつき動きを封じる。
頽れる男に、利津は追い打ちをかける。
「蔵から外に出て確信したわ、ここが石坂酒造だって。一度来たことがあったから…」
利津は鋭い視線を男に投げかけると話し始めた。
男は名を織哉と言った。
石坂家の放蕩息子で、何の勉強も経験も積まないまま相次いで両親を亡くし、杜氏や奉公人の進言も聞かず好き放題に商売し、酒蔵を潰してしまった。
さんざん忠告してきた杜氏達に見放され、一人、この家に残ったのだ。
「こんな有様だなんて…」
利津は皮肉交じりに言った。
「お、お前…何で知って…」
「言ったじゃない、来たことがあるって。あんたとも一度会ったわ」
「…何…?」
身動きの取れない男―織哉―は、視線だけを利津に向ける。
「一家総出で、妹とあんたの結婚を、あんたの両親に認めてもらうためにここに来たのよ!」
嫁にしたいと思った女の姉の顔も覚えていないのかと、利津は嘲った。
「出来の悪い息子だって評判だったから、両親も私も反対したのに…」
それでも二人が好きあって幸せならと、結婚を認めたのだ。
織哉の両親も反対していると知って、両家で話をするためにここへ来た。
「出来の悪い息子だって…? 俺が?」
「そうよ。ろくに働きもしないでふらふら遊んで、世間じゃ“石坂屋は逸五郎の代で終わりだ”って言われてるのも知らないおめでたいバカ息子。そんな息子を棚に上げて、あんたの親は何て言ったと思う!?」
利津が険しい顔で織哉に迫った。
織哉は何も答えない。
「“アンタのような小娘が、どうしてうちの織哉の、石坂屋の嫁になれるって?”、そう言ったのよ」
世間知らずの娘。
何も出来ない娘。
弱小商家の娘。
アンタのような、に込められた意味は、様々だった。
「妹は、沙紀は、何もできない小娘なんかじゃなかった。うちは、小さくとも商家。商売のこと、人付き合い、物の良し悪し、他にも色んなことを教わって育ったわ。何もできないのは自分の息子の方なのに」
「お前…」
「大体、あんたもあんただわ。嫁にしたいって連れて行ったのに、助け舟の一つもなかった。親のいいなりだった」
「そんなの、当たり前だ。俺だって、あいつらには逆らえなかった…!」
苦々しい顔をして、織哉は吐き捨てた。
は男の微かな心の揺れを感じて、薬売りの袖をそっと引いた。
薬売りはちらりとに視線を向けてから、手の中に札を握りこんだ。
「そうよね、あんたが何もしなくてもここまで生きてこれたのは、両親のお陰だもの。楯突くなんて出来ないわよね」
皮肉る利津。
余程この織哉を憎んでいるらしい。
「っ!! お前…いい加減にしろよ」
織哉が、カッと目を見開いた。
と、同時に、倒れていた香乃がスッと起き上がった。
「香乃さん!?」
が近寄ろうとするが、薬売りがそれを制した。
「よく、ご覧なさい」
「え…?」
薬売りに言われた通り、立ち上がった香乃を観察する。
「なに…これ…」
香乃は宙に浮いていた。
辛うじて爪先だけはするびく様に床に着いている。
だらりと全身脱力し、口も半開きだ。
けれど、目だけは大きく開かれていて、白目を剥いている。
「…ぁあ…」
呻く様な低い声を発しながら、香乃は三人にゆっくりと近づいてくる。
両腕を三人の方へ伸ばし、掴みかかろうとしているようだ。
「か、香乃…?」
さっきまで強気だった利津も、これには恐怖した。
その様子に、織哉は喜色ばんだ表情を見せる。
「…俺は、悪くない…」
自分に言い聞かせるように織哉は呟いた。
「全部、親父やおふくろ、それに…低俗な女たちが悪いんだ!!」
織哉が叫ぶと同時に、香乃が大きく口を開けて迫ってきた。
「!!」
薬売りは背後に二人を庇うと、拳に握りこんでいた札を香乃目掛けて投げつけた。
「ぐ…ぁっ」
札は香乃の身体全体に貼り巡らされ、その動きを止めた。
若い娘のものとは思えない声を上げて、畳へと倒れこんでいった。
「くそ…っ!!」
吐き捨てる様に言って、織哉はもう一度薬売り達を睨みつけた。
けれど、倒れこんだ香乃はこれほども動かない。
「こ、今度は無理みたいね!」
利津がぎこちない笑みで織哉に吐き捨てたが、織哉は一つも動じなかった。
それどころか、僅かに口元を緩ませた。
「…?」
薬売りが俄かに殺気立つ。
はその変化に気づき、自らも辺りの気配を探った。
「きゃあ!」
突然利津が声を上げた。
見れば、背後から女に羽交い絞めされ、もがいている。
「な…っ」
険しい顔をして、女の腕に爪を立てる利津。
薬売りは利津共々、札塗れにした。
女は香乃と同じように呻き声を上げながら倒れこんだ。
「一体何処から?」
は咳き込む利津を支えて、倒れている女の顔を覗き込んだ。
「この人、さっき…!」
ここに来るまでの間に見た、倒れていた女だ。
薬売りは小さく舌打ちをすると、即座に自分たちの周りに札を並べた。
徐々に妙な気配が増してくる。
札の間から辺りを窺っていると、やがて数人の女たちがぞろぞろと姿を現した。
皆、香乃と同じように白目を剥き、足も動かさず漂うようにこちらに近づいてくる。
は怯える利津を庇うように、自分と薬売りの間に立たせる。
薬売りは二人を庇いながら、近づいてくる女達と織哉に、順に視線を向ける。
やがて、一人の女の指先が札に触れた。
バチッという音と共に火花が散って、女が悲鳴を上げる。
続いて触れた女も同様。
それが何度も続く。
「…何してる! そんなもの早く破れ!」
苛立った織哉の声が響いた。
それと同時に、女たちが一斉に三人に飛び掛かった。
「破ッ―!!」
薬売りが気合の声を上げると、三人を囲んでいた札が放射状に飛び、女たちだけでなく壁や障子、天井にまで張り付いた。
札を受けた女たちは、大きな音と共に吹き飛んだ。
倒れこんだままピクリとも動かない。
「くそ、これだから女は…!」
自分の足元に倒れている女を、織哉は足蹴にした。
「何てこと…!?」
が言うより早く、利津が駆け出していた。
薬売りも止める事が出来ず、ただその光景を見ているしかなかった。
利津は駆け出した勢いのまま織哉の懐に飛び込んで行った。
ぶつかった衝撃で二人とも畳の上に倒れこむ。
「お…前っ」
織哉は顔を歪め、自分の脇腹辺りを手で押さえている。
「…沙紀の、仇…」
利津の手には、さっきまで自らの髪に刺していた簪が握られていた。
その先は、赤黒く色づいている。
「利津さん!」
が悲鳴に似た声で利津を呼んだ。
「アンタなんかのせいで、沙紀は死んだのよ!!」
険しい顔をしながら涙を流す利津が、には痛々しかった。
「沙紀の形見の簪で刺された気分はどう?」
「くそ…」
刺された場所から、光が溢れ出てくる。
織哉は必死にそれを止めようとするが、指の間から光は漏れていくばかり。
その光から微かな声が聞こえた。
は部屋に漂うその光に意識を向け、その声を辿った。
「!?」
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2014/7/13