「!?」
次の瞬間、は一人、深い青の中にいた。
不意に、蔵で目覚めた時のことが呼び起される。
辺りに誰かいないものかと見渡すも、目に映るのは青だった。
は懐に手を当て、着物の上から札に意識を向ける。
すると仄かにそこが光り、の周囲だけをぼんやりと白く染めた。
安堵のため息を漏らすと、は前を向いた。
そうしてゆっくりと歩きだした。
一歩一歩、確かめるように歩を進め、周囲を窺う。
進めば進むほど、青は深くなっていく。
屋敷と同じだと、は思った。
やがて、泣き声が聞こえてきた。
濃紺の、ずっと奥の方だ。
は一人頷くと、歩みを速めた。
自分の放つ光が、何かを照らし出した。
は歩調を緩め、気を引き締めた。
それは、一人の男の子だった。
十かそこらの、まだ少年と言う年頃の。
彼は泣きじゃくり、たまに嗚咽を漏らす。
手も腕も涙に濡れて、もうずっと、長いこと泣いているようだ。
「君は…」
には、それが幼少の織哉だと分かった。
幼い織哉はに見向きもせず泣き続ける。
は、織哉の傍まで行くと、しゃがみ込んだ。
「どうして泣いているの?」
声をかけると、織哉はびくりと身体を震わせてこちらを見た。
真っ赤な顔、真っ赤な目、涙に濡れた頬。
そっと、その髪を撫でた。
またびくりと身体を震わせたものの、織哉は大人しくしていた。
「どうしたの?」
もう一度、問いかけた。
「…っ、ひっ…く」
ずっと泣いていたせいか、上手く声が出ないらしい。
は、髪を撫でていた手を背に回し、ゆっくりと撫でてやった。
少しでも、落ち着くようにと。
「誰も…、俺を、見てくれないんだ…っ」
「君を見てくれない?」
「蔵が、忙しいんだ」
「お家は商いをしているのね」
の問いかけに織哉は頷く。
「俺よりも、蔵が、大事なんだっ」
言葉にしてしまったせいか、織哉の目から涙が溢れた。
幼い織哉は、たどたどしく、けれども心の内を話してくれた。
酒蔵が忙しく、両親も奉公人も、もちろん杜氏たちも、自分を相手にはしてくれない。
両親は自分にいくらかのお金を寄越すと、自分で外の世界を見てくるように言い置いた。
それだけだった。
もちろん初めはそうしていた。
色々な土地、色々な店、色々な人々。
知らないものを見るのは楽しかったし、知識を得るのは面白かった。
そうしていたのは、自分に見向きもしない両親に、褒められたいからこそだった。
けれど、褒められることはなかった。
見分の成果を聞くでも、試すでもなく。
いつも、今月分だと言ってお金を渡してきた。
自分の思うように見識を広げるといい。
そう言われるだけ。
自分と両親の関係は、ただそれだけだった。
には、織哉が何を言いたいのか、僅かに分かってきた気がした。
深く瞬きをして、次に目を開けた時、そこに幼い織哉はもういなかった。
「…何処に…?」
は立ち上がり、辺りを見渡す。
「!?」
咄嗟に後ろを振り返る。
と、そこには成長した織哉の姿があった。
ぼんやりとした顔で、を見ている。
「でもやっと、俺を見てくれる人が現れたんだ」
低くなった声で、に語りかける。
やがて年頃になった織哉には、恋仲の娘が出来た。
嬉しかった。
自分を必要としてくれる人がいることが。
一緒になろうと誓って、互いの両親に話そうと決めた。
娘の方の家族には渋々だったが認めてもらった。
けれど…
「俺の親は、ついぞ認めてくれなかった…。分かって、もらえなかった」
落胆の色を見せる織哉。
この酒蔵を支えられる娘じゃない。
この家に相応しい娘じゃない。
織哉ではなく、蔵が目当てなのだ。
織哉はその娘を大層気に入っていたのだが、決して認められることはなかった。
理解してくれない親と、親の目に適うことのなかった娘。
双方に腹が立った。
その後も、何人かの娘を親に会わせた。
けれど、反応は同じだった。
今まで何を見てきたのだ。
自由にさせてきたのは、馬鹿な女に引っかかる為じゃない。
放蕩息子と呼ばれるためじゃない。
自分で学び、自分で生きられるように。
そう思って、これまで自由にさせてきたのだ。
ほとほと期待外れだ。
散々な言われようだった。
自分の全てを否定された気分だった。
織哉は、目を閉じると、一筋の涙を流した。
は、静かに言った。
「失望したんですね、両親にも、女と言うものにも」
そう言った瞬間、目まぐるしく青が動いた。
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2014/7/20