そよいだ風に、ふわりと髪が揺れる。
は困ったようにその髪を手で押さえた。
「ここは、よく風が通るようで」
心太の入った器を片手に、薬売りが窓の外を眺めながら呟いた。
「モノノ怪のことさえなければ、とても心地いいんですけど…」
ため息混じりに答えると、は髪を整える。
ふらりと立ち寄ったこの町からは、微かだけれどモノノ怪の気配があった。
薬売りは何か感じたようだったし、もちろんも遠くで声がしているような感覚があった。
町全体は、どんよりと沈んでいるような、そんな雰囲気。
「娘さん、これ、むこうの客からの奢りだ」
突然、店の主人がの前に器を差し出した。
中を覗くと、あんみつ。
「え…あの…?」
店主に示された方を見ると、二人の男がこちらを見ていた。
一人は満面の笑みを浮かべる、いかにも“男”という人。
もう一人は、薄く微笑む線の細い人。
二人は立ち上がると、薬売りとが座る席へと近付いてきた。
「嬢ちゃん、綺麗な髪してるな」
“いかにも男”という方の男が通路を挟んだ席にドカリと座り込む。
「え…その…」
綺麗な髪。
以前薬売りにも言われたことがある。
自分では普通だと思っているのに、人から言われるととてもくすぐったい。
「あんた方は…」
男達を横目で見る薬売り。
その威嚇するような視線を、男は手をひらりと一振りして受け流す。
「俺は髪結いの清造ってモンだ。嬢ちゃんのその髪が気になってな」
「…ほぅ…」
「俺は平助です。間近に見ると、本当に滑らかなのがわかりますね」
線の細い男が、目を細める。
「いえ、そんな…」
男たちの視線に、は顔を俯ける。
「髪結い、ですか」
「お前さんも変わった髪の色をしてるじゃねぇか。染めてんのか?」
成程、と納得する薬売りを見て、男が聞いてくる。
「これは生まれつき、ですよ」
「ほう、そいつぁ珍しい」
清造と名乗った男は、二人の髪を興味深げに眺めてくる。
「嬢ちゃん、髪は結わないのかい?」
「は、はい。旅をしているので埃なんかが付きやすくて、こまめに洗ってしまうので」
「なるほどなぁ。並の町娘なら、髪型が少しでも崩れたら気にするってのに、珍品もいたもんだ」
清造がガハハと笑うと、薬売りも口角を上げる。
「なるほど、珍品、ですか」
「薬売りさん!? 馬鹿にしてますか??」
珍品と言われて、は頬を赤くする。
「しちゃあ、いませんよ。人聞きの悪い」
「どこがですか」
剥れるを見て、薬売りはクツクツと嗤う。
「変わった出で立ちをした者同士、気が合うようですね」
二人を見ていた平助は、爽やかに笑った。
「…平助さんも、からかってます?」
「そんなつもりじゃありませんよ」
平助は困ったように頭を掻く。
は同意を求めるように薬売りを見る。
けれど薬売りは口角をあげたまま…。
「気が合わなけりゃあ、一緒に旅なんて、するわけがありませんよ」
な…。
の眉間に皺が寄る。
「こりゃダンナに一本取られたな、嬢ちゃん」
清造も平助もに構わず声を上げて笑った。
「お前さん方、そんなこと言ってないで注意してやったらどうなんだ」
会話を聞いていたのか、後ろの方から声がした。
斜向かいの席の初老の男。
その男に茶を注いでいる給仕の娘も、うんうんと頷いている。
「何のこと、ですかね」
薬売りは真顔に戻ったものの、何処か楽しそうに問いかけた。
「あぁ…この辺りで最近、女の髪が切られる騒ぎが続いててな」
「髪が?」
清造が深刻そうに呟くのを聞いて、は無意識に自分の髪を触った。
「酷いのよ。夜寝ている間に知らないうちに切られて…。アタシの友達にも切られた子がいて、本当に酷かったの」
給仕の娘が両手で盆を抱え込んで力説する。
「寝てる間に、ですか…」
「髷も結えないくらい短く、ざんばらに切られたの!」
「そんな…酷い…」
の顔は青ざめていく。
いくら髷を結わず、鬱陶しいから切ってしまおうと思ってしまうような髪でも、自分の意志とは無関係に無惨に切られてしまうのは御免だと、は思う。
「でもよ」
清造の声に皆の視線が集まる。
「一房だけ綺麗に切られたってのも、何人かいるんだぜ」
「一房だけ…?」
「毛先を少しだけ切られて、その切られた髪は消えてるんだと」
「消えてるって…、髪がですか?」
は首を傾げながら問う。
「なんでも、酷く切られた人の髪はそのまま部屋に撒き散らされているのに、一房だけ切られた方の髪はなくなっているらしいんです」
「ま、俺たちに取っちゃどっちでもいいんだがな」
平助の語尾に被るように、清造はため息混じりに言った。
「お陰で商売は繁盛してるが、そのせいであらぬ疑いも掛けられたりしてな」
肩を竦めておどけて見せるが、本当に迷惑がっているようだ。
清造はそのまま、気をつけるこった、と言って店の出口に向かっていった。
「…大変なんですね」
は残された平助を仰ぎ見る。
「いえ。でも、俺達髪結いにとって、綺麗な髪を保ったり綺麗に髪を結ったりすることが生きがいなんで、酷い扱いをされるのは許せない事ですよ」
平助は苦笑交じりに言ったけれど、その言葉には信念めいたものが感じられた。
ちらりと、部屋に貼ってある札を盗み見る。
二間続きの部屋は、居間が鮮やかな黄色、寝室が落ち着いた緑色を基調としていた。
その至る所に札が張ってあり、二色の市松模様にも見える。
寝ている間に髪を切られてしまうかもしれない。
そんな不安が、心の隅のほうにはあった。
けれどは、旅の途中でふらりと寄っただけの自分がその対象になることはないと思った。
この町に、女はいくらだっているのだ。
来たばかりの自分が狙われる事はないと、高をくくっている。
けれど、薬売りは違うらしい。
いつもより多い部屋中の札と、部屋の端に並べられた天秤たちがその証拠。
部屋に入るなり、無言で張り巡らせていた。
その後姿を、は茶の用意をしながら眺めていたのだが…。
は鏡に映る自分を見て、黒い髪を梳く。
その後姿を、今度は薬売りが眺めている。
鏡越しにそれが分かる。
何が面白いのか。
「よかった、ですね」
「…え…?」
不意に薬売りが言った。
鏡越しに目が合う。
「その道の方に、褒めてもらって、ですよ」
「あ…。そうですね。ちょっと照れますけど」
「俺の目は、節穴じゃあなかったってぇことだ」
「自画自賛ですか、それ?」
「事実じゃあないですか」
「でも…」
は部屋を見渡す。
「これはいくらなんでも…」
「髪を、切られても、いいんで?」
「良くはありませんけど、今日この町に来たばかりの私が髪を切られるなんてことありませんよ」
「そうだと、いいんですがね」
そう言って薬売りは自分の手元に視線を落とす。
何処から貰ってきたのか、一枚の紙に文字が書き連ねてある瓦版を読み始めた。
「分かっている限りでは、すでに十二人、切られていると。…若い娘、ばかりが」
「そんなに…」
は眉根を寄せる。
切られた娘たちのことを思っての表情。
「人の心配も、いいんですがね…」
薬売りは瓦版をひらりと揺らして立ち上がると、並んで敷いてある布団の間に衝立を立てた。
「だから、私は大丈夫ですって」
は慌てて櫛を置くと、布団に向かう。
ちょうど布団の中に入った時、部屋が暗くなった。
「おやすみなさい、薬売りさん」
衝立越しに、声を掛ける。
「おやすみ、なさい」
薬売りの声の後に、衣擦れの音がした。
NEXT
始まってしまいましたね。
それにしても…
何故うちの薬売りさんは突然寝るんでしょうね?
2011/1/16