「…っ」
薬売りは、鋏の気配がなくなったことを確認してから起き上がった。
苦虫を噛み潰したような顔をして。
鋏が突き破っていった窓を睨むと、そこから覗く青白い月が妙に腹立たしかった。
そしてその月の光が注ぎ込む方に視線を向けた。
自分のすぐ傍に横たわっている。
堅く目を瞑って、酷く怯えている。
それなのに―
白く照らされた肌も、震える肩も、畳に不規則に広がる髪も、何もかもが綺麗だった。
そう思った自分を内心自嘲する。
それらを打ち消すように、薬売りは軽く頭を振った。
「さん…」
薬売りの呼びかけに、は薄っすらと目を開けた。
「迂闊でした…。自分が狙われるわけないなんて」
弱弱しい声で、自己嫌悪する。
薬売りは、畳の上に広がる髪の、ほんの僅かな一房を見遣る。
あの音は、確かにの髪が切られる音だったのだ。
「起きられますか?」
「はい…」
起き上がろうと畳に手をついた。
「痛っ」
左腕に走った痛みに、は小さく悲鳴を上げた。
見れば、左の袖に小さな赤い染みが出来ている。
袖を捲くってみると、刃が掠ったのか切り傷が出来ていた。
「まずは、手当てを」
薄明かりの中二人は、向かい合って座る。
「俺がついていながら、何て様だ…」
腕の怪我の手当てをしながら、薬売りは呟いた。
「薬売りさんのせいじゃありません」
はそんな薬売りを、必死に庇おうとする。
「だって、やっぱり、守ってくれました」
「しかし」
「寝てなかったんですよね? “おやすみ”と火を消した後も」
「…」
が微笑むと、薬売りは安堵したのか軽く息を吐いた。
「何故、それを」
「何となく…。でも私が薬売りさんを呼んだとき、すぐに返事をしてくれました。だから」
「気配で目が覚めたとは、思わないんで?」
「動く気配も衣擦れの音もしなかったから」
「貴女ってぇ人は…」
あの状況で、確かに動揺し怯えていたはずなのに、そこまで覚えているのかと薬売りは感心する。
「これで今夜は、我慢してください。夜が明けたら、また、巻き直します」
「これで大丈夫です。ありがとうございました」
「そう、ですか。…では…」
「? なんですか?」
首を傾げたの髪が、さらりと流れる。
薬売りはその髪に手を伸ばす。
「髪を、整えさせてもらえませんか、ね」
「はい??」
夜が明けると、部屋の惨状を宿の主人に伝えて、ちょっとした騒ぎになった。
また女の髪が切られたと。
泊り客が野次馬と化して部屋に集まったが、宿の主人達が気を回して追い払ってくれた。
更に入浴の時間でもないのに湯を沸かして風呂に入れてくれ、気分が悪いだろうからと別な部屋の用意もしてくれた。
その部屋で、薬売りは言葉通りの髪に櫛を入れ始めた。
心の中に、後悔のほかに気恥ずかしさがあることに、はすぐに気が付いた。
自分と母親以外で髪に触れた人は、薬売りが初めてだ。
あんな事があった後なのに、もうそちらに気が向いてしまっている。
「切られたのは、ほんの僅かの毛束、ですよ」
「え…?」
突然そう言われて、の声は裏返る。
「ほら」
櫛を滑らせて、切られた部分とその周りの髪を手にとって比べてみせる。
短くなっているのは朝顔の蔓ほど。
「長さは…二寸てぇところ、ですかね」
「それなら、纏めていればあまり目立ちませんよね?」
「俺が鋏を入れてもいいんなら、揃えますよ。少々短く、なりますがね」
「で、出来るんですか、薬売りさん?」
「保証はしませんが、ね」
鏡越しに目が合った。
薬売りはいつもの口調なのに、いつものような怪しい笑みではなかった。
だからは、こくりと頷いた。
「どうして、私なんでしょう」
鋏の音が規則的にする中で、はポツリと呟いた。
「さあて」
「だって、昨日来たばかりで…」
「モノノ怪に聞いてみないことには、分かりませんよ」
畳の上に引いた白い紙に、はらはらと黒い髪が模様を描いていく。
「…」
は俯こうとする。
「動かないで、くれませんか」
「あ、すいません…っ」
薬売りの一言で、は背筋を伸ばして硬直する。
そんなを見て、薬売りは口角を上げる。
「まずは、清造さんたちにでも、詳しい話を聞いてみようと、思うんですが」
「そ、そうですね、被害にあった人から何か聞いているかもしれません」
鋏の音が止むと、今度は丁寧に髪を梳いてく。
櫛は少しの引っかかりもなく毛先まで流れて行く。
自分の髪とは大違いだと、薬売りは目を細める。
「髪…と言っていました。何度も」
「髪、ですか」
「どうしてあんなに髪を求めるのか、私が聞いてあげなくちゃ」
言い聞かせるように呟く声。
薬売りが鏡越しにを覗うと、その瞳には強い力が宿っていた。
「あれほど怯えていたのは、誰、ですかね」
「う、煩いです…!」
顔を赤くするを他所に、薬売りはの髪を束ね始めた。
「あの、自分で結べますから」
慌てるを薬売りは目で制して、いつもが自分でしているように毛先の方で結んだ。
「終りましたよ」
「あ…ありがとうございました」
照れたように笑う。
少し軽くなった髪には違和感があるけれど、何故だか少し嬉しい。
鏡で髪を確かめて、ふといつもと違うものに気が付いた。
「…」
は自分の髪を手繰り寄せて、その結ばれた所を直に見る。
「あの…」
それから振り返って薬売りを見上げる。
「これは?」
見慣れないものに、は戸惑いを覚えた。
真新しい髪紐。
抜けるような空の青と、しなやかな草木の緑、そして白。
その三色の紐が綺麗に編みこまれた結び紐。
薬売りは口角を上げる。
「魔除け、ですよ。…今度こそ、正真正銘の、ね」
「今度こそって…?」
「…」
首を傾げるに、薬売りは答えるつもりはないらしい。
は敵わないといった風に肩を竦めて、今度は笑った。
「ありがとうございます。…薬売りさんの着物と、同じ色ですね」
「…」
の言葉に薬売りは、また無言だった。
答えるつもりがないのではなく、閉口したのだ。
あまりにも、無意識だったから。
その色を、選んだとき―。
NEXT
ここで漸く薬売りさんは髪紐を渡せたわけです。
幕間の髪紐は、実はこの話を作った後に考えました。
2011/1/30