天気雨の夜

黒髪切り〜三の幕〜







「…っ」


 薬売りは、鋏の気配がなくなったことを確認してから起き上がった。
 苦虫を噛み潰したような顔をして。
 鋏が突き破っていった窓を睨むと、そこから覗く青白い月が妙に腹立たしかった。
 そしてその月の光が注ぎ込む方に視線を向けた。

 自分のすぐ傍に横たわっている
 堅く目を瞑って、酷く怯えている。

 それなのに―

 白く照らされた肌も、震える肩も、畳に不規則に広がる髪も、何もかもが綺麗だった。
 そう思った自分を内心自嘲する。
 それらを打ち消すように、薬売りは軽く頭を振った。




さん…」

 薬売りの呼びかけに、は薄っすらと目を開けた。

「迂闊でした…。自分が狙われるわけないなんて」
 弱弱しい声で、自己嫌悪する。
 薬売りは、畳の上に広がる髪の、ほんの僅かな一房を見遣る。
 あの音は、確かにの髪が切られる音だったのだ。
「起きられますか?」
「はい…」
 起き上がろうと畳に手をついた。
「痛っ」
 左腕に走った痛みに、は小さく悲鳴を上げた。
 見れば、左の袖に小さな赤い染みが出来ている。
 袖を捲くってみると、刃が掠ったのか切り傷が出来ていた。
「まずは、手当てを」




 薄明かりの中二人は、向かい合って座る。

「俺がついていながら、何て様だ…」
 腕の怪我の手当てをしながら、薬売りは呟いた。
「薬売りさんのせいじゃありません」
 はそんな薬売りを、必死に庇おうとする。
「だって、やっぱり、守ってくれました」
「しかし」
「寝てなかったんですよね? “おやすみ”と火を消した後も」
「…」
 が微笑むと、薬売りは安堵したのか軽く息を吐いた。
「何故、それを」
「何となく…。でも私が薬売りさんを呼んだとき、すぐに返事をしてくれました。だから」
「気配で目が覚めたとは、思わないんで?」
「動く気配も衣擦れの音もしなかったから」
「貴女ってぇ人は…」
 あの状況で、確かに動揺し怯えていたはずなのに、そこまで覚えているのかと薬売りは感心する。
「これで今夜は、我慢してください。夜が明けたら、また、巻き直します」
「これで大丈夫です。ありがとうございました」
「そう、ですか。…では…」
「? なんですか?」
 首を傾げたの髪が、さらりと流れる。
 薬売りはその髪に手を伸ばす。
「髪を、整えさせてもらえませんか、ね」
「はい??」






 夜が明けると、部屋の惨状を宿の主人に伝えて、ちょっとした騒ぎになった。
 また女の髪が切られたと。
 泊り客が野次馬と化して部屋に集まったが、宿の主人達が気を回して追い払ってくれた。

 更に入浴の時間でもないのに湯を沸かして風呂に入れてくれ、気分が悪いだろうからと別な部屋の用意もしてくれた。
 その部屋で、薬売りは言葉通りの髪に櫛を入れ始めた。



 心の中に、後悔のほかに気恥ずかしさがあることに、はすぐに気が付いた。
 自分と母親以外で髪に触れた人は、薬売りが初めてだ。
 あんな事があった後なのに、もうそちらに気が向いてしまっている。
「切られたのは、ほんの僅かの毛束、ですよ」
「え…?」
 突然そう言われて、の声は裏返る。
「ほら」
 櫛を滑らせて、切られた部分とその周りの髪を手にとって比べてみせる。
 短くなっているのは朝顔の蔓ほど。
「長さは…二寸てぇところ、ですかね」
「それなら、纏めていればあまり目立ちませんよね?」
「俺が鋏を入れてもいいんなら、揃えますよ。少々短く、なりますがね」
「で、出来るんですか、薬売りさん?」
「保証はしませんが、ね」
 鏡越しに目が合った。
 薬売りはいつもの口調なのに、いつものような怪しい笑みではなかった。
 だからは、こくりと頷いた。




「どうして、私なんでしょう」

 鋏の音が規則的にする中で、はポツリと呟いた。
「さあて」
「だって、昨日来たばかりで…」
「モノノ怪に聞いてみないことには、分かりませんよ」
 畳の上に引いた白い紙に、はらはらと黒い髪が模様を描いていく。
「…」
 は俯こうとする。
「動かないで、くれませんか」
「あ、すいません…っ」
 薬売りの一言で、は背筋を伸ばして硬直する。
 そんなを見て、薬売りは口角を上げる。
「まずは、清造さんたちにでも、詳しい話を聞いてみようと、思うんですが」
「そ、そうですね、被害にあった人から何か聞いているかもしれません」
 鋏の音が止むと、今度は丁寧に髪を梳いてく。
 櫛は少しの引っかかりもなく毛先まで流れて行く。
 自分の髪とは大違いだと、薬売りは目を細める。

「髪…と言っていました。何度も」
「髪、ですか」
「どうしてあんなに髪を求めるのか、私が聞いてあげなくちゃ」

 言い聞かせるように呟く声。
 薬売りが鏡越しにを覗うと、その瞳には強い力が宿っていた。

「あれほど怯えていたのは、誰、ですかね」
「う、煩いです…!」

 顔を赤くするを他所に、薬売りはの髪を束ね始めた。
「あの、自分で結べますから」
 慌てるを薬売りは目で制して、いつもが自分でしているように毛先の方で結んだ。


「終りましたよ」
「あ…ありがとうございました」
 照れたように笑う
 少し軽くなった髪には違和感があるけれど、何故だか少し嬉しい。
 鏡で髪を確かめて、ふといつもと違うものに気が付いた。
「…」
 は自分の髪を手繰り寄せて、その結ばれた所を直に見る。
「あの…」
 それから振り返って薬売りを見上げる。
「これは?」
 見慣れないものに、は戸惑いを覚えた。


 真新しい髪紐。


 抜けるような空の青と、しなやかな草木の緑、そして白。
 その三色の紐が綺麗に編みこまれた結び紐。


 薬売りは口角を上げる。


「魔除け、ですよ。…今度こそ、正真正銘の、ね」
「今度こそって…?」
「…」
 首を傾げるに、薬売りは答えるつもりはないらしい。
 は敵わないといった風に肩を竦めて、今度は笑った。
「ありがとうございます。…薬売りさんの着物と、同じ色ですね」
「…」
 の言葉に薬売りは、また無言だった。
 答えるつもりがないのではなく、閉口したのだ。





 あまりにも、無意識だったから。




 その色を、選んだとき―。

















NEXT














ここで漸く薬売りさんは髪紐を渡せたわけです。
幕間の髪紐は、実はこの話を作った後に考えました。




2011/1/30