「あぁ、お二人さん」
宿を出るとき、主人に声を掛けられた。
「? どうかしたんですか?」
暖簾の向こうに行ってしまっていた薬売りの代わりに、が答えた。
「さっき早々と瓦版が売っていたんで、読んでみたんだが…」
薬売りは暖簾をくぐって中に戻る。
「どうやら娘さん以外にも、髪を切られた娘がいるって話だ」
「…そんな…」
は薬売りを見上げて、困惑した表情を浮かべる。
「あれでは、不足、ということですか」
「朝のうちに髪結いのところに行くって聞いたが…、あんたたちも行くのかい?」
「はい、少し話を聞かせていただこうかと」
「なら、そこで会えるかもな。…しかし」
主人は腕組みをして考え込む素振りをする。
「しかし、何でしょうか、ね」
「お前さんは大したこと無かったようだが、瓦版の娘は、酷い有り様らしいからな。自分も切られたなんて言わない方がいいと思うぞ」
主人の言葉に、薬売りとはお互い顔を見合わせる。
それからは俯いて、自分の髪に触れる。
「そうですね…」
「何でアタシがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
店の前まで来ると、突然そんな声が聞こえてきた。
薬売りとはここでも顔を見合わせた。
それから暖簾を手で避けて、中を覗き込んだ。
「こんなんじゃ恥ずかしくて出歩けないわ」
「髪文字足してやるから喚きなさんな」
と同じくらいか、少し年下の娘が鏡を見ながら憤慨している。
その背中で、清造が宥めるように髪を整えている。
「鬘被ったほうがマシよ」
「いっそ“髪を切られた女”って肩書き付けた方が、珍しがって男が寄ってくるかもな」
清造のぞんざいな物言いに、娘の顔は険しくなる。
「清造さん、それくらいにしてください。市さんも自棄にならないで」
平助が仲裁に入ると、市と呼ばれた娘は口を尖らせて清造から顔を背けた。
清造は頭を掻きながら苦笑いで応える。
軽く肩を竦めてから、平助は入口の方に顔を向けた。
「すみませんね、騒がしくて。どうぞお入りください」
笑顔を向けられて、薬売りとはもう一度顔を見合わせた。
「冷やかしに来たなら、帰ってくれます?」
突然訪れた見知らぬ二人組に、市は再び口を尖らせた。
結局、市は髪文字を足された髪を結い上げて、それで渋々納得したらしい。
薬売りと、それに髪結いの二人、そして市は、円を描くように座り込んだ。
「いえ、そういうわけじゃなくて…」
たじろぐ。
「髪を切られたときのことを、覚えちゃあいませんか」
を他所に、薬売りは市に問いかける。
「覚えるも何も…寝てたから…」
薬売りの視線を受けて、市は居心地が悪そうにする。
「では、普段、髪はどのように」
「は? 何でそんなこと」
唐突な質問に、市は間の抜けた声を上げる。
「大した手入れはしてないと思うぜ」
「な!?」
「お前さんの髪を触った正直な感想だ」
清造はそう言ってを見遣る。
「そこの嬢ちゃんに比べたら、手入れなんてしてないようなもんだな」
「わ、私ですか?」
突然話を振られて、背筋に力が入る。
更に、市の視線が突き刺さって変な汗が出る。
「失礼ね、昨日は髪を洗ったのよ。それで髪を下ろしたまま寝たの。それで朝目が覚めたらこの有り様。一体何だって言うのよ」
「髪は、ちゃんと拭いたかい?」
「え?」
控えめな声に、市は眉根を寄せる。
薬売りたちの視線も、そちらに向けられる。
「あ、すみません。商売柄気になってしまって」
平助は困った顔をして弁解する。
「仕方ねぇな、こいつ」
「軽く拭いただけよ。あんな長い髪、水気がなくなるまで拭いてたらいくら時間があっても足りないじゃない」
「…そう…ですか…」
平助は肩を落として残念そうにする。
「何か、あるんで?」
「いえ、ちゃんと拭けばもう少し綺麗な髪になるのにと思って。困ったものですね」
「そう、ですか」
照れたように破顔する平助。薬売りはそれを意味ありげな視線で見ていた。
「何も分かりませんね」
は肩の力を抜いて、ため息混じりに呟いた。
隣に座る薬売りを横目で見る。
「薬売りさん?」
の声に答えることなく、何か考え込んでいるようにも見える。
「…もう」
「なぁ、嬢ちゃん」
呆れているに、清造が声を掛けた。
「あの、清造さん。私、といいます。嬢ちゃんはちょっと…」
「あぁ、悪いな。で、さん、あんた髪切ったのか?」
身体を仰け反らして、清造はの背中に視線をやる。
それに釣られて平助も市もそちらを見る。
「え…っと、その」
答えるべきかどうか、薬売りに助けを求める。
宿の主人には言わないほうがいいと言われた。
「切られたんですよ、昨夜」
の視線に、薬売りが答えた。
「ほ、本当か!?」
「大丈夫ですか!?」
三人は目を丸くする。
「は、はい。切られたのはほんの少しでしたし、薬売りさんが整えてくれました」
「そうか…」
よかったとは言わないが、二人とも肩の力を抜いた。
「紐はそのときに変えたんですか?」
平助がちらりとの背中に目をやる。
紐のことを言われて、は少々恥ずかしくなる。
「…はい」
「こう言うのは何ですが、貴女の髪には、不似合いだと思います」
「え?」
「もっと違う色がいいと思いますよ」
「…そう、ですか?」
普段優しそうな平助でも、髪の事には厳しいのだとは肩を落とす。
自分では、とても気に入っているのに。
「そういうこと、ですか」
二人のやり取りを聞いていた薬売りが、小さく呟いた。
「ちょっと待って、何で貴女はそれで済むの?」
市は不貞腐れた声を上げる。
「それは…」
「切ったモノノ怪本人に聞かなければ、分かりませんよ」
言葉に詰まるの代わりに、薬売りが答える。
「モノノ怪…?」
三人揃って怪訝そうな顔をする。
「モノノ怪は、モノノ怪、ですよ」
口角を上げる薬売りに、不安げに皆首を傾げる。
が。
「何だか知らねぇが、どうせ髪を切るなら本職の俺らに任せてくれてもよくねぇか」
理解しがたい話には首を突っ込まない性質なのか、清造は“モノノ怪”という言葉を追求する事はなかった。
「すいません」
は罰が悪そうに縮こまる。
そんなことを、考えても見なかった自分が恥ずかしい。
「ダメですよ、清造さん」
「何でぇ」
「さんの髪に触れていいのは、俺だけ、ですから」
そんな科白に、を含めた四人は固まった。
「あぁ、あぁ。言ってろ、言ってろ」
NEXT
…薬売りさん…。
2011/2/6