天気雨の夜

黒髪切り〜五の幕〜






「あの、御免ください」



 不意に暖簾が揺れ、女が一人姿を現した。
「紫苑通りの万佐と申します。髪を整えていただきたいんですが」
 よりも幾分年上の、大人びた女だ。
「そりゃあ、構わねぇが、何処をだ」
「はい、この、横の一房です」
 見れば、耳の上、つまり鬢の一部となるはずの髪が、後れ毛のように流れてしまっている。
「実は先日、切られてしまいまして…」
「もしかして…?」
「はい、今騒ぎになっている」
 皆一様に顔を見合わせてから、万佐に視線を集中させる。
「貴女も、切られたのはそれだけなの?」
 市が眉を顰めて尋ねる。
「えぇ」
 万佐は不思議そうに市を見返す。
 面白くないというような顔をして、市は万佐から視線を逸らした。


「とてもお綺麗な髪ですね」
 万佐の髪を梳きながら、平助は穏やかに笑う。
「そう言っていただけると、日頃の手間が報われます」
「どんなことを?」
「大したことではないんですけど、お米のとぎ汁がいいと聞いて、それで漱いでみたり、椿油なんかも…」
「髪にはとてもいいことですよ」
 喜々とした顔を見せる平助。清造もうんうんと頷いている。
「もう年が年なので、髪だけでも綺麗にしておきたくて」
 照れたように言う万佐。
 はそれを聞いて少しどきりとする。
 自分よりも幾つか年上の万佐が、もう年だという。
 きっともう、万佐は嫁いで、子供だっていることだろう。
 は一人複雑な思いをする。

「あぁ、そっか」

 突然、市がやけに明るい声を上げた。

「きっとアタシは若いからこんなに切られたのよ」

「え?」
 市に視線が集まる。
 何を言っているんだと言わんばかりの清造。
 驚いたように目を丸くする平助。
 万佐は明らかに侮辱されたと思っている。
 戸惑うを他所に、薬売りは冷ややかな視線を送っている。

「まだ若くて直ぐ伸びるから、ばっさり切られたの。万佐さんにも、そこのさんにも、気を遣ったんじゃない? そのモノノ怪っていうのは」
「な、何てことを…!」
「だってそうじゃない。アタシ忙しくって髪なんかに構ってる暇ないもの。それに、そんなに入念に手入れしたって、見てくれるのは旦那さんだけでしょうに」
 酷い言い方。
 は正直にそう思う。
 皆あからさまに嫌そうな顔をしている。
「髪に手間隙かけなくても…」


「いい加減にしてください!!」


 突然、平助が声を荒げた。
「平助…?」
「髪は女の命というでしょう? どうしてそんなに蔑ろにするんですか!? 信じられない! 折角女に生まれて飾る事ができるのに、どうして綺麗にしようと思わないんですか!」
 一息にそれだけ言うと、平助は大きく深呼吸をした。
「…な、何なのよ」
「おい平助、少し落ち着け…」
 困惑する皆の中で、薬売りだけは平助を鋭い視線で見つめていた。
「どうしたんでしょう、平助さん」
 傍らにいるは、不安げに薬売りの顔を見上げた。
「さぁて、ね」
 何処か嬉しそうに薬売りは答える。
「いいえ、落ち着いてなど居れません。髪に手を掛けられないなんて、何て酷い! 俺の母も姉も、大層綺麗な髪でしたよ。流行り病に罹るまで、手入れを怠った事はありませんでした。その綺麗な遺髪は、形見として大切に持っています!」
 平助は勢い良く立ち上がる。
「お、おい。人にはそれぞれ考え方があってだな…」
 平助の余りの迫力に、清造のいつもの威勢は何処かへ行ってしまった。
「少し、言い過ぎたわ…、だから、落ち着いてよ」
 平助の怒りの原因となった市も、尋常ではないと感じて謝罪の言葉を投げかけた。
 その時、店の中の空気が変わったような気がした。
 は、いつの間にか部屋の中央に天秤が一つ置いてあることに気付いた。
 薬売りを見れば、手に退魔の剣。

「随分髪が、お好きなようで」

 薬売りが平助に問いかけた。
 目を伏せて、静かに。

「もちろんです!」

「人の髪を、切ってしまうほどに…?」

「な…!?」
 薬売りの一言で、その場が凍りついた。
 視線が、薬売りに集中する。
 平助は険しい顔をしている。

「切って、どうする、おつもりで」

 閉じていた目をゆっくりと開けると、その蒼い瞳は平助を真っ向から睨みつけた。





「どういうことだ…。平助がそんなわけ…」

 目を見開いたまま動けない清造は、ぎこちない声を出した。
 市も万佐も、互いに手を取り合って小さく震えだした。

「…!?」

 不意に声が聞こえてきた。
 怒りにも似た叫び声。

“髪…!”

「…っ」

“綺麗な髪…!!”

 は意味がないと分かっていても、両耳を手で覆う。

さん」
「…聞こえます。髪を求めてます」

 を庇いつつ、薬売りは平助を見据える。



「綺麗な髪は、俺のものだ…! そうじゃない髪なんて、無い方がいい!!」


 その言葉を言うと同時に、平助の周りにいくつもの鋏が現れ浮かび上がった。
 そうしてその鋏は、薬売りたちに切っ先を向けて飛んできた。
 が、襲われたときと同じように。


「きゃぁぁぁぁああ!!」


 市と万佐が悲鳴をあげ縮こまる。
 清造は咄嗟に手近にあった座布団で自分を庇おうとした。
 が。

「破ッッ!!!」

 短い気合の声が響いた。


 鋏の衝撃に備えていた清造は、何も起こらないことを不思議に思った。
 そうして、恐る恐る座布団を下ろす。
 清造が見たのは、沢山の四角い紙が整然と並んで一枚の壁を作っている光景だった。
 その壁のすぐこちら側に二つの背中。
 薬売りと、
 壁の向こう側には、恐ろしい形相の平助。
 いくつもの鋏を札の壁に向けて飛ばしては、奇声を上げている。
「一体…」
 清造の呟く声に気付いて、が僅かに振り返る。
「モノノ怪は、平助さんだったんです」
「モノノ怪…?」
「人の因果と縁が為すものです」
 が言葉少なに説明する。
 それだけの説明では、理解など出来ないことは分かっている。
 けれどは、清造に向かって小さく微笑んだ。

「大丈夫です。私が平助さんの思いを受け止めます。…そして、薬売りさんが救ってくれます」














NEXT






2011/2/13