「あの、御免ください」
不意に暖簾が揺れ、女が一人姿を現した。
「紫苑通りの万佐と申します。髪を整えていただきたいんですが」
よりも幾分年上の、大人びた女だ。
「そりゃあ、構わねぇが、何処をだ」
「はい、この、横の一房です」
見れば、耳の上、つまり鬢の一部となるはずの髪が、後れ毛のように流れてしまっている。
「実は先日、切られてしまいまして…」
「もしかして…?」
「はい、今騒ぎになっている」
皆一様に顔を見合わせてから、万佐に視線を集中させる。
「貴女も、切られたのはそれだけなの?」
市が眉を顰めて尋ねる。
「えぇ」
万佐は不思議そうに市を見返す。
面白くないというような顔をして、市は万佐から視線を逸らした。
「とてもお綺麗な髪ですね」
万佐の髪を梳きながら、平助は穏やかに笑う。
「そう言っていただけると、日頃の手間が報われます」
「どんなことを?」
「大したことではないんですけど、お米のとぎ汁がいいと聞いて、それで漱いでみたり、椿油なんかも…」
「髪にはとてもいいことですよ」
喜々とした顔を見せる平助。清造もうんうんと頷いている。
「もう年が年なので、髪だけでも綺麗にしておきたくて」
照れたように言う万佐。
はそれを聞いて少しどきりとする。
自分よりも幾つか年上の万佐が、もう年だという。
きっともう、万佐は嫁いで、子供だっていることだろう。
は一人複雑な思いをする。
「あぁ、そっか」
突然、市がやけに明るい声を上げた。
「きっとアタシは若いからこんなに切られたのよ」
「え?」
市に視線が集まる。
何を言っているんだと言わんばかりの清造。
驚いたように目を丸くする平助。
万佐は明らかに侮辱されたと思っている。
戸惑うを他所に、薬売りは冷ややかな視線を送っている。
「まだ若くて直ぐ伸びるから、ばっさり切られたの。万佐さんにも、そこのさんにも、気を遣ったんじゃない? そのモノノ怪っていうのは」
「な、何てことを…!」
「だってそうじゃない。アタシ忙しくって髪なんかに構ってる暇ないもの。それに、そんなに入念に手入れしたって、見てくれるのは旦那さんだけでしょうに」
酷い言い方。
は正直にそう思う。
皆あからさまに嫌そうな顔をしている。
「髪に手間隙かけなくても…」
「いい加減にしてください!!」
突然、平助が声を荒げた。
「平助…?」
「髪は女の命というでしょう? どうしてそんなに蔑ろにするんですか!? 信じられない! 折角女に生まれて飾る事ができるのに、どうして綺麗にしようと思わないんですか!」
一息にそれだけ言うと、平助は大きく深呼吸をした。
「…な、何なのよ」
「おい平助、少し落ち着け…」
困惑する皆の中で、薬売りだけは平助を鋭い視線で見つめていた。
「どうしたんでしょう、平助さん」
傍らにいるは、不安げに薬売りの顔を見上げた。
「さぁて、ね」
何処か嬉しそうに薬売りは答える。
「いいえ、落ち着いてなど居れません。髪に手を掛けられないなんて、何て酷い! 俺の母も姉も、大層綺麗な髪でしたよ。流行り病に罹るまで、手入れを怠った事はありませんでした。その綺麗な遺髪は、形見として大切に持っています!」
平助は勢い良く立ち上がる。
「お、おい。人にはそれぞれ考え方があってだな…」
平助の余りの迫力に、清造のいつもの威勢は何処かへ行ってしまった。
「少し、言い過ぎたわ…、だから、落ち着いてよ」
平助の怒りの原因となった市も、尋常ではないと感じて謝罪の言葉を投げかけた。
その時、店の中の空気が変わったような気がした。
は、いつの間にか部屋の中央に天秤が一つ置いてあることに気付いた。
薬売りを見れば、手に退魔の剣。
「随分髪が、お好きなようで」
薬売りが平助に問いかけた。
目を伏せて、静かに。
「もちろんです!」
「人の髪を、切ってしまうほどに…?」
「な…!?」
薬売りの一言で、その場が凍りついた。
視線が、薬売りに集中する。
平助は険しい顔をしている。
「切って、どうする、おつもりで」
閉じていた目をゆっくりと開けると、その蒼い瞳は平助を真っ向から睨みつけた。
「どういうことだ…。平助がそんなわけ…」
目を見開いたまま動けない清造は、ぎこちない声を出した。
市も万佐も、互いに手を取り合って小さく震えだした。
「…!?」
不意に声が聞こえてきた。
怒りにも似た叫び声。
“髪…!”
「…っ」
“綺麗な髪…!!”
は意味がないと分かっていても、両耳を手で覆う。
「さん」
「…聞こえます。髪を求めてます」
を庇いつつ、薬売りは平助を見据える。
「綺麗な髪は、俺のものだ…! そうじゃない髪なんて、無い方がいい!!」
その言葉を言うと同時に、平助の周りにいくつもの鋏が現れ浮かび上がった。
そうしてその鋏は、薬売りたちに切っ先を向けて飛んできた。
が、襲われたときと同じように。
「きゃぁぁぁぁああ!!」
市と万佐が悲鳴をあげ縮こまる。
清造は咄嗟に手近にあった座布団で自分を庇おうとした。
が。
「破ッッ!!!」
短い気合の声が響いた。
鋏の衝撃に備えていた清造は、何も起こらないことを不思議に思った。
そうして、恐る恐る座布団を下ろす。
清造が見たのは、沢山の四角い紙が整然と並んで一枚の壁を作っている光景だった。
その壁のすぐこちら側に二つの背中。
薬売りと、。
壁の向こう側には、恐ろしい形相の平助。
いくつもの鋏を札の壁に向けて飛ばしては、奇声を上げている。
「一体…」
清造の呟く声に気付いて、が僅かに振り返る。
「モノノ怪は、平助さんだったんです」
「モノノ怪…?」
「人の因果と縁が為すものです」
が言葉少なに説明する。
それだけの説明では、理解など出来ないことは分かっている。
けれどは、清造に向かって小さく微笑んだ。
「大丈夫です。私が平助さんの思いを受け止めます。…そして、薬売りさんが救ってくれます」
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2011/2/13