「…な…に…?」
真っ白な空間。
は一人、そこに居た。
床に手を着いて座り込んだ姿勢のまま。
けれど傍にいたはずの薬売りも、倒れこんでいたはずの平助も、驚いて動けずに居た清造も、怯える市と万佐も、何処にも見えはしなかった。
そこには、と、手に触れたままの髪の束の他、何も無かった。
“母さんの髪も、姉さんの髪も、とても綺麗だね”
不意に聞こえてきたのは、少し若い、けれど確かに平助の声。
見ると、白い中にぼんやりと、長い髪の女とそれを梳く男の姿が見えた。
“そう? ありがとう”
聞こえてくるのは優しい声。
温かくて、穏やかな空気が漂ってくるような気がする。
“平助は髪を弄るのが好きなのね”
“あぁ。でも綺麗な髪だけだよ”
“そんなに好きなら、髪結いにでもなったらいいのに”
“俺は二人の髪を梳くだけでいいよ”
“そんな事言って”
“きっと平助のお嫁さんになる人は、髪が綺麗じゃないとダメね”
“当たり前だよ”
きゃらきゃらと明るい笑い声が響く。
「これは…」
髪の記憶。
平助が、まだ母親と姉と暮らしていた頃の。
は息を呑む。
“あの娘、あまり髪に気を遣ってないみたいだ…”
“仕方ないわよ、人それぞれ事情も違えば考え方も違うんだから”
“でも…、それにしたって酷い量の油だ”
“あまり拘りすぎるのも考え物よ、平助?”
“そうよ。そこまで言うなら髪結いになって綺麗な髪を広めれば?”
平助の髪への執着は、昔からのもののようだ。
それはきっと、母と姉の二人が、髪を自慢にしていたから。
そんな明るくて幸せな空気が、突然潰えた。
二つの女の姿が消え、ぽつんと一人、平助が立ち尽くしている。
その右手には鋏、左手には切られた髪が握られている。
“…母さん、姉さん…”
「流行り病で…? それで、髪を」
母と姉が、母と姉の髪が、大好きだった。
真っ直ぐで艶があって。
二人もそれを大切にしていた。
二人が亡くなって、もう伸びる事も手入れをする事もなくなった。
だから、求めた。
綺麗な髪を。
街中を探し回った。
けれど、思っているような髪は少なくて。
それ以上に、髪を気にかける人が少なくて、無性に腹が立った。
は目を閉じた。
あぁ、何て…。
平助の二人への思い、髪への思いが入り込んでくる。
“折角の綺麗な髪なのに、残念だな”
不意に、背後から声が聞こえた。
振り返ると、本当に残念そうな顔をした平助が立っていた。
右手をの方に伸ばして、けれどそれがに届く事はない。
「どうしてですか?」
“君の髪に、俺は、触れないんだ”
「え?」
“今までで一番、理想に近いのに。…触れないんだ”
切なそうな顔でを見つめる。
何故だろうと思ったけれど、は深く追求しなかった。
今は、一刻も早く元の平助に戻ってもらいたい。
「綺麗な髪に、お母さんとお姉さんを求めていたんですね」
平助は、こくりと頷いた。
次の瞬間、は元の場所に居た。
相変わらず薬売りに肩を支えられ、床に手をついて。
「貴女ってぇ人は…」
あの空間に、薬売りは居なかったはずだ。
けれど、薬売りは全てを分かっているかのように、ため息混じりに呟いた。
「俺の仕事を、取らないでいただきたく…」
「え…?」
薬売りは静かに立ち上がると、剣を構えた。
「真と理によって、剣を、解き、放つ―!!」
「…う…ん」
「大丈夫か、平助?」
平助が目を覚まして一番に見たのは、心配そうに自分を見る清造だった。
「清造さん…? いっ!?」
起き上がろうとすると、脇腹に激痛が走った。
「無理すんな」
清造が制して、平助を横にさせる。
「あの薬売りってやつが、お前の中のモノノ怪を斬ったらしい」
もう、ここにはいない。
傍から見ていて、何が起こったのかさっぱり分からなかった。
けれど、何か光ったと思ったら、さっきまで呻きながら倒れこんでいた平助が、完全に気を失っていた。
それからが“もう大丈夫”と言って、薬売りと二人で店を出て行った。
あの娘二人は、完全に怯え切って“何も見なかった”と無関係を決め込んで逃げるように去って行った。
「モノノ怪…」
“斬った”という割りに、脇腹の痛み以外ないのが不思議だった。
それでも、“斬った”のだろう。
身体が軽くなっている。
長年の、憑き物。
二人への気持ちが、ここまでの事態を招いてしまうなんて、思わなかった。
ただ、髪が好きだった。
平助は、店の出入り口の方を眺めて、微かに笑った。
「今ならきっと、触れたのに…」
「何故、あそこに髪があると、分かったんで」
「え?」
宿へ戻る途中、通りの人混みの中で、薬売りが聞いた。
「何か、聞こえたんで」
「あ…」
確かに疑問に思うだろう。
いきなり薬売りに囮になれと言って、自分は道具箱に走ったのだから。
「聞こえました。“ここです”って」
何かが自分の傍を通り過ぎて、誰かの声がした。
「今思えば、あれは」
は立ち止まって胸に手を当てる。
薬売りもそれに合わせて、立ち止まる。
平助の母か姉。
その遺念が髪に宿っていた。
だから、平助と母たちの記憶を見ることが出来た。
そう考えるのが自然だろう。
「平助さん、これからも髪結い、続けますよね」
は人混みに紛れてしまいそうな声で呟いた。
「随分髪が、好きなよう、ですからね」
薬売りは、の髪に触れて答えた。
「さて、あんみつでも、食べて帰りましょうか」
「…私、昨日食べましたけど…」
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2011/2/27