幕間第十一巻
〜温泉宿・弐〜










 髪を拭う手の動きを緩めて、これからどうしようかと考える。


 部屋に戻ったら、あの人は居るだろうか。
 薬売りさんはどうしているだろうか。


 どっちにしろ、すぐには戻り辛い。
 かといって、このままずっとここで髪を拭いているわけには行かないし…。






 一通り髪を拭き終わってから、仕方なく脱衣所も出てしまった。
「どうしよう…」
 なるべくゆっくり歩く。
 露天風呂だったから、部屋まで行くにはまだ多少の道のりはある。
「どうして、こんなに…」
 薬売りさんのことばかり考えてるんだろう…。
 もう、辞めよう。






 部屋の近くまで来たとき、突き当たりの廊下を、あの人が足早に横切った。
 何故だか、憤怒の表情。
 何か気に障るようなことでもあった?


 あまり気乗りはしないけど、私の部屋でもある薬売りさんの部屋に向かう。
 障子に手を掛けた瞬間、声がした。
さん、ですか」
「え…はい、そうです」
 何故だか、薬売りさんの声も、怒気を孕んでいる気がする。
 障子を開けるのを躊躇っていると、向こうから障子が開いた。
 着流しの薬売りさん。頭の手拭も、隈取もない薬売りさん。
 下駄を履いていなくても、私より随分背が高い。
 無表情だけど、やっぱり機嫌が悪いらしい。


「あの、薬売りさん?」
 そこに立ってもらっては、中に入れない。
「何を言われました」
「何って…誰に…」
さん」
 どうしてそこまで怒るのか、分からない。
「私の解釈でいいですか」
 つられて私の声も低くなる。
 薬売りさんは頷いて、私の言葉を待ってくれる。


「“貴女は私みたいに美人じゃないのだから、せいぜい長湯して肌を綺麗にしてなさい。その間の薬売りさんの相手は私がするから”です。因みにお湯を思い切り浴びせられて、目も鼻も耳も痛くて仕方ありません」


「それは、それは…」
 何が面白いの!?
 薬売りさんは明らかな忍び笑いをしている。
 機嫌が悪かったんじゃないんですか?
「…薬売りさんは、何か言われたんですか」
「俺の解釈でいいですか」
「お好きにどうぞ」


「“お連れには美肌になるよう長湯を勧めておいたから暫く来ない。その間にこの上なく綺麗な私を好きにしてしまいなさい”」


 本当は何を言ったのか知らないけれど、私の解釈と方向が同じで面白い。
 薬売りさんは満足したのか、部屋に入れてくれた。
  髪を梳かそうとして鏡台の前に座ると、薬売りさんが更に口を開いた。
「因みに俺は、“綺麗な肌になった連れを待つ”と答えましたが」
 薬売りさんらしい上手いかわし方だなと思う。
 すみません、そんなに綺麗な肌になってなくて。
 でも…。
「それであんなに怒って帰るものですか?」
 髪を梳かす前に、もう一度水気を取ったほうが良さそうだと思って、手拭を取る。
「まぁ、他にも」
 言ったような、言わないような、と恍けている。
「別に…どうでもいいですけど…」
 私には、関係のないこと。
 薬売りさんが何をするとか、誰とどうこうするとか、そういうことは薬売りさんの自由で、ただの助手で、モノノ怪から守ってもらうために同室になっただけの私に関係なんてないもの。


「…?」


 髪を拭いている筈の左手が、動かない。
 鏡越しに見ると、薬売りさんが私の左手首を掴んで、同じように鏡越しに私を見ている。
「くすり、うり…さん…?」
「どうでもいい、ですか」
 どうして怒るの。
 手から手拭がするりと畳へ逃げていく。
「だって、薬売りさんが何をしようと、薬売りさんの自由じゃないですか」
 強張った口からは、途切れ途切れの抑揚のない声しか出なかった。
「それはそう、ですがね」
 腕を引っ張られて、薬売りさんと向き合うようになる。
 何か、気に入らないことでもあるの。
 向けられた青い目から逃れようとは思わない。逆にしっかりと見返してやる。
「薬売りさんが何をしようと自由ですけど、私が薬売りさんの連れで、助手であることは変わらないと思ってます」
 私が強く言い放つと、薬売りさんは少しだけ目を丸くした―ような気がした。
「それは、もちろん」
 すぐにいつもの笑みになる。
「だから…」
 私は、必要ないと言われるまで、ついて行きます。


「だから私の目の届くところで、無粋なことはしないで下さい」


「何ですか、それは」
 珍しく聞き返してくる薬売りさん。
「そういう時は、他で宿を取ってくださいって言ってるんです」
「…」
 あれ、何か…。
 呆れてる?
「面白いことを言う」
 面白いと思ってる顔じゃないですよ。真顔過ぎます。
「俺にそのつもりはないし、それでは、貴女を守れない」
「そんなに責任を感じなくても…」
「貴女がもし、男に襲われたらどうしますか」
「そんなこと起こりま…っ」
 性質の悪い男に、ついこの前出くわしたばかりだ。
「でも、これまでだって自分で何とかしてきました。薬売りさんにはモノノ怪から守ってもらえれば…」
「それでは、俺の立場がない」
「立場って…」
 そんなこと気にする性質なんですか。
「連れが困っているのに、助けないのですか、貴女は」
「…助けます…」
 もし、万が一、有り得ないとは思うけど、薬売りさんが何か困っていたら、私は迷わず助けます。だって、連れだもの。
 薬売りさんだって、あまり色々なことに関心のある人だとは思わないけど、それでも、そこまで薄情な人ではないと思う。


「では、互いに、助け合いませんか」


「はい?」


「この間や、つい今しがたのように、誰かに言い寄られた時は、俺達は恋人だということに、してはみませんか」


 な…


「もちろん、ふり、ですがね」
「あああ当たり前です!」
 違う、これじゃ了解したみたいじゃない。
「じゃなくて、ちょっと待ってください!!」
「決めた相手が居るとしておいた方が、面倒が少なくて済みますからね」
「面倒って」
「俺は、薬を買い求める客以外への愛想は、持ち合わせちゃあいませんから」
 モノノ怪関連でも、多少、と付け加える。
「言い寄ってくる女の人が、随分いらっしゃったんですね」
「それほどでも、ないですよ」
 !? 自慢ですか!?
 薬売りさんに言い寄るくらいだから、きっと自分に自信がある人が多かったんだと思う。
 それを毎回断ってたなんて、薬売りさんも珍しいというか。
 断るのが面倒なら、いっそ…。
 待て待て。
 一度深く息を吸って、頭を落ち着かせる。
「そうですね。恋人がいるというのは、面倒ごとを減らすためのいい材料になりますね」
 我ながら刺々しい言い方だと思う。
「怒りましたか」
「怒ってません」
「怒って、いますよ」
 どうしても薬売りさんを見ていられなくて、顔を背ける。
「…そりゃあ、体のいい厄介払いの道具な訳ですから…」
 私は言い寄られることなんて滅多にないから、それはもちろん薬売りさんのためのものだ。
 それに、薬売りさんの恋人なんて、周りからなんて言われるか。
 例え“ふり”だとしても、私と薬売りさんとでは全然釣り合わない。説得力がない。


「では、一つ、いい事を教えましょうか」
 そう言うと薬売りさんは、また鏡越しに私を見てきた。
 私はそこからも顔を逸らす。聞きたくないというように。
 でも薬売りさんは、私には構わずに続けた。
「あの人には、“貴女は俺の趣味ではない”と言ったんですよ」
 それが、何だって言うの。
 ちらりと鏡を窺うと、薬売りさんはまだこちらを見ている。
「“俺は、大きなつぶらな目が、好みなもんで”と」
 薬売りさんが私を見ている意味が分かった。
 確かに私は、子どもっぽい丸い目をしている。
「それは、私のことを言ったつもりですか」
 鏡の中の薬売りさんは、薄く笑って肯定した。
「信じたんですか、それを、あの人が」
「貴女はやはり、俺達は夫婦でもなんでもないと、言ったようですね」
「当たり前です」
「人を馬鹿にして、と帰って行きましたよ」
 まさか。
「あの手の女は、己の矜持を汚すものを嫌う。これまで、さぞ多くの男を手玉に取ってきたと見える。が…」
「薬売りさんが、自分よりも私を選んだことが気に入らなかった上に、実は夫婦だったのに私に嘘を付かれて気に入らなくなったと」
「まぁ、そんなところです」
 何かとっても気の毒に思えてならない。
 本当は夫婦でもなんでもないのに、嘘を付かれて馬鹿にされたと思って。
 だけど私がいなくても、薬売りさんはきっとあの人を拒んだ。
 どっちにしても、狙った相手が悪かったのよ。


「同情することは、ありませんよ」
「してません」
「俺は初めから、そんな甲斐性は、持ち合わせていないもんで」
「何のことか分かりません」
 どんな甲斐性?
 本当に遠まわしにものを言う人。はっきり言ってくれないと分からない。
  だけど、これだけは分かる。
  この人は、本音なんて言うつもりはきっとない。


  私が黙っていると、薬売りさんは私の手を軽く引いて、自分に注意を向けさせる。
「俺が一人で“趣味じゃない”と言うより、実在の人を“好いている”と言ったほうが、相手も諦められる」
「そうですね。薬売りさんがそういうなら、そうしてください」
 もう、何も考えまい。
「絶対に、言い寄ってきた人にしか言わないという条件で。“ふり”もその人の前でだけです」
「はい、はい」

















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もうちょっと続きます…
2010/1/30