幕間第二十三巻
〜仮初の・壱〜










 ―ピシャリ!!






 勢い良く障子が開いたかと思うと、勢い良く閉まった。
 薬売りが其方を見ると、が障子にもたれかかっていた。

、さん…?」

 見ればは強張った顔で、更に頬を赤く染めている。
 肩が上下して、呼吸が速いのだと分かる。

「どうか、したんで」
「なっ、何もありません」

 誰が見ても聞いても、嘘だと分かる声音。
 その場から動かないを、薬売りは窓際に座ったまま黙って見つめる。

「そのようには、見えないんですがね」
「…あのっ…」

 縋るような目で、薬売りを見る
 目が必死だ。




「夫婦になってくれと言われました…!!!」




 その言葉に、薬売りが動揺したことに、は気付かなかった。






 仕事が早く終って、寄り道しながらも宿への道を歩いていたは、微かに声を聞いた。
 気になって其方に向かうと、そこは小さな墓地があった。
 その片隅に立つ木製の墓碑に向かって、手を合わせている若い男が居た。
 は暫くその男を眺めていたのだが、ふと、声が聞こえた。

“もういいからお行き”

 柔らかい男の声。
 が声の元を探すと、墓地のもっとずっと奥の方に老人が立っているのが見えた。
 優しそうな、けれど哀しそうな表情が遠目にも分かった。

“お前のせいじゃあないのだから”

 この老人は、この若い男のことが気がかりでここに留まり続けているのだと分かった。
 は、そっと耳を傾けた。






「…修次郎さんですか?」

 一通り老人の声を聞いて、は思い切って若い男に声を掛けてみた。

「誰だい? どうして俺の名を知ってる?」

 驚いた顔でを見る男は、思いの外いい面構えをしている。

「えっと…」
 何と言えばいいのか。
「辰蔵さんが、貴方の事を心配してます」
「っ!! 何故あんたが親方の名を…」
「あそこに、立っておられます。貴方の事が心配で、ここに留まっているんです」
「そんなわけあるか」
「貴方が工房を出て行ったのも、自分が死んだのも、貴方のせいではないからと言っています。恨んではいないからと…」
「あんた、何で…」
「全部辰蔵さんが言ったことです。自分の死を受け入れて、早く工房を再開してくれと」
「俺にそんな資格なんてない!」




 老人―辰蔵が言っていることだけでは、彼らの事情は分からない。
 けれど、このまま辰蔵の思いがここに留まり続ければ、モノノ怪にならないとも限らない。
 辰蔵の思いには、その危うさがあった。
 人を思い、現世を思っている。



「私には、詳しい事情は分かりません」
「だったら関わるな」
「でも、このまま辰蔵さんの思いがここに留まったら、危険な事にならないとも限らないんです」
「何を言ってるんだ、あんた…」
「この思いが辰蔵さんであるうちに、天に昇らせてあげてください!」



 思うが故に、モノノ怪になったものを、は知っている。
 だから、モノノ怪になって薬売りに斬られるよりも、自ら納得して逝ってほしい。



「…変な女だな、あんた」
「よく言われます」
「俺は…」



 そう言って、修次郎は自分の話をしだした。

 辰蔵が親方をしている硝子細工の工房に弟子入りした事。
 何年も下働きと硝子吹きをして。何年も墨付けをして。何年も彫刻の修行をして。
 けれどいつまでも認めてもらえず、気が立っていた。
 辰蔵には幾度となく怒鳴られ、苦労して彫り上げた切子を見てもくれないことなど日常だった。


 そこへ、他所の工房から引き抜きの声が掛かった。

 そこでなら、自分の力を認めてもらえると思った。

 だから、それまで育ててもらった辰蔵を裏切って、他所へ移った。


 けれど移った工房は、何人も弟子という名で職人を抱えて競わせて、出来た切子を親方の作品として世に出している、そんな工房だった。

 自分が失くなっていくのが分かった。

 そうして気が付いた。
 辰蔵は、自分を認めていない訳じゃなかった。
 もっと上を目指せると思ってくれていた。
 だからこその厳しさ、だからこその修行だと。



 そうして、辰蔵が一度だけ『いいものだ』と言って売りに出してくれたことを思い出した。
 たった一度だけ。

 日々の修行の中で、忘れてしまっていた。

 辰蔵は確かに修次郎の成長を、喜んでいた。

 辛い日々ばかりが目立って、良かった事など忘れてしまっていた。




 思い直して、工房の戸を叩いた。
 出て行ってから、何年も経ってからだった。
 工房の中から聞こえたのは、女の声。
 辰蔵の妻のものだった。

 つい三日ほど前に、亡くなったと聞いた。
 思うように切子が売れず、外に働きに出る事ようになったらしい。
 次第にそちらが中心の生活になり、身体を壊して寝込んでしまった。

 最後に呼んだのは、妻の名ではなく、唯一の弟子の名だった。




「もっと早く、大切な事が何なのか気付いていれば…」
「貴方のせいじゃ、ないです」

 握りしめた拳は、色を失うほど。

“お前には、あの工房を継いでもらいたい。何もない工房になってしまったが…”

「…辰蔵さん…」
「…親方がどうしたんだ」
「工房は、貴方に継いでもらいたいって」
「親方が…!?」

 頷く
 修次郎は、辺りをきょろきょろと見渡す。
 けれど、辰蔵の姿が見えるわけもなく…。

「貴方を、信頼してるって…」
「こんな俺を…」
「貴方だからこそだって。戻ってきてくれた貴方だから」
「…親方…!!」


 涙を流す修次郎は、何処へともなく叫んだ。



“戻ってきてくれて、ありがとうよう、修次郎”














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ちょっと続きます。

2010/7/24