幕間第二十三巻
〜仮初の・弐〜






「それが何故、夫婦になるんですかね」
 には感じ取れないほど微かに、不安げな色を混ぜた声で薬売りは聞いた。
「わ、私もよく分からないんですけど」
 狼狽えるが、少々気に入らない。
 あの決め事を、忘れたわけではないだろう。






「分かったよ、親方。俺は、あの工房を継ぐ」

 涙が途絶えてから、修次郎はそう決意した。
 哀しみはまだ消えては居ないが、今は前を向ける。

「あんたのお陰だ。あんたのお陰で親方の気持ちを知ることが出来た。不思議な人もいるもんだな」
「いえ、私はただ…」
 辰蔵がモノノ怪になってしまうような危うさを感じ取っただけだ。
「あんた、名は?」
です」
さん…。なぁ、俺と夫婦にならねえか?」
「は…い…?」
「ここで出会ったのは、運命だと思わねえか? きっと親方が引き合わせてくれたんだ」
「えぇと」
「あんたのお陰で俺は立ち直れた。きっとこれからも俺にはあんたが必要だ」






「…なんて単純、なんでしょうね」
「私もそう思います…」
 ヘナヘナと座り込むを、呆れた顔で見る薬売り。否、を通して修次郎に呆れた視線を送っている。
「で、貴女は何と?」
「え?」
「貴女は何と、答えたんで」
 まさか、あの決め事を忘れたわけではあるまい。
「“出来ません”と答えました」
「何故?」
「何故って…、当たり前です」
 は口を尖らせる。
 これは、期待をしていいのだろうか。
 あの決め事を、通したのだと。




「私は旅をしたいんですから」

 薬売りは、ささやかに溜め息をついた。

「モノノ怪の声を聞いてあげるんです」

 薬売りは、から視線を外す。



「薬売りさんと一緒に」



 その言葉で、薬売りはちらりとを見る。
 俯き加減のの顔は、良くは見えなかったけれど。
 薬売りは、ふっと微笑んだ。








「それは出来ません」
「どうしてだい、切子の工房の女将といやぁ、結構鼻が高いもんだぜ?」
「出来ません」
「俺はあんたを好きになれる自信がある。年の頃も丁度良い、器量ももってこいだ」
 とはいえ、この時代好きかどうかは二の次だろう。
「出来ません。…だって、私には…心に決めた人が居ます」
「な…」
 どうやら意外だったようだ。
「例えこの気持ちを伝える事がなくても、私はその人を想います」
「脈がなくてもかい?」
「そんなこと、言われなくても承知してます」
 自嘲しているでもない、困ったような笑みが修次郎の目に焼きついた。
「それに、私は旅をしています。だから何処かに根を下ろす事はきっとありません」
 多分、年老いるまでは…。

「たいした女だな、あんたは」

「え?」
「あんたみたいな芯の強い女、きっと滅多にいないんだろうな」
 はっきりと断られて、寧ろ爽快な気分だ、と。
「そうでしょうか…」
 自分が強いと思ったことなど、一度もない。
「あんたに想われてるその人は、幸せもんだなぁ」
「…そうでしょうか…」
 気付かれまいと、必死に隠しているのだから、薬売りが幸せを感じる事はないはずだ。
「でも、気が変わったら、いつでも訪ねてくれよ。弟子を取る気はあるが、嫁は当分取らねえから」
 修次郎はニカッと笑って見せる。
「…そんな予定はありません…」




 墓地を出て宿に向かう途中、冷静に考えてみた。
「…よく考えてみれば、求婚なんてされたの、生まれて初めて…」
 ポツリと呟いてみたが、声に出すと何故だか酷く恥ずかしかった。
 “求婚”という言葉が。
 はっきりと断ってしまったけれど、それで良かったのだろうかと思う。
 もちろん、修次郎も勢いで言ったのだろうが…。
 そんな簡単に求婚してもいいのだろうかと思う一方、こんなに簡単に断ってしまっても良かったのだろうかとも思うのだ。
 考えていくうちに、何故だか歩調が速くなった。
 次第に駆け足になり、宿までを一気に駆けた。




「わ、私…断ってよかったんですよね?」
「何故俺に、聞くんで」
「だ、だって…よく考えたら」
さん」
 薬売りは音もなく立ち上がって、の傍へとやってきた。
 片膝を付いて背中を丸めて、座り込んでいると目線を合わせる。
「一つ、忘れているようですがね」
「な、何をですか」
 ただでさえ動揺しているのに、見つめられて更に身体が強張る。
「“誰かに言い寄られたときは、俺達は恋人だということにする”ってぇ事、ですよ」
「!!」
 すっかり忘れていた。
「…それはっ、完全に薬売りさんにしか必要のないものだと思っていたので」
 それは本当のことだ。
 薬売りが女に言い寄られることなど、ざらにあることだ。
「そりゃあ、思い違いもいいところ、ですよ」
「思い違いって…」
「何のための決め事か、よぉく、考えて欲しいものですね」
「…薬売りさんが煩わしくないように、ですよね?」
「本当にそれだけだと、思っているんで」
「違うんですか?」
 他に何があるというのか。
「それならそれで、いいですがね…」
 薬売りは軽く息を吐いて、立ち上がった。
「な、何ですか、それ!? ちゃんと教えてください!」
 は障子に凭れていた身を乗り出して、薬売りに問いかける。
「断ったのなら、問題はありませんよ」
 それっきり、薬売りは黙り込んでしまった。
 は、不貞腐れたような薬売りに戸惑いながら、治まらない動悸を懸命に押さえ込もうとした。















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…何か薬売りさんが…ね。



小出しにしてすみません。
まだ続きます。

2010/7/24